雪融けにはまだ早い


 ある雪の日、羅刹隊が隠れて住まう屯所の庭。そこに何故か佇んでいた雪村君に、寒くないですかと声を掛けた。少し陰のある目でこちらを見た彼女の髪は短くなっていて、それが益々寒そうに見える。

「髪を切ったのですね、風邪を引かぬよう気を付けて下さい」
「……俺は、雪村じゃない」
「おや、君の名前は雪村君で間違いないと思うのですが」

 返された言葉の意味が分からず、首を傾げた私にその人物は「千鶴は大切にされているんだな」と言う。

「あなたは雪村君ではないのですか? では、誰なんです?」
「……南雲」

 ぽつりと呟くように言ったかと思うと、その子は背を向け走り去ってしまった。南雲と名乗った子の立っていた場所には雪が積もっておらず、一体何時から居たのだろうかと私はまた首を傾げる。雪村君ではないとなると、世間から隠さなければならないこちらの屯所に、不審な人物が入っていた事になりますが……近藤さんや土方君に報告すべきだろうと頭では分かっているのに、私は何故かこの事を誰にも言わなかった。
 次の日も雪が降っていた。
 またあの子が居るのではないかと真っ先に向かった庭には矢張り、屯所を睨むように見つめるその子が立っている。

「南雲君」

 私の呼び掛けにはっとしたその子は、直前までのきつい目を驚きに変えてこちらを見た。

「何で、俺の名を……」
「あなたが昨日、名乗ったのではありませんか」
「あぁ、お前昨日の奴か」

 顔なんてよく見てなかったとつまらなそうに言って、その子はどこか寂しそうに俯く。当然それまで合っていた視線も逸らされることになった。もう一度こちらを見て欲しいと思った理由が、自分でも分からないけれど。

「昨日から一体、何をしているのです?」
「別に……千鶴がどうしてるのか見に来ただけだ」
「こそこそせず、雪村君の知り合いだと言って訪ねてくれば良いではありませんか」
「あいつと会った所で、話すことなんて無い」

 だったら何故、こんな場所にまで彼女を見にやって来たのか。そう訊くのは恐らく簡単なのでしょうけれど、少しでも言い方を間違えたらこの子はまた走り去ってしまうのではないか。そんな気がして、私は質問を変えた。

「では、私の客人としてお入りになりませんか?」

 この提案に不思議そうにこちらを見るその子が随分と愛らしくて、心からの笑顔を見せたのに胡散臭そうな目で見られてしまった。残念です。

「どうでしょう、お茶の一杯くらいお出ししますよ」
「何を……企んでるんだ」
「企む? 私が何を企むと言うのです?」
「見ず知らずの人間を招くだなんて……どうかしてる」
「見ず知らずではありません、昨日も会ったではありませんか」
「それだけだろ、知り合いじゃない」
「ですが君は寒そうです。別に良いでしょう、お茶の一杯くらい」

 小さな舌打ちの後に、馬鹿じゃないのかという悪態まで聞こえたが、それでもその子は私の立つ方に向かって歩いて来る。

「私の部屋はあちらです」

 静かに屯所へと上がった南雲君を部屋に促す。相変わらず不審げに見てくるくせに、足を素直に私の部屋へ向かわせているのが可愛かった。部屋に入り障子を閉めると「俺を殺すのか」と問われ、思わず笑顔になってしまう。

「どうしてそう思うのです? 殺すつもりなら部屋に上げたりしませんよ、畳が汚れてしまうではありませんか」
「…………」
「不服そうなのは、私に殺されたくて招かれたということですか?」

 違うと言って怒ると思っていたのに、南雲君は無言だった。

「おや、本当に殺されたかったのですか?」
「違うけど……」
「けれど、何です?」
「別に何でもない、早くお茶でも何でも出せばいいだろ」
「そうでした、少し待っていて下さいね」

 お茶の用意をしに部屋を出た隙に帰られてしまうのではないか、胸に浮かんだ不安は再び自室へと戻るまで消えなかったけれど、予想に反して南雲君は大人しく待っていた。

「あぁ不案内で申し訳ありません、座っていて良かったのですよ」

 立ったままでいる彼に謝罪をすると、南雲君は一瞬驚いたような顔をする。

「畳が冷たい」

 けれどそう言って、ぷいと横を向いてしまった。その横顔が照れているように見えるのを不思議に思う。何故そんな表情を……ふと、この子は親切にされることに慣れていないのではないかと思った。もしそうなのだとしたら、何と揶揄い甲斐のあることか。

「苗字は違うようですが、その顔……君は雪村君のお姉さんですか? それとも妹さん?」

 素直な雪村君とは随分と違うものだと、余り考えずに投げ掛けてしまったこの質問は、どうやら南雲君の気に障ったらしい。

「俺のこの恰好が女に見えるのか?」

 彼の着ている黒い詰襟の服は、確かに女性と思うにはおかしいかもしれない。

「いいえ、ですが雪村君も男装していますから。でも君は本当に男の子なんですね、弟さんですか?」
「わざと言ってんのか? 俺は兄だ」

 どうしたらあいつの弟に見えるんだと、ぶつぶつ言う声が何故か面白くて笑いそうになるのを堪える。

「では妹さんを心配してこんな寒い日に来ていたのですか、妹想いの優しいお兄さんですね」
「ちがっ……違うけど、お前には関係無い」

 違うと言い掛けたところで南雲君は冷静になったらしく、この会話を止めてしまった。変に追及してこれ以上気分を害させるのも得策ではないだろうと、私もお茶を淹れる方に気を向ける。とぽとぽと湯呑みに注がれる水音が、静かな部屋にはよく響いた。

「さぁどうぞ、熱いですから気を付けて」

 呈されたお茶を黙って受け取った彼が、二口ほど飲んだところで名前を尋ねると、南雲だって言っただろと軽蔑するような目を向けられる。

「私は下の名前を訊いたつもりだったのですが」

 そんなことも分からないのですか、と言外に含ませて言うと今度はばつの悪そうな顔で「薫」と返された。

「良いお名前ですね」
「別に、俺は好きじゃない」

 ずず、とお茶をすする音がする。少し生意気な口調に似合わず、お茶を飲んだ彼の顔はほっとしているように見えた。

「美味しいですか?」
「まずくはない」
「そうですか、それは良かったです」

 にこりと笑って私もお茶を啜る。一息ついてから、何をしに来たのですかと再び訊ねれば、呆れたように溜息を吐かれた。

「だから、千鶴の様子を見に来ただけだ」
「雪村君は普段、別の建物の方に居ます。余りここに来ることはありませんが、様子を確認出来たのですか?」
「見られなかったから今日も来たんだ」
「ここに居たのでは、今日もきっと見られませんよ」
「…………」

 黙った彼の表情から、私は一瞬で悟った。

「君、それを知っててあそこに立っていましたね? 雪村君のことはただの口実でしょう、本当の目的は何ですか?」

 私の問いに困った表情を見せた彼は、黙って答えを待つ私に気後れしたのか、それとも元々誰かに聞いてほしかったのか、程無くして「雪が」と呟いた。

「雪がどうしました?」
「あそこの庭に、雪が積もり始めてたから……」
「えぇ、それで?」
「外から少し見てたけど、誰も出て来ないし……」

 ぼそぼそと告げてくる彼の言葉は、どうにも要領を得ない。それでも真剣に聞く私に、南雲君は時間を掛けつつも素直に話してくれた。

「雪は、肌に触れると融けるだろ。肌の方が温かいから融けるんだよな、だったら俺の方が雪より冷たくなったら、今度は雪が俺を融かしてくれるんじゃないかと思ったんだ」
「君は、この世から消えたいと思っているのですか?」

 変若水を飲んででも生きたがっている自分のことを考えると、消えたがっているらしい相手に快い感情は持てなかった。それでも彼の瞳の奥に見える悲痛さに、責める気にもなれず複雑な思いが湧き上がる。

「消したいのは俺自身じゃなくて……気持ち」
「気持ち?」
「俺は、千鶴が……千鶴が憎くて、堪らないんだ」

 絞り出すように言われた言葉と、その真剣さに図らずも私は息を飲んだ。

「でもあいつが誰かに酷いことをされるのも嫌だ。だけど幸せにしていると、やっぱり憎い。憎んでも仕方ないって分かってる、千鶴が悪い訳じゃないのも分かってる、だから苦しい……俺を苦しめる千鶴がやっぱり憎い。もうこの感情を、消したいんだ」
「それは……辛いでしょうね」

 私の言葉が聞こえているのかいないのか、南雲君は構わず続ける。

「あの庭には誰も来なかったから、誰にも注意されなくて調度良いと思ったんだ。あそこでずっと立っていれば、その内雪より冷たくなって俺の心を雪が融かしてくれるんじゃないかと思った」

 それ以上は言葉に出来なかったらしく、幾ら待っても彼は何も言ってくれなかった。

「そうでしたか、君は随分と可愛らしいのですね」
「……可愛い? いま可愛いって言ったのか? お前、気でも狂ってるんじゃないか?」

 驚いたように言う彼が矢張り可愛くて、ふふっと笑うとまた彼は何笑ってんだと不機嫌に言う。

「さっき南雲君は、あの庭には誰も出て来ないと言っていましたが、私が来たではありませんか」
「お前が来るまでは、誰も来なかった」
「ですが例え私でなくとも誰かが来る可能性はある、そうでしょう?」
「…………」
「つまり君は、誰かに見付けて欲しかったのでしょう」
「何言って……そんな訳無いだろ!」

 彼は心外だと言わんばかりに声を荒げる。けれどその態度こそが、私の言葉通りなのだと告げていた。

「だってそうでしょう、冷たくなりたいだけなら絶対に誰も来ない山奥にでも行けば良い。誰かが来るかもしれないこんな場所で、雪村君と同じ顔をした人が立っていれば声を掛けられるに決まっています。そんな場所に居るなんて、構って欲しがっているとしか思えませんよ」
「ち、違う! 俺は……千鶴が、嫌な思いをすればいいって思ったんだ。誰かが来たら、酷い事を言って千鶴の立場を悪くしようと……」
「でも君は昨日、真っ先に雪村君ではないと言いましたよね」
「寒かったから、頭が働かなかったんだ」
「おやおや、そうでしたか」
「お前、俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「馬鹿になんてしていませんよ、愛らしいなと思っているだけです」

 そう言いながら、少しずつ南雲君に迫る私に気付いた彼は、何してんだよとまた不審な目を向けてくる。

「南雲君は、その感情を融かしたいのでしょう?」
「そうだけど……」
「では良い方法があります」
「え、そんなのあるのか?」
「ええ」

 頷くなり、唐突に彼を抱き締めてしまった。いきなりの事に南雲君は身体を強張らせ、な、なにしてんだと怯えた声を出すだけだ。

「私の身体、温かいでしょう」
「知るか、離れろよ!」

 腕の中で暴れる南雲君は、その小柄さ故に私の胸にすっぽりと収まってしまって、思うように逃げ出すことが出来ずにいる。

「君はその気持ちを消したいのでしょう? あんなに冷たい雪にまで頼る程」
「何に頼ろうが俺の勝手だろ」
「えぇ、ですから私で試してみませんか?」
「試す?」
「私の熱に触れたら、もしかしたらあなたのその気持ちを融かせるかもしれません」

 どういう意味だよ、と疑問を口にして開かれた彼の唇に、私は躊躇無く口付ける。驚きに吐き出された息すら飲み込んで、尚も深く彼を貪ろうとする私の胸を南雲君の小さな手が押し返した。けれど圧倒的に力が足りない。それどころか私に肩を捕まれて、身動きするのも苦しそうだ。
 幾度も無理に唇を合わせ、やっと離した頃にはもう彼の息は上がっていた。苦しかった為か涙目になって、それでも私を睨み付けてくる心意気が堪らない。

「本当は雪村君を憎みたくなんて無いのでしょう? でしたら私を憎めば良いではありませんか。私ならたった今、貴方に憎まれる理由を作りましたし、調度良いでしょう」

 ね、と微笑み掛けると思いがけない反応があった。困ったように目を逸らした彼から、小さな声で疑問を投げられたのだ。

「お前、さっき俺の気持ち……融かしてくれるって、言ったよな」
「融かすとは言ってませんよ、融かせるかもと言ったのです」

 同じことだろ、と消え入りそうな声で続けられて驚いた。期待してはいけない、期待してはいけないと、何度も自分に言い聞かせながら期待に満ちた問いをする。

「それは、この続きをしても良いということですか?」

 唇を噛み、何かを堪えているような表情の南雲君を見れば、答えなど聞くまでも無いことだったけれど、それでも彼の口から強請られたくて、根気良く続きの許可を求め続けた。漸く視線をこちらに向けてくれた彼は、それはそれは微かな声で承諾の意を呟いてくれたのだ。

2015.02.06
(いつか続きが書きたいです)




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