煙草をふかしている男の一言で、その場の空気がガラリと変わった。
「……え?」
無事放送の時間が過ぎ、そろそろお開きにしようと提案する前に発せられた友人の言葉。その言葉に覚えのある部屋の主、エフルは、ゲームを片付ける手を止めた。以前彼本人が友人に伝えた、本心の一言。もう一年以上も前の話だというのに改めて蒸し返す理由がわからず、彼は振り返って友人の淀んだ黒い眼を見つめた。そして直ぐに後悔した。友人、睡蓮は薄い唇の隙間から白煙を億劫そうに吐き出し、瞳を細めて座している。その視線は鋭く、彼から目を反らせば即座に喉元を食い千切られるのではないか、そのような危惧すら覚えさせる獰猛さを奥底に湛えていた。
(……この目は、やばい)
背筋に何かが走った。恐怖を覚えているはずなのに体がすくむ。ああいった顔を全く見たことがないわけではない。かつて彼は友人のこんな眼を一度だけ見たことがあった。以前戯れで観たアダルトビデオの暴行シーンで、抱かれる側の男優が殴られ、痛め付けられていた時――嗜虐的な衝動に駆られていた時の男の顔。その視線が現在己に向けられている事実に戸惑い、心臓が高鳴る。持っていたコントローラーは自然と手の内からこぼれ、鈍い音を立てて床に落ちた。
「俺に殴られようと犯されようと、絶交はしない……したくないって言った。覚えてるよな?」
したくないとは言っていない、と冗談を言う余裕も無く、促されるまま首肯を一つ。言無き返答を受けた男は少しばかり考えるかのように視線を空にやり、立ち上がった。まずは一歩。例え後退りをしようとも、彼と友人の距離は狭まっていく。近づけば近づく程にエフルの白い肌は紅潮した。
追い詰められていく。肉体的にも、精神的にも。背に壁の固い感触がし、視界に写るのが友人だけになった時、彼はもう逃げられないことを悟った。
「なら、良いだろう?」
何を、とは言わなかった。煙草の持ち方が変わった、それだけの所作で全てを語った。以前、一度だけ与えられた灼熱の痛み。あの痛覚を想起するだけで、彼の胸は震え、うるさいほどに心臓が高鳴った。それがどういう意味合いのものなのかは深く考えず、壁づたいにずるずるとへたりこむ。この男から与えられるものの中でもかなり特殊な、痛み。その痛みに僅かな悦びが芽生え始めていることを自覚せぬ内に、彼は唾を飲む。
「エフル」
片膝をついて、男が彼の頬を触った。間近に写る男は加虐心で口角を歪ませ、酷く満足げに指先で彼の皮膚を撫でている。優しく触れられることに慣れていない彼はそれだけで反抗の言葉を呑み込んだ。
「ぁ、……」
「今度はもっと、目立つ場所が良い。そうなると……頬や、額、……目許も、悪くねえな」
「ひ……っ!」
眼前に煙草を向けられ、反射的に瞳を瞑る。その怯える姿に気分を良くしたのか、男は彼の額を撫で、幼子をあやすように髪をすく。
「大丈夫、お前は好きになれるだろうよ。なんせマゾの変態だからな」
そう言って、平然と彼の額に煙草を押し付けた。
「――……っ!!」
皮膚の焼ける音がする。音だけではない、感触、痛み、全てが熱くて反射的に目の前の友人にしがみついた。痛い、熱い。指先に力を込めて相手のシャツに皺を作る。溢れ出る涙は煙草が離れても止まらず、頬を伝って床へと落ちていく。
そして出来た、真新しい額の火傷跡。涙で濡れた友人の顔をまじまじと見つめ、睡蓮はこの上ない充足感を得た。
――またこいつに、俺のつけた傷が残った。
手の火傷跡が消えた時に覚えた索漠の念も、こうしてしがみつき、必死に痛みに堪えている彼の姿に満たされ消え失せた。
「なんだ、殆ど抵抗しなかったじゃねえか……もしかして、期待してたのか?」
「ち、ちが……」
「違わねえ。去年は煙草、今年はライター……完全にそういうアピールだろ?そんなにされたきゃそういう相手でも作りゃ良いのによ、作らねえからこうなるんだ。お前が悪い。……まあ、お前の性格上そういった相手を見つけるのは至難の技だろうがな」
そう言うと男は携帯灰皿の中に煙草を捨て、二本目に手を伸ばした。目の前の友人から貰ったライターで火をつけると、直ぐに口元へと持っていき、煙を燻らせる。天井に向かい昇っていく煙は空に溶けて二人の呼吸器へと流れ込む、その事実をぼんやりと思いながら、男は未だに胸元で震えている友人の軟らかな髪を指先で弄んだ。
「……すがる相手を間違えてんじゃねえのか?俺にすがったってまたやられるだけだぞ」
言葉とは裏腹に機嫌良く相手を撫で、二本目の煙草を持ち直す。震える相手の目がもっと、と乞い願っているように見えた。仮にその錯覚が己の欲が産み出した願望でしかなかったとしても、男にわざわざ我慢をし、否定をする道理はない。
彼の右手に触れた。びくりと、体が反応する。まるで小動物のようだと反射的に思う。
「……嫌いになれないんだよな、俺に何をされても。なら、もう一度やらせろよ」
薄い唇が弧を描く様は、悪魔の微笑みのようだった。
「やっ、……めろよっ」
拒まなければ、と本能的に感じた彼はしがみつくのを止め、胸板を押し退けようとする。しかし強かに鍛えられた身体は重く、びくともせず。力で抵抗をするなど到底出来なかった。
「口だけの否定だな。やっぱり期待してるだろ」
「ち、ちが……っ、嫌、嫌なんだ……本当に……」
「……仮に、本当に嫌だとしても」
――止める気はない。
冷酷な一言に、心拍数が上昇する。大きい鼓動に吹き出る汗。気付くと、喉が渇いていた。
「この火傷が治ったら……きっと、また俺はお前の身体に傷を付けたくなるだろうが、まあ言質は取ってあるから良いだろう。それまでは、今まで通りだから安心しろ」
今度お前の好きなケーキを買ってきてやるから、と彼の右手に煙草を近づける。先程感じたばかりの熱がもう一度この身に植え付けられるのか。恐怖と共に妙な高揚感を覚え、身体を震わせる。意識する度に、顔に熱が集中していった。何をとは言うまでもない。
見上げた男の眼は、サディズムの欲望に染め上げられていた。これからもこの眼に縛られながら過ごすのだと思うと胸の奥底が締め上げられる。その苦しさは心地好く、酷く甘いもののように感じた。
彼は目蓋を閉じ、痛みを待った。不思議と、己から渇望しているかのような心境であった。
微糖さん宅エフルさんをお借りしました。ありがとうございました。
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