盗人

※パラレル


幼い頃、親に連れられ海へ行った。
そこには僕の瞳の色をした水があった。
もっと側で見たくて、手に掬ってみたら色が消えてしまった。

「色が盗まれた!」

僕が驚いて叫んだら、親はくすくすと笑った。
海には元々色は無いんだよと教えられたけど、僕は納得がいかなかった。

学校で何故海や空が青いのか習っても、僕は信じなかった。
高校生になった今も、僕は海には盗人が居ると思っている。そいつは海から色を盗むんだ。

ある美術の時間、二人一組で絵を描くことになった。
組み合わせは、先生がクジで決めて。
僕はまだ口をきいたことのない、斎藤君という子と組むことになった。大人しそうな子だった。

絵のテーマは「風景」。
何を描こうかな、と考えていると斎藤君が「すまない……」と呟く。
え? と首を傾げると、俺は絵が下手なのだ、あんたの成績にも響いてしまうから申し訳ないと言われた。

「やだな、二人一組にした時点で目的は成績じゃ無いよ。多分先生なりの気遣いじゃないの? 新しいクラスに皆が早く馴染めるようにってさ」
「そうか……」

僕の言葉に斎藤君はほっとした顔をして、少しだけ僕に笑い掛けてくれた。
その顔を見た瞬間、僕は味わった事のない感情に支配されたけれど、気のせいだと自分を落ち着ける。

それからテーマを一緒に考えた。
正直な話、僕だって別に絵が得意なわけじゃない。余り凝ったものは描けそうにないから……その時、ふと簡単な方法を思いついた。

「この紙の真ん中に一本の直線を引いて、空と海にしちゃおうよ。全体的に青っぽく塗れば完成。ね、楽じゃない?」
「そうか、それはいいな」

斎藤君はまた少し微笑んでくれた。そして左手に持ったペンですっと線を引く。迷いの無い綺麗な線だった。
僕等は机を挟んで向かい合わせに立っている。
だからその線はまるで僕達の間に引かれたようで、小さな紙の中の事なのに、遥かな地平線のような距離を感じた。

こんな事を思うなんて、今日の僕はどうかしている。
いや、さっきの斎藤君の笑顔を見てからおかしくなったんだ。
この感情の名は何だろう。

ぼんやりと思考してる間に、斎藤君は船も描いた方が良いだろうかと悩んでいた。
僕は上手に船なんて描けないよ、と言ったら斎藤君は俺もだと困ったように言った。
少し悩んで、描かない事に決めた。
あんまり下手だと成績に響いちゃうもんね、と言ったら斎藤君はまた笑ってくれた。

じゃあ色を塗ろうかと、僕は爽やかな青の絵の具を手に取った。
すると斎藤君がそれでは明る過ぎないかと言う。

僕は昼の海のつもりでいたけど、斎藤君は夜の海のつもりだったらしい。
彼の目を見ると深い蒼で、あぁ彼の目には夜が宿っていると思った。

「そうだね、じゃあ夜にして……月でも描こうか?」
「いや、やっぱり昼にしよう」
「え、どうして? 夜の方が綺麗じゃない?」
「あんたの目の色のような海にした方が、きっと綺麗だ」

そう言って彼は少し恥ずかしそうな表情をした。見詰めていると、俯いてしまう。
夜が隠れてしまったと、僕は思った。

「そう? でもね、昼の海には色を盗む人がいるんだよ」
「え?」
「だから夜にしよう、斎藤君の目とか、髪の色みたいな……」
「盗む人というのは、何だ?」
「あぁ、海の色を盗む人だよ。だって海は碧いのに、手に掬うと消えちゃうでしょ?」

言った後に後悔した。
高校生の男子がこんなことを言うなんて、夢見がちな恥ずかしいやつだと思われたに違いない。
すると斎藤君は「では今度、俺が捕まえてやろう」と言った。
予想外の答えに、僕は驚く。

「僕のこと、馬鹿にしないの?」
「俺は警察官になりたいのだ、盗人は捕まえねばな」

斎藤君と喋ったのはこの日が初めてだったから、これが本気だったのか、それとも馬鹿なことを言ってしまった僕への優しさだったのかは分からない。

それから話し合って、夜の海にする事にした。
少し大き過ぎる満月を描き足してから、色を塗っていく。
空は僕が塗るからと、先に海の部分を斎藤君が染めていった。
斎藤君の指先が筆を動かす度に、僕の気持ちが揺れていく。

盗人が居ると知っていたのに、僕はどうして海を描こうと言ってしまったのだろう。
夜の海にも盗人は居たんだ。
だって僕の心は、目の前の夜に盗まれてしまったもの。
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