「アラベル」
昔からの呼び名を口にし、彼に視線を向けると、何だ、なんて普段より温和な声で返事をする。たったそれだけのことがこんなに嬉しいのは何故だろう。一緒にいることが、体温を感じることがとても幸せで、口元が満ち足りた幸福でゆるんでいく。感情のままに抱きしめてみたら彼は嫌がる素振りもしないで背中に腕を回してきた。
「な、アラベル」
「だから、何だ?さっきから」
困ったような苦笑を表情に出す彼の頬に手を置き、顔を近づける。息がかかってしまうのではないかというくらいに狭まった距離。胸の鼓動がうるさくなった。視界には親友の顔しか見えない。
「キス、していい?」
そう言えば、僅かに皮膚を紅潮させた彼は静かに頷き、瞳を閉じた。薄い唇がやけに扇情的で、小さく喉を鳴らしてから唇を重ねる。意外なくらいに柔らかな感触が愛しくて、理性を司る脳の一部が麻痺してしまいそうだった。
――もっと、欲しい。
単純な欲求が、胸の奥から湧き上がってくる。触れるだけじゃ足りなくて、舌を彼の口内に割り込ませればくぐもった声が弱々しく鼓膜を震わせた。
「…っ……」
暫くの間、角度を変えながら舌と舌を絡ませてみる。彼は少し苦しいらしく、背に回した手でギュッとシャツを握りしめてくるが、そんなことはお構いなしに俺は彼を床に押し倒した。冷たい板の感触を契機として、つながっていた唇を離す。別れた互いの舌には透明な唾液が橋を作っていた。
「……グシャラト…」
切なげに此方を見上げてくる彼に我慢など出来るはずもない。欲情の色を重ねた声で彼に請うた。
「……いい?」
俺と同じ褐色の肌に赤を上乗せした彼は、金色の目を逸らしながら頷く。もう一度しっかりと手を繋ぎ、強く握りしめる。大切な相棒。二度と離れたくない片割れ。再会した時の決意を思い出しながら、俺は彼に笑いかけた。
「アラベル」
名を呼んで、また口を塞ごうと間隔を縮める。いつもより早い胸の音に感じるのはどうしようもない愛しさか。充足感に包まれながら俺は唇に唇で触れようとした。
――が、まさにその時。扉の開く音を耳にして、心臓が大きく動揺した。視線だけをそちらに向けると、そこにいたのは、無表情の主。
「か、和彦……散歩に行ったんじゃ」
なかったのか、と言うまでもなく彼は忘れ物をしたとだけ言って部屋の中へと入ってくる。予期していなかった主の帰宅に相棒も驚いたらしい、言葉を発することもできないまま、羞恥と困惑で混乱していた。
「……あった」
俺達の様子を気にすることもなく棚の中を漁っていた彼はお目当てのものを見つけると背負っていたリュックに入れて再び部屋を出ようとする。が、ノブに手をかけた時、溜め息がその口からこぼれた。
「……十分もしない内にこの状況とは、お盛んだな」
呆れかえったように言い放って扉の向こうへと消えていくその背中を、今度は気まずい心境で見送った。いくら達観しているからといって、年端も行かぬ少年にこんな場面を見せてしまったのはまずかったかもしれない。体の下で横たわっている彼も、微妙な心境になっているようだ。
「……夜にする?」
「………」
訊ねれば、異議はないらしく背中にしがみついていた手の力を緩める。俺は彼の額に唇を落とした後にゆっくりと立ち上がって溜め息をついた。既にその気になっていた欲望の自己主張をひしひしと感じながらも、夜まで待ってくれと高ぶりを宥める。
窓から見える空は眩しい程の快晴で、瞳をしっかりと開くことができない。それは彼の与えた背徳感のせいなのだと、せっかくの交合の邪魔をしてくれた主に少しばかりの恨みの念を抱いた。
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