月下の嵐

雪村を護りたくて、風間に渡された変若水を飲んだ。
後悔などしていない、自分で選んだ道なのだから――


羅刹と化してから俺の隊の巡察はそのうち夜だけとなった。
副長の配慮を感じ、有難いと思うのと同時に申し訳無くも思ったものだ。

時と共に当然俺の羅刹の症状は悪化してきて、そのうち血を欲するようになってはきたが必死で堪えていた。
屯所の誰も、俺のこの欲求に気付いてはいない。
……それなのに、気付いていた男が一人。

ある日の巡察終わり、もう屯所に着くという所でたまたま巡察隊の一番後ろを歩いていた俺の腕を誰かが引いた。
そのまますぐに口元を押さえられ、声を出すことが出来なかった。
俺を引っ張った人物を見ると、それはここに居る筈の無い男。そう、俺に変若水を飲ませた張本人、風間千景その人であった。
風間を認めた俺は声を上げようとしたが、しっかりと押さえ付けられた口からは、小さな呻き声しか出すことができない。それならばと、腕の中から逃げ出そうともがいていると、耳元で囁かれた。

「血が欲しいのではないか?」

「血」という単語に俺は瞬間動きを止めてしまうが、すぐに頭を振って否定する。
だが風間はくく、と小さく笑って言った。

「我慢などするな、俺の血をやる」

そして俺の口を押さえている手を離したかと思うと、その手を自分の口元へと持っていき、かりっと指を噛み傷を付ける。
風間の指先から、つ、と流れる血は夜目にも鮮やかで、俺は少しの興奮を覚えごくりと喉を鳴らしてしまった。
俺の欲望を悟っている風間は嬉しそうに微笑み、その指を俺の口の中に入れてくる。流れてくる血は、どんな美酒より俺を酔わせた。
我慢に我慢を重ねてきた分、一度味わってしまったそれに抑えなど効かず、俺はより多くの血を求め風間の指を必死に吸ってしまう。
しかし、すぐ血の味がしなくなる。

「あぁ、塞がってしまったな」

そう言って、俺の口から指を抜く。その指先からは、俺の欲望の糸が垂れていた。
瞬間、激しい羞恥を感じるが、それでも血が欲しくて堪らず、既に傷の塞がっている風間の指先を目で追いかけてしまう。

「これでもまだ、血が欲しくないと言うつもりか?」

問われた時、流石に否定が出来ず俺は黙った。
風間はまたくく、と楽しそうに笑う。

「貴様が巡察の時、血を与えてやろう」

この申し出を、断れない自分が嫌だった。


それから俺の隊が巡察の日は、副長への報告が済んだ後、誰にも気付かれぬよう屯所を抜け出すようになる。
風間とは、寂れた茶屋で逢瀬を重ねた。
指先の傷ではすぐ塞がってしまうので、俺が血を吸いやすい場所を探して、会う度に風間は自分の身体に傷を付けていく。
風間の傷が塞がるまでが、俺達の逢瀬の時間。
会うたびに風間が自分に付ける傷が深くなっていくのに気付いてはいたが、その分沢山血を飲めるからと、俺はその理由を深く訊ねたりはしなかった。

そしていつしか、血を与え、与えられるだけの関係ではなくなっていく。
すぐに別れるからと、いつも茶屋の灯りは点けずにいた。この日も変わらず灯りなど点さずに居たのに、その日は満月で、部屋には眩しい程の光が差し込んでいる。
風間の血を飲み終えた俺が、ふと風間を見上げた時、月明かりに照らされたその目がとても寂しそうに見えた。
この時、どうしてだか俺は風間から目が離せなくなりその目を見つめ続け、その俺に風間の顔が近付いてきて……

この日、血よりも甘美な時間を過ごした。

それからの俺達の逢瀬は、短い時間ではなくなっていく。逢うたびに、俺の気持ちは揺らいでいった。
血よりも欲しい物が出来てしまった。俺も風間も決して口にはしなかったが、恐らく同じ気持ちで居たのだと思う。

そんなある日、巡察前に副長に呼ばれた。

「斎藤、お前巡察のある日は必ず抜けてるみてぇだが、何かしてんのか?」

気付かれているなどとは思わなかった。抜ける時はかなり気を遣っていたし、誰にも見られていないと思っていたからだ。

「どうなんだ? 何か隠してやがんのか?」
「いえ、そんな事はありません……」
「それじゃあ今夜は屯所に居るな? 理由もねぇのに、抜ける必要なんざねぇからな」

副長は、俺を間者ではないかと疑っているのだろう。
風間と会っているなどと言えば、薩摩と繋がっているのかと即座に斬られてしまうに違いない。
しかし「血を貰っているだけだ」と言った所で、俺を羅刹化させた鬼からそんなことをされるなどおかしいと、結局疑われてしまうのだろう。
俺の返事は一つしか無かった。

「はい、今夜は屯所に居ます」

今夜は行けないと風間に伝えたいのに、伝える方法が無い。
だから巡察が終わって部屋に戻ってからは、ずっと落ち着かなくて、風間のことが気になって――結局、俺は丑三つ時を待って屯所を抜け出てしまった。
細心の注意は払っていたし、誰にも見られていないはずだったのだ。
待ち合わせの茶屋に着いた時にも辺りを確認したが、誰も居なかった。確かに居なかった筈なのに……。
風間の居る部屋に入って少しもしないうちに、部屋の襖がすっと開き、顔を出したのは。

「総司……!」

何故総司がここに?
俺は思考が上手く巡らずただ焦った。総司は総司で、驚きながら訊いてくる。

「何で一君が風間と会ってるの?」

何故、と問われても簡単には説明など出来ず、けれど俺が戸惑っている間にもそれぞれがそれぞれの思惑でもって行動を開始していた。
総司が腰の刀をすらりと抜く。

「悪いけど、一君は新選組の人間だから。鬼なんかには渡さないよ」
「無礼な。この俺が、人間如きを欲しがるとでも思っているのか?」

風間も応戦の構えを見せ、既に刀の先を総司に向けていた。
次の瞬間、俺は動いた。
誰にも死なれたくないと、こんな時代に馬鹿みたいな願いであったが、それでも矢張り無益な血は流さないで欲しいと思って、俺が庇ったのは――総司。

俺の後ろで総司が驚くのを感じたが、そんなことはどうでも良かった。
月明かりを後ろから受けている所為で、目の前で俺を見つめる風間の表情がよく見えない。
けれどその風間が俺の名を呼んだ声に、震えが混じっていたのに気付かない訳にはいかなかった。

「こんな場所で、殺し合いなどするな」

原因は俺ではあったが、どうしても止めたくて。鬼の風間が人間の俺の言葉を、どこまで聞いてくれるかも分からなかったが、それでも俺は何もしないで欲しいと願った。
後ろで総司が「一君、退いてよ」と言っていたが俺は動かず、ただ風間を見つめている。
ゆらり、とこの場に似つかわしくない程に優雅な動きで刀を納めながら、「そうか」と小さな声で呟き、風間は窓へと向かった。
月明かりを受け、はっきりと見えたその顔はまるで――まるで泣きそうに見えた。

「もう会わん」

それだけは確かな口調で言い放ち、風間は窓から飛び降り去って行った。
それまで風間の居た場所に小さな小瓶が転がっているのが見えて、急いで拾うと紅い液体が入っている。
変若水かと思ったが、中身は血であった。

その小瓶は、随分と温かい。風間がずっと持っていたのだろう。
もしかしたら、会う度に持って来ていたのかもしれない。この小瓶を渡せば済んだのに、わざわざ自分の身体に傷を付けていたのは……。
どう思えば良い? どう考えれば良い?
自分から変若水を渡しておいて、俺を心配していたのであろうか? 人間である俺を?
まさかとは思うのに、では何故血を分け与え、あまつさえ俺との逢瀬を楽しんだのか。小瓶を見つめる俺の後ろで総司が「あーぁ」と溜息を吐いた。

「一君が邪魔するから、逃げられちゃった」

そう言いながらも、土方さんに俺の事を頼まれて来たのであろう総司は、俺に何があったか訊かずにいてくれる。

「帰ろう、一君」

そして俺を立たせようと、腕を引いた。
瞬間、思い出されたのは、初めて風間が俺の腕を引いた日の夜。あの日に風間の血を貰い、それから風間と逢瀬を重ねた。
けれど今俺の腕を引くのは風間では無くて、総司は俺が血を欲しているのもきっと知らなくて、そしてその命を俺が守ったのも、恐らく知らない。
総司一人では、鬼の風間に敵わない。
俺が止めなければ死んでいたのは間違い無く総司で、俺は……俺が総司を庇ったのは、風間の方が強いと知っていたからだ。
恐らく風間の「そうか」の一言は、あの泣きそうな表情は、人間の俺が庇うのは結局人間なのだと思ったからに違いない。
けれどそれは違う、俺は風間に人を殺めて欲しくなかった。

それはつまり、俺は風間を大事に想ってしまっているに外ならないのに。
それなのに、もうそのことを伝える術も、伝える機会も持ち得ないのだ。
風間と会えていた時に、たった一度でも伝えておけば良かった……好きなのだと。



雪村を護りたくて風間に渡された変若水を飲んだ。
後悔などしていなかった、自分で選んだ事なのだから。

そのはずなのに。

いま、俺の心を駆け巡るのは後悔の嵐。
あの時死んでいれば、あの時伝えておけば、今日来たりなどしなければ…………。

泣きたくなった。
総司が居るから堪えたけれど、俺は屯所に戻ったらきっと涙が止められない。

総司に手を引かれて屯所へと戻る道すがら、俺の手の中で小瓶が温まっていった。

2010.04.12
※「SHIRO×KURO」の鞠様へ相互記念の捧げ物

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