天地開闢
日が落ち、闇が強さを増す頃合。
東から迫り来る濃紺を眺めながら笑う女が1人。
大禍時。
彼女は沈み行く日に手を翳しそれを見送る。
幾度となく見てきたその景色は、それでも美しさを心に映す。
何気なく呟いた言の葉は辺りに反響などしない。
しかし、彼女の背後からゆるゆると空を侵食していく闇は、確かにそう呼ばれて然るべきものだった。
空気さえ冷たく刺す様なものに変化していく。
徐々に蝕まれていくこの違和感を、果たして空の色以外で理解している人間がどれだけいるのか。
山間に落ちていった陽光を見送った彼女は緩々と立ち上がった。
裾の長い黒服の羽織が靡いて音を立てる。
軽く腕でそれを払いながら、彼女は暗闇を歓迎するように舞う蝙蝠達を見つめた。
長袖の羽織は裾同様に長く伸び、左手の指先を覆い隠しているが、右腕は肩から白い肌が惜しげもなく晒されている。
剥き出しの右腕を掲げて、彼女は呟いた。
「嫌な空気だ。」
森のざわめきが広がる。
まるで彼女の言に同意を見せるように音を立てる葉に、彼女は口端を吊り上げる。
赤い唇から覗く、尖りすぎている犬歯。
しかしそれを指摘する者はそこにはいなかった。
ぬばたまのように黒くざんばらな髪が揺れてその表情を覆い隠す。
「あぁ……これは何か始まるなぁ…」
まるで興味もないように落ちたそれを拾うものなど、木々以外にありはしない。
掲げていた腕を下ろして、喉で笑っていると不意に空気が震えた。
後ろに降り立った四対の気配に、彼女は無造作に黒髪を掻き上げ振り向いた。
「大禍、強ち間違いでもないようだ。」
低頭する彼らを一瞥し、黒を纏った彼女は鬱蒼と茂る森を抜けていった。
「それにしても丸井先輩が休みなんて珍しいっスね。」
日も落ちる黄昏時。
テニスバックを背負った少年が言う。
癖のある黒髪を揺らす彼の言葉に、確かにと頷くのは数人。
集団で道を歩く彼らは人の目を惹く。
悪意や侮蔑のそれらの視線ではなく、それはどちらかというと好奇を指すものかもしれない。
おおよそ学生には似つかわしくない銀の髪を揺らした少年が同意を示した。
「確かにのぅ…変なものでも食べて当たったんじゃなか?」
「仁王君…いくら丸井君でもそれは、」
「ありそうで嫌だよね。」
茶髪の少年の否定は、また違う少年によって遮られる。
青い癖毛を靡かせて綺麗に笑う彼を、苦笑とともに見つめる。
それは嫌悪ではなく諦めに近いものか。
「だが、昨日から丸井の調子は悪かったぞ。」
「ふむ、確かに。いつもの妙技も上手く決まらなかったようだしな。」
帽子の鍔に触れながら疑問を提示する少年の言葉を、ノートを手にした少年が引き継ぐ。
伏せられた目がノートの線を追うように上下した。
「そういや最近、肩が痛いだの気分が乗らないだとか…色々言っててよ。一応気にしてはいたんだが…」
心配そうに眉を寄せた色黒の少年が頭を掻く。
彼の言葉に彼らの足取りが重くなる。
意図したことでないだろうが、彼らの仲間を思う気持ちがそこに明白となる。
靄が漂うような鬱々としたものを振り払うように黒髪の少年が声を張り上げる。
「ま、きっと明日にはケロッとした顔して朝練に来てますって!!」
わざと明るく発せられたそれに、少年達は一様に微笑を見せた。
ムードメーカーであり情に厚い後輩を、彼らは可愛がっている。
ぐしゃぐしゃと、幾人の手が彼の癖の強い髪を掻き乱す。
「何するんスか!」
と抵抗を見せるものの、彼らの手は離れない。
あぁもう!と耐え切れなくなったらしい少年は集団で歩く彼らより駆け足で前に出る。
「あ、赤也!」
慌てたように青色の髪の少年が呼ぶ。
赤也と呼ばれた少年はしかし、急には止まれず、曲がり角から表れた人影にぶつかる。
勢いはつけていなかったものの、「痛っ」と微かな声が漏れた。
赤也は顔を上げ、ハッとする。
そこには長髪、金髪の美女が顔を顰めてこちらを見ていた。
髪と同じく金色の長い睫に縁取られた灰色の瞳が赤也を射抜く。
美貌と相俟って壮絶なその迫力に気圧されながら、彼は口を開いた。
「すす、すんません!!前っ見てなくて…っあの、えと!」
緊張と焦燥感からか全く要領を得ない謝罪に美女の眉間に皺が寄り不審者を見るような色を瞳が帯びる。
吊り上った目尻が更に強調されるよりも先に、すっと茶髪の少年が赤也の前に躍り出た。
申し訳なさそうに眉を垂れ、軽く頭を下げるその眼鏡の少年に何も言わず、美女は相変わらず怪訝な瞳を向けていた。
それに嫌悪を見せる素振りもなく、女性にしては高い身長の美女と目線を合わせる。
「後輩が申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?」
柔らかい彼の口調に美女の片眉がピクリと動くが、その瞳から訝しむ色は薄まっていく。
それにほっと息を吐いたのは誰だったか。
少なからず何も発してくれない彼女に誰もが焦っていたのだろう。
「俺からも、すみません。もう少し周りに気を付けるべきでした。」
青い髪の少年が深々と頭を下げると、美女は小さく息を吐いた。
呆れているのか何とも判断のし辛い所だが、目線を戻した彼女はゆっくりと口を開いた。
「気にしていません。別に怪我もなかったので。」
簡潔にやけに素っ気無い言葉だが、どうやら怒ってはいないらしい。
張り詰めた緊張感が緩む。
落ち着くために大きく息を吐いた赤也は、帽子を被った少年に背中を押されハッとする。
そして勢いよく頭を下げた。
「本当にすみませんでした!」
ガバッと効果音が付きそうなそれに、美女は明らかに顔を顰める。それは盛大に。
嫌そうなそれに、集団の全員が何故だと冷や汗をかいたが、美女は肩にかかる金髪を乱雑に払い、口を開く。
「そんなに必死に謝らないでください。…往来で目立つので。」
「えっ…」
驚いて顔を上げた赤也に、…あぁ、と目を伏せていた少年が合点がいったように一つ頷き、取り合えず頭を下げた状態でいる後輩の姿勢を戻させる。
意味がよくわかっていないらしい彼らを特に気にする事もなく、確信めいた口調で言う。
「重ね重ね申し訳ない。…目立つのがお嫌いなんですね。」
薄く開いた彼の瞳が女性を見据える。
彼女は無表情でをれを見返し、ただ頷いて見せた。
「この容姿のお陰で人目は嫌と言うほど集めるので。…貴方達もそうでしょう。」
面倒くさそうなその表情に、その場にいた全員がそれを察し、思い思いに自分達の学校での視線も思い出す。
合点がいったような彼らに、美女は鋭い目を緩めることなく口を開いた。
何を言われるのかと身構える少年達。
誰かの喉が鳴った気がした。
「貴方達、」
「あーきーらー」
ドスッ
「うぐ…っ」
突然の声と共に目の前の美女が呻き声を上げる。
その呻きが思いの外低かったのは身体に走った衝撃が強かったからか。
唖然とする彼らを尻目に、金髪の美女は痛みに震えながら背後を振り向いた。
「何を…するんです。」
その声は底冷えするように低く冷たい。
自分に向けられたわけでもないのに震え上がる少年達に気付かないまま、彼女は後ろに佇む人を睨んでいた。
少年達の視線は美女から佇む人影に映る。
ざんばらに伸びた黒髪を揺らした彼の人は、ふ、と笑う。
口端だけを吊り上げるその笑みに違和感はなく、何か含みを持たせるそれは彼の人にとても似合っていた。
全体的に黒で覆われたその服装は、しかし右腕だけが肩から剥き出しに晒されており彼の人の肌の白さを知らしめていた。
長い前髪から覗いた色素の薄い瞳が金髪の美女を見据える。
「ちっとも来ないと思ったらナンパ?」
「そんな訳ないでしょう。どんな目をしてるんです。しかも私が聞いてるんです。何でわざわざ後ろから激突する必要があったのか。」
「激突?私はただ叩いただけだろうが。」
「叩いただけ?さすがですね。馬鹿力もここまで来るとただの公害です。」
「失敬だな。晶が軟弱なんじゃねぇの。」
「どこかの誰かみたいに日々馬鹿みたいに筋トレしてませんからね。」
「おいちょっと待て。さっきから馬鹿馬鹿言いすぎだろ。」
「馬鹿に馬鹿と言わずしていつ馬鹿と言うんです馬鹿この馬鹿。」
「言いすぎ!!傷つくんだぞ!!」
「馬鹿は馬鹿らしく地べたに這いずって掃除でもしていてください。」
「辛辣!!!」
「あの…」
取り留めのない応酬に収拾が着いたのは第三者の声が響いてからだ。
先程から二人の遣り取りを見守るだけだったのものの、そのまま通り過ぎるわけにもいかなくなってしまった少年達だった。
困ったような青い髪の少年の声に、二人は振り返る。
まるで彼らの存在を忘れていたというような表情の黒髪の彼の人に、
覚えてはいたが黒髪に対する怒りが勝っていたというような金髪の美女。
交互に注がれる視線を物ともせず、黒髪のその人は困惑する彼らに歩み寄った。
耳に幾つも付けられたピアスが擦れて音を鳴らす。
ひやりとしたのは1人ではない筈。
怯えるような表情を気に留めず、その人は貼り付けたような笑みを持って青の少年に手を差し出した。
「初めまして。理熾と言います。」
「…初めまして。幸村 精市です。」
躊躇いながらも差し出された手を握らないわけにもいかず、幸村精市はシルバーの指輪と腕輪が幾つも携えられた細い手を握る。
そして彼の目が見開かれた。
それに気付いたらしい彼の人はニィと口角を上げる。
「君、狐を知ってるだろ。」
黒髪の彼の者の声は、
スクランブル交差点の喧騒に上塗りされるように彼らの耳に響いたという。
金髪の美女の眼光もまた、
彼らに自らの心音を意識させたという。
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