近付く唇、あと僅か

眼下で白銀が揺れている。
風に流され、雲が月を隠した。それでも尚白く際立つその髪が揺れ、俺と同じ色の瞳が真っ直ぐこちらに向けられた。

「風間……」

口端からは血の匂い。
恐らく今は俺と同等の力があるだろうその男は、妖艶に微笑み顔を寄せてきた。

再び、雲が流れた。
月明かりに照らされた男の肌は死人のよう。それでいてどこか力強い生命を感じさせる。

腕を押さえられていた。
逃げ場は無かった。
けれどそんな事が無くても俺は動けなかったに違いない。
そう、囚われていたのだ。心が、既に。


近付く唇、あと僅か……。
それだけの距離を残して斎藤が口を開いた。逃げぬのか、と。

「このままでは触れ合ってしまうが――」

斎藤の息が笑っていた。
顔を反らせばそれで済むのに、俺は黙って息を飲む。
斎藤の息が掛かる、そう思った瞬間に俺達の距離は埋められていた。

鉄の味がした。
噛まれたのでも切られたのでもない、斎藤が先程飲んでいた誰かの血の味だ。

嗚呼狂っている。
血に酔うのは羅刹だけだ。人でも鬼でもないそれは、つまりはまがい物なのに。
そのまがい物に酔う俺は、果たして何と呼ばれる存在なのだろうか。



2011.09.06

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