夜をくるむ温度


 「南雲」と呼べば、本来は南雲じゃないと言う。それではと「雪村」と呼んでやったのに、今度は妹の代わりにする気かと怒り出す。仕方なく「薫」と呼んで、ようやく「何だよ」と返事をされた。本当に面倒な男だ。同族でなければ殺している。
 そんな面倒な部分も含めて絆されてしまったのだから、自分の気持ちの方が余程面倒なのだが。

「散歩に行くぞ」

 俺の屋敷に連れてきて以来、俺の側から離れない薫の気晴らしになればと思い、わざわざ誘ってやったというのに、返されたのは軽蔑するような眼差しと、生意気な言葉だけだった。

「何でだよ」
「ずっと屋敷にいては、飽きるだろう」
「……別に、飽きたりしない。広いから」
「俺が外出したいのだ、付いて来い」

 そう言うと、何で俺がお前の命令を聞かなきゃならないんだと文句を垂れながらも、薫は後をついて来た。
 月明かりも僅かにしか届かない暗い山道を、ゆっくりと下って行く。わざわざ出掛けるのを夜にしたのは、薫の手を取るためだ。危ないから掴まれと差し出した俺の手を、薫は口では嫌がりながらも素直に握る。強く握り返すと「痛いんだよ」と怒られたが、気にせずそのまま歩いて行く。

 麓近くまで下りてから、何の断りもなく薫を抱き締めた。どうせ抱き締めて良いかと訊ねたところで、文句か罵倒しか返ってこないと分かっているからだ。
 突然俺の腕の中にくるまれた薫は、予想通りに喚き始めた。けれど口で言うだけで、暴れたりはしない。そっと顔を近づけていくと、徐々に薫の口数も減っていく。唇が触れ合いそうになると、薫はとうとう黙って、ぎゅっと目を瞑った――その瞬間だった。

「どうした、大丈夫か?」

 心配する言葉と共に、木の枝を掻き分けて人が割り込んで来た。突然のことに、さすがの俺も驚いてそちらを見る。そこに見えた顔は、よく見知った男のものであった。

「土方……? 貴様、こんなところで何をしている」
「風間か? いや、喚き声が聞こえたから、何かあったのかと思ってな」

 先ほどの薫の声が聞こえていたのか。余計な心配をしてくれる。土方の後ろから「だから言ったじゃないですか」と、呆れた声が投げられた。続いて今度は沖田が顔を出す。何をしているんだ、こいつらは。

「ここは鬼の領土だ、貴様ら人間が入って良い場所ではない」
「うるさいなぁ、文句なら土方さんに言ってよ」
「土方に?」

 土方へ視線を向けると、怒鳴りたいのを我慢しているような表情を浮かべている。本当に、一体何をしていたのだ。

「何だ、まさか迷ったのか?」
「んな訳ねぇだろ」
「ならば何故、こんな場所まで来ている。それも二人で――」

 そこまで言って、察しがついた。恐らく、俺がいま薫を連れ出しているのと同じ理由なのであろう。そう言えば、薫がやけに大人しい。気になって腕の中を見れば、俺に縋るように顔を隠していた。俺に抱き締められていることを、この二人に見られたくないのかもしれない。
 薫を二人から隠すように改めて抱き締めると、沖田が笑った。

「今更隠しても遅いよ。風間が抱き締めてるの、薫だよね?」
「…………」
「見えたわけじゃないけど、さっきの喚き声が薫の声だったからさ」
「分かっているのなら、とっとと去れ。人間とは、本当に無粋なものだな」
「だから覗く必要無いって言ったのに、土方さんが心配しちゃうんだもん」
「薫ってぇのはあれか、南雲薫って野郎のことか? 俺は南雲の声なんざよく知らねぇからな」
「土方さんが知らなくったって、僕がそう言ったんだから放っておけば良かったんですよ。風間なんかにまで会っちゃって、全部土方さんのせいですからね」
「うるせぇな」
「おい、痴話喧嘩なら帰ってからやれ。ここは鬼の領土だと言ったであろう」

 俺の言葉に、土方が戸惑いの表情を見せる。沖田がその後ろで笑っていた。

「風間にはバレちゃったみたいですね、せっかく新選組の人たちに見つからない場所まで来たのに」
「余計なこと言うんじゃねぇよ、もう帰るぞ」

 土方がさっさと踵を返す。はーい、と小馬鹿にするような返事をして、沖田が後に続いた。一度だけ振り返り、千鶴ちゃんはこっちで幸せにやってるから安心して、と言い残して。
 二人の気配が完全に消えてから、腕の力を緩めて薫の表情を窺うと、今にも泣き出しそうな顔が見えた。

「邪魔が入ったな、すまなかった」

 俺はてっきり、二人に見られてしまったことを恥ずかしがっているのだと思っていたのだが、その表情の理由は違ったらしい。

「……お前、俺を選んで良かったのか?」
「何の話だ?」
「お前は、鬼の子供が必要なんだろ? 俺は、女じゃないから……千鶴を選ばなかったこと、後悔してるんじゃないのか」

 いつも生意気なことしか言わないくせに、時折こうして弱気になるから扱いが大変だ。

「聞いていなかったのか? 女鬼は人間の世界で幸せに暮らしていると、言われたではないか」
「あいつの幸せなんて、お前に関係無いだろ」
「そうだな……貴様に会う前だったらな」
「俺?」
「頭領としての使命を果たすよりも、幸せになることを選ぶのも悪くないと、今は思っている」

 俺の言葉に、薫は困ったような顔をした。どう返事をして良いのか分からないのだろう。薫はあらゆる処世術を学んだくせに、愛され方だけは知らないから。
 次に発する言葉を考えているのか、何かを必死に考えている薫のことを改めて見つめる。漆黒の髪とその瞳は、まるで夜を宿したようだ。
 いつまで経っても何も言ってこないから、俺は薫の顎を取った。驚いた真っ黒な瞳が、俺へと向けられる。

「先ほどは、邪魔が入ったからな」

 そう言って、再び顔を近づけていく。薫は焦ったように、「お前の髪色、眩しいんだよ」と喚き始めた。

「ならば目を瞑っていれば良い、土方が現れる前はそうしていたではないか」
「そうだよ、さっきだってお前の髪が眩しいから目を瞑っただけだからな」

 つまり、俺に口づけられるのを待っているわけではない、と言いたいのだろう。嘘が下手だ。そんなところが面倒なのに、なぜだか愛らしい。

「分かっている」

 この俺が、話を合わせてやるなど薫にだけだ。手放したくないのだから、仕方がない。
 ようやく叶った口づけに、目一杯の愛情を込める。俺がこの腕の中の夜を、溶かせるほどの情熱を持っていることに、今の薫は気づけないかもしれないけれど。

2017.07.05




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