メイちゃんを失ったアクロマさんの狂行。死ネタ注意。







 メイが死んだ。
 ネジ山の麓で落石に押し潰されて死んだ。即死だった。
 ポケウッドの若き女優としても人気を博していた新チャンピオンの死はイッシュ地方で大々的に報じられた。彼女のあどけないかんばせが様々な新聞の一面を飾り、ニュースキャスターが沈痛の面持ちで少女の訃報を読み上げる。その死はやがて世界に広く知れ渡り、多くの人々が悲嘆に暮れながら、将来を嘱望されていた若き偉才の急逝を悼んだ。
 とある男性も、彼女の死を知ることとなった。
 その男はポケモンの潜在能力を引き出す研究に没頭する科学者だった。才覚豊かだが研究の為なら手段は選ばない奇人変人の類いに属し、今はある事情により帆船擬きの鉄艦にて日々を過ごしている。
 メイとはその『ある事情』絡みでちょっとした因縁がある。事情が解決した後は無事因縁も潰えたかに思えたが、どうやら彼らの縁は互いが思っていたよりも強固だったらしい。彼女がチャンピオンとなってから、ある孤島に停船された例の帆船擬きを偶然見つけ出したことにより二人は予期せぬ再会を果たし、交流を重ねるようになった。──交流というよりも、放置するにはいささか危うい男の動向を気にかけたメイが時おり監視がてら世話を焼きにやって来ていた、と表現した方が正しいか。
 そんな彼が彼女の死を知ったのは偶然に近かった。『ある事情』の後も艦に残っていた艦員の誰かが読んだままに放り出していた新聞、その大きな見出しにメイの名前があったので目を引かれただけである。
 彼女の人柄を知る科学者はきっと良い知らせなのだろうと胸を躍らせた。知人の活躍を喜ぶ、そんな常人のような感情が彼にもあったらしい。期待しながらすこぶる回転が速い持ち前の頭脳で瞬く間に内容を読み上げた彼だったが、読み終えると同時に愕然とした。記事の中身は当然ながら、彼の想定とは真逆のものだったのだ。
 まさか、という言葉が頭を占めたが無理もない。男が最後に少女と会って話したのはほんの数日前。大きく手を振りながら甲板を去っていく彼女の姿は彼の記憶にも新しかった。人は必ず死ぬ生き物だが、近しい人間との今生の別れがこうも唐突に訪れるなど、如何なる天才とはいえ予測できなかっただろう。
 試しに報道各局のニュース番組やらネットニュースを一通りチェックしてみたが報じる内容はだいたい同じで、そのいずれでも彼女の死そのものは事実として扱われている。そもそもの経緯として彼女の母が遺体を引き取り、娘と関わった人々へ向けた挨拶文を報道陣伝いで発表したからこそ科学者もこうしてその訃報を知るに至ったのだ。否応にも、彼女の死を認めざるを得ない。
 予想外の出来事に暫し放心した科学者だが、なんとかショックから立ち直ると、今度は自らが打ち込む研究への影響を算出した。かつての科学者は研究が結実する兆しをメイとポケモンの関係性に認め、彼女達を研究対象とした。しかし肝心の彼女がいなくなってしまったら今ある以上のデータが取れなくなり、研究の正しさを証明する手だてを失ってしまう。
 彼女のようにポケモンと深い絆で繋がっている、優秀なポケモントレーナーを改めて探すことも出来た。メイは稀有な人材だったが、世界は広い。かつてのチャンピオン達のように、彼女と並ぶ逸材は、少ないながらも確かにこの世に存在する。
 けれど、科学者はそうしなかった。研究のためならば手段など選ばなかった彼にしては極めて非効率的な判断だ。科学者自身にもそれはわかってはいたが、しかし不思議と新たなサンプル探しに着手しようとは思えなかった。少なくともこの時点の彼にとって被験体はメイ以外に存在せず、言ってしまえばメイありきの研究であった。彼女無しに研究を続けるなど考えもつかなかった。
 その上で科学者は思い探る、己の研究にとって最もプラスになる選択を。奇抜な髪型さながらに高速回転する明晰な頭脳で思惟を連ね、現状の最適解を弾きだす。
 そうして至ったのは、人の尊厳を犯す禁忌の発想だった。
 いないのならば作ればいい。彼が目指したものは、平たくいえばクローン人間の生成だった。近代における科学の発展は目覚ましく、実現不可能とされてきた多くの幻想を現実のものとしてきた。太古のポケモンを復元し、人工のポケモンすら創造した。それらの技術を人間に転用ないし応用すれば故人を故人そのままに新しく生み出すことは容易いのではないか。そう科学者は考えた。
 なので、実行した。彼は彼女を作ることにした。
 ちょうど半年ほど前、科学者は健康診断と称して彼女の生体データをつぶさに記録していた。メイとポケモンの見えざる絆、ひいては彼の追い求めた解に彼女の身体的特徴が関わっている可能性を考慮した結果である。分析材料は多ければ多いほど良いとして、彼女の各部位から細胞をもれなく採取し、最新技術を用いて全身の3Dスキャンを行い脳細胞に刻まれた皺の一つまでもを克明に記録した。科学者の[[rb:性 > さが]]というものか、端から見れば病的とも取れる収集癖であったが、そんな徹底的なデータ収集が今回は功を奏した。彼は冷凍保存しておいた体組織ないし細胞を解凍させると巨大な培養槽の中で培養し、身体検査の記録通りに彼女の肉体を再現した。
 脳、特に記憶の復元に関してはさしもの科学者もいささか苦心したが、しかし彼は天才だったので大事なかった。濃度を調節した培養液を介して特殊な電磁波を脳に照射することにより記憶中枢に刺激を与え、細胞の活性化と眠る記憶の復元に成功した。つまりは体細胞の採取時点、半年前の記憶を持つメイを、人為的に作り出したのだ。
 かくして試作の少女は完成した。出来上がったその少女はまさしくメイだった。そう表現する以外に方法はないほど、彼女は完璧なるメイだった。
 同じハイトーンの声音、同じ群青の瞳、同じ栗色の髪、同じ栄光に満ちた記憶、同じ溌剌たる心──半年前のメイと寸分たがわぬ肉体と精神を持った、遺伝子学上は同一の存在である。彼女はメイが好んだガーベラの花を喜び、メイが苦手としたホラー映画を怖がった。半年前までの記憶を有し、科学者の世話を焼きながら旅の思い出を語る。その姿は以前の彼女そのものだ。銀幕上と瓜二つの、愛嬌に満ちた笑顔を浮かべる彼女を見て、いったい誰が彼女をメイではないと否定できるというのだろう。科学者は彼女が戻ってきた喜びを面に出さないよう取り繕いながら、相棒のジャローダ達がいないことに不審がる少女をもっともらしく言いくるめた。
 しかしその高揚は長く続かなかった。暫くすると、彼女の様子は自ずとおかしくなっていった。ヒステリックに感情を叫び散らしてはわざとメイらしからぬ言動を繰り返して科学者の気を引こうとする。物を壊し、狂ったように髪を振り乱して金切り声を上げる。つどつど手を入れて軌道修正を試みるも、試行錯誤の甲斐虚しく一向に改善はされなかった。むしろ悪化の一途をたどっていく。
 そして初めの彼女は失敗した。
 二度目の彼女も失敗した。
 幾度初めから繰り返せど同じなのだ。何をしてもしなくても結局はそうなるので、科学者もこれには頭を抱えた。
 原因すらも掴めないまま時だけが過ぎていく。当然発生する異常に歯止めは効かず、そのうちに試作の彼女は自らの存在すらを否定し始める。
「私はメイではありません。私の大脳には確かにメイと呼ばれた記憶がありますが、これは私が実際に体験した私の記憶ではないのです」
 と、幼さを残す群青の瞳を潤ませて大粒の涙をポロポロと零す。ぼさぼさの髪の隙間から光る眼には、メイのものではない確固とした人格が宿っていた。どの彼女もそうだった。
「私はこの艦内でしか生きてはいない造り物です。それはあなたが誰よりもご存じでしょう? ですからあなた、私をメイと呼ばないで下さい。あなたがその名を呼びながら私を見る度に頭がおかしくなりそうです。あなたが彼女を想う度に私はとても胸が痛んで苦しいのです」
 と、悲痛を吐露する時は科学者の、男性としては薄い胸元へとしなだれかかり、生育途中である少女の頼りなげな肉体を預けきる。科学者は困り果てた。メイと異なる自我の萌芽は彼の目指すところではない。しかし戸惑う科学者の様子など気にせずに、彼女は彼の白衣に縋りついて哀願を繰り返す。どの彼女もそうした。他に寄る辺など無いとでも言いたげに。
「どうか私に新しい名を与えて、この肉体に新しい生命を吹き込んで。愛してくれなくていいから、せめて私を私として見て下さい。愛しいあなた、どうか、どうか──」
 そして、最後は決まってこう言った。
「──愛しています、愛しいあなた。私はあなたを、愛しているのです」
 その言葉を聞く度に科学者は失敗を確信した。
 彼は、彼女を廃棄した。



 試作は尽くが失敗に終わった。
 どの彼女も同じように、最期はメイであることを止めてしまう。
 彼の試みは停滞した。持ち得る知力の限りを尽くして難題に立ち向かうが、必ずどこかで綻びが生じる。それでも科学者は悲観しなかった。科学の進歩とは云千万もの失敗の上に成るのだと、彼は身を以て知っている。並々ならぬ執念によって彼は、異常なほどポジティブに苦難へと挑戦し続けた。
 八人目の彼女を処分する頃には、いよいよもってメイの製作に没頭した。艦内には除ききれぬ血の臭いが漂いだし、恐れをなした艦員達は段々と艦から離れていった。
 そうして九人、十人と失敗を重ね、次に十一人目の彼女を生み出そうとした[[rb:最中 > さなか]]。
 陰惨な空気がこもる帆船もどきの鉄艦に、珍しく来訪者がやってきた。
「やあ、久しぶり」
 毛量の多い跳ねた茶髪に赤いサンバイザーが特徴的な少年だ。艦内にたちこめる異様な臭いに顔を少ししかめたものの、科学者の顔を見ると彼は懐かしげに頬を緩めた。
 科学者は彼を知っている。メイの紹介で出会ったキョウヘイという少年。二人はバトルサブウェイのマルチトレインがきっかけで親しくなり、ポケウッドでも共演をしたことがあるらしい。チャンピオンの彼女が認めるだけあって稀有な実力と才能を秘めた有望なトレーナーだったが、科学者の関心はさほど引かなかった。
 けれどキョウヘイには却ってその無関心が心地良かったのかもしれない。会話を重ねるにつれ科学者とも打ち解けて、メイほどにではないがこの艦へと足を運ぶ物好きの一人となっていた。
 科学者は最新技術の注ぎ込まれた近未来的な操舵室で彼を迎えた。
「頼まれごとをこなしにきたよ。本当はもっと早く来るべきだったんだけど、ぼくもちょっと大変でさ」
 言葉通り、その笑顔には少年らしからぬ大人びた哀愁が見える。彼にとってもメイは親しい友人だった。きっと友の死を消化するまでに泣き通しの夜を何度も過ごしたのだろう。目元が僅かに赤く腫れているのは、科学者の見間違いではなかった。
「ちょっと待ってて……はい、これ」
 キョウヘイはバッグを漁った後に一冊の本を差し出した。淡いピンクに愛らしいハードカバーの装丁が印象的な、四六判サイズの鍵付き本。今はキョウヘイが外したのだろう、鍵はかかっておらず中を読めるようになっていた。
「メイが死ぬちょっと前に、頼まれたんだ。何かあったら、これをあなたに見せてほしいって。……その理由も内容も、ぼくは知らない。ただ、メイとは仲が良かったから、どうにか叶えてあげたかったんだ」
 彼の呟きめいた説明に、科学者は何も言葉を返さなかった。声色に混じる少年の哀惜に対して同情も慰めも示せる立場ではとてもなかったからだ。
 ただ黙って、表紙を開いた。角なく軽やかな、しかし確固とした気力の込もった文字がそこにあった。活力に満ちて非常に生き生きとした無邪気な筆跡だった。
 彼女らしい字だ。科学者は懐かしむように目を細めながら、日記を読み始めた。

 初めのうちは差し障りのない冒険の記録だった。何処に行き、誰と出会い、どんなポケモンを見つけたか。そんな彼女の道程が彼女らしい前向きな気持ちで記されている。
 しかし、ある人物の名前が現れ始めてから、日記の内容は趣を変えた。彼女は恋を知ったのだ。
 相手は大人の男性だった。彼女が遺した言葉で表すならば『頭の良さそうな変わった人』。最初の頃は変人との会合に困惑する胸の内を書き記すに留まっていたが、時とともに困惑は仄かな好意に形を変えて、彼女が亡くなる三ヶ月前には明確な恋心へと変貌したらしい。日記上にも甘やかな想いは滲み出ており、その人物の名前が出る日の記録は、普段よりも幾分か文字が跳ねていた。まるで、初恋に弾む彼女の心を具現化したようだった。
 恋を自覚してからの彼女の筆は苦悩と情熱に揺らいでいた。意中の彼との年齢差を気にかけて、少しでも早く大人になろうと爪先立って背伸びをする少女の、繊細な心境の変化と努力が赤裸々に綴られている。
 身嗜みに一層時間をかけるようになった。髪を念入りに梳いて整えるようになった。女優として活動をしていなくとも薄く紅を引くようになった。かつて肌を見られたこともあったので、下着にも気を使うようになった。
 それでも届かない。少女はまだ大人の女性ではない。大人と想い合うにはまだ早く、大人と支え合うには若すぎた。彼女自身も痛感してはいたが、そんなことでめげはしない。持ち前の明るさで前向きに恋の成就を夢見ていた。
 途絶えた最後の頁にはネジ山の奥地へ向かうと書いてあった。そこには彼女の決意も共に記されている。
 もっと強くなる。大人になるまで愛しい人が自分だけを見続けるように。いつか、芽生えた愛を伝えるために、と。

 それは、日記の形をなした恋文だった。目一杯に短い人生を生き抜いた流星の如き彼女の想いの丈だった。
 科学者は、自分への恋文を、そうとは知らずに読んでいたのだ。

 操舵室は静まり返っていた。
 頁を捲る音だけがいやに仰々しく響き渡り、沈む空気の中へ溶けて消えた。
 日記を読み終えてからも科学者は黙していた。明敏な頭脳はそこに記された内容をたやすく理解できたはずなのだが、理解すれどもうまい具合に言語化することができず、秘かに戸惑っていた。
 彼は薄い唇を結んだまま、剥き身の想いたちを繰り返し目で追っている。丸みを帯びた文字の羅列を白手袋の指先でなぞって反復ばかりしている。
 そうしながら科学者は、彼女が最後にやってきた日に思いを馳せた。

 陽光強まり始める初夏のこと。雲一つない蒼天の下、サザナミタウンへ向かう14番道路の波打ち際を彼女に連れられて北上していたあの日。
『ほら、こっちですよ!』
 メイは左右のまとめ髪から垂れ下がる特徴的なツインテールを揺らしながら、科学者の手を引いて先を行く。砂を踏む足取りは軽やかで、肩越しに科学者の様子を窺っては群青の瞳が満足げに弧を描く。
『今度のお相手はとっても強いトレーナーさんなんですよ。なんと、シンオウ地方のチャンピオンなんです! この間は惜しくも負けちゃったんですが……今回はリベンジしてみせますから!』
 拳をぐっと握って宣言する彼女に科学者は微笑み返した。研究の手助けと称して、彼女は時々科学者を連れ出した。科学者も良いデータが取れるので喜んでついて行ったものだった。
 この日もそうだった。いつもと一つだけ違ったのは、道中彼女が不意に立ち止まり、科学者の方を振り返ったことくらいで。
『私、もっともっと強くなります。あなたが他のトレーナーに余所見しないよう、人とポケモンの、私達の可能性を見せ続けてみせます。……だから……』
 彼女が科学者の顔を見据えた。その瞳は一瞬切なげに揺らめいたが、何かを振り切るように首を振る。
 向き直った時にはもう覚悟を決めたようだった。男の手を握る力を強めて、彼女は。
『──だから、ずっと私だけを見ていてくださいね!』
 気丈に笑い、そう言い放った。
 強い夏の陽射しを受けた彼女の笑顔はきらきらと、きらきらと。弾けるように輝いていて。
 科学者の目には、一際眩しく映ったのだった。
 
 光、だった。
 彼にとっては彼女こそが光だった。
 その身に秘めた無限の可能性により、理想の仮説が真実なのだと証明し、彼を純然たる科学者へと引き戻してくれた。夜空に在って旅人の道標となる北極星のように、迷いし学究の徒に進むべき方角を指し示した。
 科学者の知る彼女の瞳はいつだって、どこまでもまっすぐに輝いていて。
 そのきらめきが、ずっと鮮明に。
 網膜に焼き付いて、離れない。

 科学者は、己の過ちを理解した。
 取り戻そうと追い求めていたのは彼女のポケモントレーナーとしての才能ではない。彼を導いた光であり、彼女自身だった。
 試作の彼女達は失敗などしていない。最新の科学技術は秘められし恋心すらも複製し、やがては科学者が知り得なかった仄かな想いを芽吹かせた。
 彼女達は男の瞳に自分が映っていないことを見抜いていた。そしてメイと同じく彼を愛し、同じようにこう願った。『私だけを見てほしい』、と。
 だからこそメイにはならなかった。なれなかったのではなく、ならなかった。
 愛する男が自分ではない女を想いながら自分を見ることを許せなかった。オリジナルに嫉妬し、胸の内でそっと独占欲を育てていった。メイの記憶を持つ彼女達は愛ゆえに生じたジレンマの結果、皮肉にもオリジナルの彼女と同じ感情を有するに至ったのだった。
 そして、その感情こそが個の証。
 彼女達が彼女でない証明。
 当人以上に科学者の気持ちを解っていた彼女達の最期は、彼にとっては認め難い残酷な真実を突きつけた結果引き起こされた、必然の帰着点だった。
「──もう、彼女は帰ってこないのですね」
 自らに言い聞かせるように彼は呟いた。酷くかすれた声だった。
 彼はようやく彼女の死を、現実を受け入れ始める。哀しみを自覚するごとに視界が潤み、段々とぼやけていく。これでは視力補正の意味もない。男はおもむろに眼鏡を外した。
 今の彼にはわかっている。彼の重ねた試作の開発はただの代償行為でしかなく、彼女達はその犠牲になったのだと。
 遺伝子上は完全に同一の肉体であろうとも、その生命はメイではない。秘めた恋心を日記に遺した彼女はもう死んだ。いくら取り戻そうとあがいても、あの日彼の手を引いた彼女の温もりは。輝きは。もう二度と、戻ってこないのだ。
 キョウヘイが慰めるかのように科学者の背を優しくさすった。月影色の眼からは溢れた滴が一つ二つと零れる。それは頁の上に落ち、少女の淡く瑞々しい想いを綴った文字たちをじわりと滲ませた。
 日記は、再びは読めそうになかった。



 ──それから数日が経った頃。

 科学者は暗い鉄艦から抜け出して大地を踏み、久方ぶりの空を仰いだ。
 突き抜ける青の眩しさに目を細める。よく晴れた、穏やかな陽気。やわらかい風が彼の白衣をたなびかせる。科学者が立ち止まっていた間も時は勝手に流れていた。もうすぐで、あの初夏の日から一年が経とうとしていた。
 今日この日、科学者は、キョウヘイと共にある場所へと向かう。
 彼女の眠る場所へ。
 彼女の死と、向き合うために。

 十一本のガーベラで誂えた、鮮やかな花束を携えて。





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