太陽の照りつける日中であるが空調の行き届いた屋内は快適である。窓から漏れる日差しが蛍光灯のほのかな灯りを打ち消し、強烈に床に広がっていた。

「ちょっと、弟さんのことを心配しすぎじゃありませんか」

卓の上に出されたホットコーヒーにも手をつけず、彦丸はそのようなことを目の前の男性に告げた。涼しげな少年の口振りに部屋の主――リシエの心臓がにわかに跳ね上がる。

「……そう、ですかね」

咄嗟に口角を上げ、平静を装うが、コーヒーカップを持つ右手は微かに震えている。気付かれているだろうか、大きな金の眼を窺うもそこには何の感情も浮かんでいない。否、幾分かの憐憫は込められているだろうか。何れにせよ、少年がリシエの内面にしこりを見たことは間違いない。
少年の発言はリシエにとって紛れもない図星であった。他者には立ち入りがたい内面の問題ではあるが、本人は自覚を持っていた。
幼い頃から守ってきた弟、大切に思わないわけがない。けれど、弟への加護が不要となった今でも、リシエはつい昔と同じように接し、弟の身を案じてしまう。

――このままでいいのだろうか。

少年に指摘される以前から、リシエの抱いていた疑問――不安であった。

「……いや、だからどうしたって、わけじゃあないんですがね……」

視線を反らし言い淀みながらも、変声期前の幼い声が続く。

「弟さんも、あの環境でうまくやっているのだし……あまり干渉するのは双方のためにならないのではないかと思いましてね。……第三者が、とやかく言うことではないでしょうが」

そこまで言って、湯気の立ち上るコーヒーにようやく口をつけた。子供らしからぬ理性的な発言を受けたリシエは図らずして成長した弟の姿を思い浮かべる。
いつの間にか自身の上背を超えるまでに成長していた弟。朗らかな笑みを浮かべる弟を囲む仲間。そして、彼に想いを寄せる存在。それらを想起する度リシエは思うのだ――兄の役目は終わった、と。ならば、役目を終えた兄は何をして生きていけばいいのだろうか。
なるようにしかならない。言い聞かせるように繰り返して少年を見つめる。幼い顔は暗く、罪悪感と使命感の板挟みとなっているようである。言わねばならぬと思ったけれど、言ってしまってよかったのか。表情がそう物語っていた。

「……まいったな。君にまで見抜かれてしまうとは」

自嘲気味に呟いた。砂糖の入っていないコーヒーを口に含み、喉へと流す。味がない。彼は、言葉を続けた。

「前にも、同じようなことを一度指摘されましてね……その時、自分のために生きるべきだ、なんて言われてしまいましたよ。……でも……いきなり、自分のために、と言われても、何をしていいかわからなくて。……結局、弟の身を案じてばかりで」

駄目ですね、目線をカップに落としながら弱々しい微笑みを作った。その顔立ちは年齢を感じさせない程若々しいものなのだが、宿る陰りは確かに年長者のそれであった。
少年が、眉根を寄せて口を開いた。

「……リシエさんは随分と弟さんに依存していたのですね。家族愛、というやつでしょうか」

「さあ……そうなのですかね。あの子のために、と今まで生きてきましたが、……私は弟を口実にして、自分に目を反らし続けていたのかもしれません」

「そう……ですかねぇ?その判断は、本人以外には下せませんので何も言えませんが」

でも、と、少年は言葉を続ける。

「弟さんだって自分のせいで兄が幸せになれないなんてのは嫌だと思いますよ。僕だって、もしも親父殿がそんな風に考えていたら嫌ですし……、……まあうちのことはどうでもいいですね。とにかく、リシエさん。はっきり言いますが、そうやって自分を卑下なさったり、戸惑ったりするのは下策でしかないですよ」

「……下策、ですか」

「ええ、僕にとってはそんな貴方すらも魅力的ですが」

ませた微笑が幼い顔に浮かぶと、空気に少年の口説き文句が溶け入る。それから、落ち着いた物腰で、温くなってしまったコーヒーを喉へ流した。相変わらず大人びた子だ、少年の年齢不相応な所作を見ながら、リシエは次の言葉を待った。

「中策は客観的に現状を見渡してみることでしょう。自分自身も含めて、ね。冷静に観察をすれば答えも自ずと見つかるものですよ、答えの質如何はまた別問題ですが」

「客観的に……」

その単語に、リシエは項垂れて考える。今まで、全てを弟のために、そう考えて生きてきた。それこそが自分の存在の理由なのだと信じていたのかもしれない。それがなくなり、残るのは自己。今まで殆ど向き合ってこなかった自分自身。
少年の言う通り、己を客観的に見ることでこの胸に巣くう不安もなくなるやもしれぬ――思考がそこまで至ったところで、少年の言が再開された。

「そして、最後の上策ですが……これはとても簡単なことです。ただひたすら、ある一つのもの以外の何もかもを忘れてしまえばいい。そう、ある一つの例を挙げるとしたら」

――恋をすればいい。

「さて、ちょうどここに貴方を恋しく想う一人の若者がいますが、いかがなさいますか?」

一瞬、音が無くなった。静寂が室内に広がる。
リシエは口を僅に開き、瞬きをした。予期せぬ事態に直面した、と赤の瞳は物語る。しかし愉快そうに細められた金の瞳をじっと見つめている内にようやく少年の発言の意図を理解する。なんてことはない、冗談だと。自分のために、この理知的な少年はおどけてみせているのだと。
そのことに気付いた彼は表情をやわらげて笑い声をもらした。今まで張り詰めていた空間の雰囲気が一転、朗らかなものに変貌する。そのことをさとったのだろうか、少年も悪戯に笑んだ。

「ふ、ふふ……本当に、君は良い子ですね」

「おや、子供扱いとは失礼な。ぼかぁあっという間に大人の男に成長しますよ?忠実なる貴方の恋の僕にね」

「全く……そういう言葉はもっと大事な人が出来たときにとっておきなさいと言っているでしょう?」

体を乗り出してくる少年の頭をふわりと撫で、穏和にたしなめる。その慈しみに溢れた眼差しは既に普段の彼に戻っている。少年も気付いたようだ、上がる口角には安堵が込められていた。

「やれやれ、本当にあっという間でしょうにねぇ……まあ、それまでリシエさんに運命の君がやってこないことを祈っておきましょう」

「ふふ……、……ありがとう、彦丸君。少し気が楽になったような気がします」

嘘ではない。事実、リシエの表情は会話の前より晴れ晴れとしたものとなっていた。勿論全てが解決したわけではないが、少なくとも先程よりは一歩前進した感覚を彼は味わっていた。
少年は一瞬、表情を強ばらせるも、すぐに頬を弛めて返事をする。その内面を勘付かれぬよう。

「……いえ、リシエさんのお悩みに僅かばかりでも触れることができてぼかぁ幸せ者ですよ」

「またそんなことを言って……ああ、もうコーヒーも無くなってしまいますね。彦丸君、もう一杯如何です?」

中身が殆ど残っていないお互いのカップを見比べて提案された意見に、彦丸はいただきましょうと首肯する。新しくコーヒーを入れるために台所へと向かうリシエの華奢な背中を、少年は見つめる。その視線には、微かな色欲すら生まれようとしていた。
少年はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干し、空のカップを机に置く。口内に広がる風味豊かな苦味がまるでその精神状態を現しているかのようで、ふと滑稽だと考えた。
弟へ格別な――それこそ、まるで愛しい男へと向けるような――愛情を抱いている彼の悩みに胸が痛まぬわけではない。暗い表情を見続けていたかったわけでもない。けれど、彼の中にはある一つの大罪がひそかに形をひそめていた。

――嫉妬。

それこそが悲痛の表情に覚えた最たる感情であった。

(全く、自分が嫌になる)

自己嫌悪に浸りながら心中で自嘲の笑みを浮かべる。誰にでも言える一般論で言葉を濁し、気を紛らわせ、自分は一体何がしたいのか。焼け焦げた心を覆い隠し、なんでもないを装い、それでいて良心的な口振りの中に宿るのはどろりとした欲望の予兆。早くあの細く美しい体をこの手で支配してしまいたい――そんな焦燥混じりの願望。妬心で爛れた胸に下卑た妄想が広がる。
身の程知らずなことだ。理解はしているが、笑い飛ばせなかった。それほどまでに彼の頭は先を渇望していた。視線の先の男性は何も知らず、丁寧な手さばきでお湯をコーヒーポットに注いでいる。

「……貴方が言うような、良い子ならよかったのですが」

聞かれぬように小さく呟き、一つ溜め息をつく。ふと両眼を横にそらすと、太陽光に照らされた床が眩しくその視界を占領した。







※微糖さん宅リシエさんをお借りしました。ありがとうございました。


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