藤の花の下で

※土方羅刹化


そこにはただ、静かに降り落ちる藤の花があった。




はらはらと舞い落ちる藤色が、下に広がる紅を隠していく。
そこに倒れる隊士へ近付くと、後ろから突然片腕を取られた。
振り向く間も無く腰を抱かれ、身動きが取れなくなってしまった。

何者だ――?

決まっている、そこの隊士を斬り付けた、血に飢えた狂いであろう。
敵か?
その時俺は、倒れている人物が羅刹であるのを認めた。

視線だけで辺りを見回すが、人の気配はまるで無い。
では敵ではなく、屯所から抜け出た羅刹の仕業であろうか。

突如、耳元で俺の名を呼ばれた気がした。

「何だ」

圧倒的に不利な体勢で、それでも俺は毅然と言い放てたことだろう。
だが次に掛けられた言葉で、俺の心は酷く揺らいだ。

「斎、藤……」

言葉そのものではない、その声に動揺した。
聞き覚えのあるこの声は、嗚呼間違うはずもない。いま、俺を捕らえているのは、

「副長……」

ではこの隊士を斬り付けたのは、殺してしまったのは――……

呻くように俺の名を呼ぶ副長が、震えているのは血に飢えているからではない。一時でも血に負けてしまった己を恥じているのだ。
だからこそ、後ろから近付いた。副長は、そんな自分を見られたくなかったのだ。
俺の名を呼んだあと黙ってしまった副長と、掛ける言葉の見付からぬ俺は、ただ静かにその場に立ち尽くす。
副長に捕まったまま、俺は隊士の上に降る花びらを見ていた。
月明かりに照らされて、しかし時折影が差し黒ずむその花は、羅刹になる前の副長の瞳を想わせるから、俺は目が離せなくなった。



満ちた月が狂わすのは、人か、羅刹か――


この人に血を与えたいと思う俺は、果たして狂っているのだろうか。

「副長、俺の血を……」
「駄目だ」
「しかしそのままでは、屯所に戻れぬのではありませんか?」

俺の腕を掴む副長の手に、力が篭った。
折れそうな程に強く掴んでくるその手は、力とは裏腹にまるで俺に縋っているようで。

「せめて顔を……見せては頂けませんか?」

副長は無言のまま、力を緩めた。俺はそろりと後ろを向く。徐々に身体を動かして、とうとう向かい合ったその時、背中に副長の腕が回された。

「お前の血だけは飲まないと、決めてるんだ」

俺を抱き寄せながら、そう告げる紅い目は真摯で。
このまま俺だけを映してもらえたのなら、俺はどんなに幸福であろうか。

風も無いのにはらはらと、藤の花びらが舞い落ちる。
副長の白い髪に一枚、また一枚と薄紫が積もっていく。
現実感の伴わぬ色彩に、俺は心を奪われた。

髪が白くなろうとも、瞳が紅くなろうとも、この人は間違い無く俺の知る副長なのだ。
その事実は変わらない。

変わらぬものはそれだけではない。どんな姿になろうとも、何があろうとも、俺は副長を――


「愛しています」


副長の目が驚きで見開かれ、そして逸らされた。
言うなと、呟かれる。
もう俺は人間ではないのだと、胸の痛む程悲痛な声で。
そんなことはありません。例え副長がどのようなお姿になろうとも俺は――
俺の言葉を受け、ふいに副長の視線が俺に戻された。
未だ紅い瞳は戸惑いに揺れ、けれど吐き出す言葉に迷いは無く。

「ならば今夜は――」

今夜は屯所には戻らないと。
そう言って、副長が俺の手を引いた。

月に向かって歩く俺達の後ろ。
そこにはただ、静かに降り落ちる藤の花があった。

2011.11.30
+涼香様に捧げます

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