※ちょっと痛い表現
がり、と歯が肉を抉る音がして、染みるような痛みがきた。突き飛ばすようにキルアの胸を押して距離を離す。反射というか、生き物の本能のようなものだと思う。
だって、私を好きだと言う男の子は捕食者の目をしていた。
「……私、なにかした?」
「……してない」
口の中が鉄臭い。喋る度に唇の皮が引き攣って、抉れたところから血が滲む。水で洗ったら絶対に悶絶したくなるくらい痛いやつだ。消毒なんて想像もしたくない。
そんな私の唇を、キルアはまるで今にも殺すような顔をして見る。この子本当に私のこと好きなのかな。キスをしている最中に突然唇を噛みちぎるなんて加虐趣味があるのなら早急に改善してもらいたい。
「キルア、本気で噛まれると痛いよ。甘噛みにしてくれないと」
「本気ならそんなもんじゃ済まない」
「あー……手加減してくれたんだね。ありがとう。でも痛いのに変わりないから次はやめてね」
「……」
「返事してほしいなー。お姉さん、こういう擦り合わせって大事だと思うなー」
ピリピリ、ぷちぷちと、口を動かす度に傷が広がっている感覚がする。正直もう喋りたくない。口内炎なんて比じゃないくらい痛い。私のなけなしの余裕ぶった演技はキルアにはお見通しだろうが、私の方が年上なのだからしっかりしなくては。キルアにとっては初めての恋人なのだから、リードのやり方というか、こうしてほしいという要望はしっかり伝えたい。
相手は小生意気な成長期だ。少し進んだキスをしたくなって加減を間違えた可能性もある。いや、手加減したと言っていたから意図的か。
「……怒んねーの」
「うん。でも次やったら怒るよ。私だって聖人じゃないんだから——」
「どれくらい?」
「ん?」
「オレにも同じことするくらい怒る?」
物騒な雰囲気はだいぶ収まっていた。でもまだ二、三人殺したことありますくらいの殺気は感じる。答え次第だとまた唇抉られそうだ。下唇だけでなく上唇まで抉られたらさすがに恋人関係は解消したい。痛いのは人並みに嫌いだ。
「同じことしたらキルアはまた痛いことするの?」
「……わかんねー」
「私は嫌だな、そういうの。ちょっとした痛み……あ、本当にちょっとだけね。これくらいの引っ掻き傷とかならいいよ」
心臓を抉り取ることも出来る手に薄く赤い線を走らせて手本を見せる。数分後には消えるような痕だ。これならまだ愛しさを感じる程度の痛みだろう。
「でもこういう、血が出るようなことはしてほしくないし、したくない。キルアは私を傷付けたいの?」
「ちがう」
「じゃあ怒られたい?」
ふるふると揺れる銀髪に内心ほっとした。加虐趣味があるのは困るが被虐趣味があっても困る。キルアの性格からして後者はないと踏んではいたが、実はということも世の中にはあるのだ。
「私は痛いのより気持ちいい方が好きだよ。キルアはどう?」
口を動かしている間に唇の傷は裂けられるところまで裂けたのだろう。痛覚は麻痺してきたが流血で口から下が大変なことになっている気がする。早急に手当てしたい。
けれど、ほとんど殺意の消えた青い瞳が不安を隠しているから、手当てよりもこちらが先だ。
「オレだってそっちのがいい。けど……」
「噛みたいの?」
キルアの手に残った線を撫でながら尋ねると、ぐっと力が入ったのがわかった。白い肌をいくつかの血管が押し上げる。
「噛みたいっつーか……」
また私の唇を睨んで、言葉が出てこないようで口籠る。腕を伸ばして宥めるように髪に指を倒し頭を肩に乗せてやれば、ぐりぐりと額を押し付けられた。
「……わかんねェ……」
「そっかぁ」
という相槌を打ちながらも、私にはひとつだけ心当たりがあった。
それは、恋人でもずっと『好き』が続くわけではないということ。
もちろんキルアに恋はしている。ただ『好き』にも波があって、今は私のそれが引いているから、聡いこの男の子は無意識的に察したのかも。暴力に走るのはいただけないが、私が原因である可能性も捨てきれない。キルアはきっとまだ私の これを知らないだろうから説明の仕様もないし。
結局のところ擦り合わせるしかないのだろう。人と付き合うとはそういうことだ。
「難しいね。キルアも、私も、好きなのにね」
「……ん」
「とりあえず口洗ってきていい? 鉄臭い」
「……オレ手当てやる」
「うん、ありがと」
背中をぽんと叩いて今度は穏やかに体を離す。ごめん、と囁かれた言葉にはまた「うん」と頷くことで許した。
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