國生み下
周りにいる人達の喧騒が不自然なほど遠い。
切り取られた空間の中で、口を開いたのは誰だったか。
「常人、って…何スか…?」
不安げな顔で瞳を揺らした赤也が俺の腕を引く。
驚きで誰も動けない状況下の中では、純粋な後輩の姿は救いだと言ってもいいかもしれない。
取り落としてしまったペンを拾おうにも指先は麻痺したように動かす気力も削がれていた。
赤也の問いに答えなければと、唇を震わせて、何故か渇き切った自分の口内に気付く。
「普通の人って事だよ、少年。」
後輩の疑問を解決したのは、その疑問を呈示した彼の人であった。
その手には冷えたグラス。
硝子と銀の腕輪が状況に不釣り合いな涼し気な音を奏でた。
「普通の人って…え?」
しかし彼の人の言うところの“普通”を掴みあぐねてか赤也は眉を寄せる。
それは何も発していない部員達も同じようで、しかし先程から奇妙な発言さえ肯定的に受け取っている3人だけは一切合切の疑問も持っていないようだった。
「まぁ君達から言わせるところのお化けと呼ばれる存在が視えないのが普通、ってとこかな。」
淡々と紡がれた言葉は俺達を動揺させるには十分過ぎる威力を伴っていて、尋ねようにも聞くべきはずの言の葉は霧散していく。
今し方出逢って、常軌を逸する話をされて、普通なら苦言を呈して然るべきであり、場合としては激昂もすべきところなのだろう。
しかし出逢いに始まりこの状況に至るまで、俺達で言う普通は欠落していたのである。
「おっお化け…!?」
「マジかよ…」
単語を聞いた途端に青褪める赤也に、目を見開いて真正面を凝視しているジャッカル。
2人はすんなりとその単語を信じたようだった。
それもそうだろう。
此処まで経験を逸する事が起こっているのだ。
非科学的だと普段なら言い切れるはずの事さえ「もしかしたら、」という可能性を呈示する。
思わず口を噤んでしまえば、もう何も言えない。
ただただ漠然と今まで信じていなかったものの存在を肯定するような沈黙が降り積もる。
そんな俺達を前に、仁王の言葉を借りるなら「人間離れしている」その人は、無言を通していた。
「…馬鹿な。そんな非現実的で根拠のない話を、突然されて、そうそう簡単に信じられるものではない。」
音を立てることさえ憚ってしまうその沈黙を破ったのは渋面を作った弦一郎だった。
いつものように腕を組んだ彼は、年上だろう彼の人に対して敬語を使わない。
それはきっと彼の動揺とともに警戒を表しているのだろう。
気付いているはずのその人は気分を害した素振りも見せず、むしろその反応が正しいと言わんばかりに頷いていた。
その様に虚を突かれたのは俺だけではないようで。
「あの…怒らないんスか?」
「怒る?何を?」
「や、何をって…」
「信じられないと言われて気分を悪くなさったりだとか…」
「はは、まさか。だってその少年…、少年だよな?うん、そう、少年の言う通りじゃないか。」
赤也や柳生の俺達の心の声を代弁した問いを軽く笑い飛ばし、黒髪を揺らして理熾さんは弦一郎を指差した。
一瞬「少年」と呼びかけて迷ったように俺に視線を向けられ戸惑ったが、小さく頷けば満足そうに言葉を続けた。
少年の言う通り。
ならば何故俺達はこんなにも簡単に「非現実的で根拠もない事」を曖昧ながらも信じているのか。
それは人間離れしている理熾さんの存在と、仲間である3人の理熾さんに対しての信頼に値するそれを見ているからに他ならない。
つまるところ彼の人の言葉は俺達を信用させられるだけの充分な説得力を持っている。
「まぁ君達の殆どは不本意ながらに信じてるみたいだけど。」
「…何?そう、なのか?」
「あ、いや…まぁそうだな。なんていうか…疑う必要がないって言うか…」
「つうか、疑えないんスよね。」
「疑えない?どう言う事だ。」
「えっと…なんつーか、その…妙に信憑性があるっつーか、」
「幸村、仁王、柳生が随分信用しているようだ。それだけで俺達が疑う余地が60%を超えてなくなると言う事だ、弦一郎。」
「む、…何故信用できる。さっき会ったばかりの他人なんだろう?」
顔を顰めた弦一郎が3人に問うた。
すると3人は一様に顔を見合わせ苦笑した。
如何とも言いかねるといった体に、さしもの弦一郎も追及できずに押し黙る。
「そこな少年。」
それまで遣り取りを傍観していた理熾さんが弦一郎を指差して声を掛ける。
普段なら人を指差すなどと怒鳴り出しそうな弦一郎が驚いたように目を見開くだけで何も言わない。
いや、言えないと言ったほうが正しいのだろう。
何故ならその色素の薄い瞳は痛い程に真っ直ぐ彼を射抜いていたから。
「この世には自分には出来るが、他人には出来ない事が吐いて捨てる程あるだろう。その違いだよ。君には視る事が『出来ない』けれど、そこの3人には視る事が『出来る』。ただ『出来ない』だけでそこには確かに存在するものがある。それだけだ。」
俺達には視えない、つまり出来ない事が幸村を初めとする3人に出来ているのなら。
俺達が理解する事は難しい。
けれども確かに俺達の知らない、見た事もない狐の話を、初対面である彼らは違和感もなくしていた。
それはつまり出来る事と出来ない事の違い。
幾分考えが纏まりスッキリした心持で顔を上げると、先程とは打って変わり慈愛を滲ませる瞳と視線がかち合った。
まるで嬉しそうなその眼差しに戸惑い、閃くものがあった。
彼ら出来る側の人間がいくら訴えたところで、所謂出来ない側の俺達はそれを視認する事は出来ない。
恐らくあの優しく嬉しそうな眼差しは、曖昧な話を信じてくれた事に対する歓喜。
傍で難しい顔で一生懸命整理しようと試みている弦一郎や赤也にも同様の視線を注いでいる辺り、理熾さんは完璧な理解を求めている訳ではないのだろう。
「…ま、いいさ。少しでも信じてくれたならね。」
そういって容量を超えかかっている2人の思考を止めさせた。
未だに納得のいかなそうな顔をしている2人を見やって、柳生は軽く眼鏡のブリッジに触れながら口を開いた。
「あの、それであの狐は…」
「あぁ、そうだった。それが大事なんだよ。」
「俺らに声掛けたんもそれが目的なん?」
「そうそう。その狐を捜してて、」
「ちょっと待ってくれ。」
淡々とまるでここからが本題だと言わんばかりの彼らの会話を制したのは他でもない俺だ。つい今し方拾い上げたペンを片手に首を傾げるその四人を見つめた。
「お前達が言う狐は、俺達には視えないものなんだろう?嫌でなければ教えてくれないか。」
瞬かれた彼らの目が驚愕を映して揺れる。
言うか言うまいか、判断しかねているといったところか。
あっさりと教えてもらえるとは思っていなかったが、その迷う姿は少なからず視えない側の俺達の胸に刺さるものだった。
「……言い辛いか。すまない、」
「あ、違うよ柳!」
「…違う?」
「何と言いますか…私達もうまく言えないというか…」
「ほんまに野良犬みたいに歩いとるんをちょっと視ただけなんじゃ。」
「それは…、いつもの視え方と違ったと言う事か?」
「いつもっていうか、俺もそういうの視た回数なんて今までに少しだけだし…」
「えっバッチリ視えてるんじゃないんスか?」
赤也のざっくりと抽象的な質問に、幸村は困ったように笑った。
「違うよ。」
「じゃあ柳生先輩と仁王先輩は!?」
「私も数回です。」
「俺なんて今回ので初めてじゃ。」
「どう言う事だ…?」
互いの顔を見合わせ困惑する俺達を観察していた理熾さんは声を立てて笑う。不快に思うような甲高い笑いではなく、喉の奥を振るわせるようなそれに俺達は振り返る。
鮮やかとも呼べる笑みを刷かせて、色素の薄い瞳が愉しげに揺れる。
「視える力ってのは度量があるんだ。」
「ど、どりょ…?」
「MPがあるんだよ。」
「あ、成る程。」
「で、君たち三人は元々MPが低いの。だから視えたり視えなかったりするんだねぇ。」
「ふぅん。…あ、じゃあ理熾さんのMPは先輩達より多いって事ですか?」
期待を込めた眼差しに、飄々としていた理熾さんの目の色が変わる。
驚きとも戸惑いとも言いがたいソレは、しかし成りを潜め、代わりに唇が弧を描く。
「あぁ…そうだね。」
「へぇ!」
純粋に感嘆する赤也を、理熾さんはどう思ったのだろう。
その瞳からは汲み取ることが出来なかった。
「それで、その狐が何なんですか?」
ジャッカルの声に、長い前髪から覗く無表情な瞳が動く。
「早い話がうちの家で飼ってる狐が逃げた、みたいな。」
「飼ってる…狐?」
まるで奇天烈なものでも発見したかのような顔で柳生が問う。
俺達もまた然り。
当然だろう。先程まで常人には視えないだの、何だのと言っていたのだ。それを飼う?
理解に苦しむ。
思い思いに苦慮している様が面白かったのか、理熾さんは鋭い犬歯を覗かせて笑った。
「細かい事はあまり聞かないで。悪さの類をする奴じゃないし、ただやんちゃな盛りで家出してさ。捜し回ってんの。飼い主が。」
そういって目線で示されたのはトレーに載せた9つのグラスを事も無げに運んできた金髪の美女だった。
戻ってきた途端に話題で指されたのが嫌だったのかその面差しは歪む。
しかし相対するもう一人は笑みを崩さなかった。
「どうした飼い主。嫌そうな顔をするなよ。」
「…、もういいです。」
諦めたような溜息を吐いて彼女は俺達1人1人の前にグラスを置いていく。
その色は全て濁った茶とも黒とも似つかぬ色合いで。
反対に置かれた二つのグラスも同じ色。ということは。
「おいおい。全部コーラと混ぜたのかよ。だから遅かったのか。」
驚いたように9つのグラスを凝視する理熾さんを尻目に、素知らぬ顔で美女はコーラ、と呼べるのかは分からないがそれを啜っていた。
あまり炭酸が得意ではない弦一郎も、興味はあるのかじっとグラスを見つめていた。
今にも飛びつきそうなのは赤也と…、幸村だろうか。
無視された事に憤慨する様子も見せず、理熾さんは息を吐く。
そして、あぁそうだと顔を上げた。
「狐を視たのは何処で?」
「俺は部室で。一瞬見間違いかとも思ったけど…凄く綺麗な毛並みだったし、何となくそういうのかなって。」
「私はテニスコートです。嫌な感じはしなかったのでただ眺めていたらいつの間にか消えていました。」
「俺は校門じゃ。白いのが跳ね回っとるもんじゃから驚いたぜよ。」
「…いずれも学校だな。しかもテニス部近く、か。」
ふむ、とノートに書き記す。
それにしても絶賛する程美しい白い狐なら、俺も少し視たかったと思ってしまう。
そんな想いは内に留め、俺は疑問を舌に載せた。
「しかし、悪さをしないのなら問題は、」
ないんですよね?
尋ねようとした言葉は途切れた。
何故なら真正面に座っていた理熾さんが目を丸くしていたから。
色素の薄い瞳がより多くの光を映して煌く。
その隣に座る美女も、口を引き結び米神を押さえて俯いていた。
やがて動き出した理熾さんは「あー…」と唸った後、天井を仰いだ。
当然ながらそこには何も視えない。
否、あるのかも知れないが。
「まさかとは思うが…君達の身近に体調崩してる奴なんていないよな…?」
目を合わせず放たれたその言の葉は一体誰の心に安息を齎すというのか。
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