神産み下


「…あれ?何で皆いんの?」

「体調は大丈夫か?」

「おー。少し寝たら楽になったんだよぃ。熱も下がったし。」

「ほうか。そりゃ何よりじゃ。これ、今日の配布物。」

「あ、そっか。わりぃな。」

「あー…丸井先輩、今家に1人なんスか?」

「あぁそうだよ。親は出来るだけ早く帰ってくるっつってたけど、弟達は風邪移るとマズイから取り合えず遊びに行かせて、」

ガシッ
丸井先輩が1人だと応えた瞬間。
ドアの近くに立っていた幸村部長が目にも止まらぬ速さで半開きだった扉に手をかけた。
驚いた丸井先輩はノブを掴んだままびくりと肩を揺らす。

何事かと目を見開いて幸村部長を見やる丸井先輩に構わず、部長は扉を強引に引き開けた。
ノブを掴んでいた丸井先輩はその力に抵抗する間もなく前のめりになって2、3歩前に出る。覚束無い足取りなのは、やはり体調が悪いからだろう。

「…ゆ、幸村君…?急にドア掴んでどうしたんだよぃ…」

「なら、好都合だね。」

「好、都合…?どういう、」

「悪いね、ちょっとお邪魔するよ。」

「は!?」

「すまない、丸井。だがこれもお前の為なのだ!」

「いや許可なく家に入るのが俺の為とか…っ」

「悪いな。」

「いや、何で真田と柳まで…っ!」

「邪魔するぜよ〜」

「悪い、ブン太。」

「うわーいい家だな。」

「お邪魔させて頂きます。」

「って、おい!!ちょっジャッカルの後ろの奴誰だよぃ!!?」

「丸井先輩も早く中入ってください!俺が鍵閉めとくんで!!」

「ここ俺の家なんだけど!?」

あっという間にいっぱいになってしまった玄関を埋め尽くす靴達を避けて、丸井先輩の背を押す。
いつもより反論や反発が少ないように感じるのはやっぱり理熾さんの言っていた事が原因だったりするんだろうか。
そう思うと、何となく丸井先輩の背中を押す力が弱まった。

廊下を抜けていつもお邪魔しているリビングに入ると、ソファーとテーブルの近くに各々集まっていて、着けられていたらしいテレビの電源は柳先輩によって落とされた。

意味が分からないとばかりに混乱している丸井先輩を、ソファーに座るよう促す。
座っているほうが楽なのか、丸井先輩はあまり躊躇う様子も見せずに腰掛けた。
それを見た先輩達もそれぞれカーペットの上に腰を下ろしていく。

俺もそれに倣い腰を落ち着かせようとしたら、不審な目で理熾さんを見ている事に気付き、あ、と零した。

「その人、誰なんだよぃ?」

慌てて未だに立っている理熾さんの横に移動して、丸井先輩と彼女を交互に見つめる。そして困った事に気付いた。
何と説明すればいいか分からない。

一言目さえも容易く浮かばず、目線は宙を舞う。
フォローに回ったつもりがこれでは更なる応援を要する。

自分の不甲斐無さに消沈しながら、この説明には一番適任だろう柳先輩に視線を落とした。

一つ頷いてくれた柳先輩が口を開くのを、何故か隣にいた幸村部長が手で制した。
問い掛けようとした俺も、仁王先輩が唇に指を当てる仕草をして止められる。

気付けば柳生先輩も同じようにジャッカル先輩と真田副部長に首を振っていた。

この3人が一様に反応しているならと、俺の視線は隣に立つ理熾さんに向かった。
大体俺と同じ目線にある理熾さんの眼光は鋭く、鋭利を極めて生唾を飲み込んだ。

何故か背筋に氷塊が滑るぐらいの薄ら寒さを感じ、指が動かせなくなる。
どうしてだろうと、彼女の横顔を見つめていて、気付いた。

これは、



「出て来い。…漣-sazanami-。」



理熾さんの薄い唇から放たれた言葉はその場を凍りつかせる。
地を這うように低く、恐ろしい程に重みを持ったその声は空気を振動させる。

あぁ、やっぱり彼女は激昂している。

鋭さを増す色素の薄い眼光は、その瞳の奥に焔が燻っているようにも見える。
赤い陽炎が揺らめいているように見えて、その美しさと恐ろしさに息を呑む。

指先一つ動かすことが憚られる中、急に睨まれ、激怒されていると思ったらしい丸井先輩はヒクリと声を引き攣らせ、怯えたような眼で俺達を見る。

すると丸井先輩の身体からふわりと蜃気楼のようなものが立ち昇り、瞬き一つの間に、俺達の足元には白銀の毛並みを揺らす動物が降り立っていた。

思わず後ずさるが、ハッとしてよくよくその動物を眺める。

「きつ、ね…」

これが先輩達が言っていた白銀の狐。
まじまじとそれを見つめているのは俺だけではないようで、どうやら三人以外にも見ることができているらしい。

耳を揺らしたその狐は周囲を見渡し、そして理熾さんを認め、酷く怯えた様子を見せる。
震える小さな身体で、必死に頭を垂れていた。
その潤んだように見える瞳は波紋を描く水面のように揺らめく。

睨む理熾さんと、その眼光を受け怯える子狐。

ただ固唾を呑んで見守るしかない俺達だったが、状況を把握し切れていない丸井先輩が引き攣れた声を上げる。

「な、なぁ…なんなんだよぃこれ…」

小刻みに震える人差し指が突如として現れた狐を指す。
顔を青く染め、左手でソファーを握り締める丸井先輩にハッとする。
彼女が怒っている為に、リビングの空気は肌を刺すように痛い。

俺達は事情を知っているから何とか対処できているが、彼は何も知らないままこの空気に晒され、通常では有り得ない狐の姿を見ている。
本来なら失神してもおかしくない状況だ。

何か言わなければと口を開くが、渇き切った喉に気付く。
舌が上手く動かせず、喉も張り付いて音を出すのに労力を要する。
更に怯えている丸井先輩に何を言えばいいかさえ思いつかない。

恐らくこの場にいる全員がそうなのだろう。
先輩達も皆、視線が泳ぎ、彼らの喉仏が上下している。

酷く冷たいこの空間を支配している理熾さんは、ふっと小さく息を吐いた。

それだけで何かが外れたように圧迫感がなくなる。
同時に息を吐き出した俺達は、自分達の身体に汗が伝っていたことに気付く。

怯えた眼で理熾さんを見やる丸井先輩と、彼女の視線がそこで初めてぶつかった。
びくりと大げさとも思える程先輩の肩が跳ねる。
口を固く引き結んだまま何も発さない、発せない丸井先輩は瞬きさえ忘れたように理熾さんを凝視する。

彼女の耳に幾重も付いたピアスとカフスが擦れて音を立てる。

「すまない、少年。」

ゆっくりと、理熾さんが腰を折った。
深々と下げられた頭は丸井先輩に向けられている。

未知の人に怯えきっていた彼も、息を呑むと同時に瞠目する。
俺達もまた然りで、唐突に頭を下げ謝罪する彼女の意図が掴めず困惑した。

未だ頭を下げ続ける彼女に何と声をかけたらいいのか分からず、視線が右往左往するが元々俺達に向けられたものではない限り、俺から何かを言うのはお門違いなのだろう。
皆思うところは同じようで、謝罪されている丸井先輩を不安げに見つめた。

それに気付いたらしい彼は赤い髪を揺らして息を吸った。

「あの…頭、あげてください。」

何に対しての謝罪なのか分からないまま、しかし年上に頭を下げられたままと言うのは居心地が悪かったのだろう、丸井先輩が幾分落ち着いた声をかける。

しかし彼女は頭を上げず、更に頭を下げた。

俺は思わず彼女に上体をあげてもらおうと腕を伸ばすが、それは彼女の手によって制された。

「意味は、解っていないだろうが、君が体調を崩した原因は私達にある。…本当にすまない。」

振り絞るような声だった。

力強く握り締められた彼女の拳が血液を止めて白に染まる。
長い黒髪に覆われて見えない彼女の目は、顔はどんな表情を映しているのか。

赦しを請い求めるものではなく、ただ純粋なるまでの心からの謝罪というものを、俺はこの時初めて見た気がした。

息をする事さえ忘れそうなその光景に、何も言えないでいると、震え上がり鎮座していた子狐が慌てたように彼女の足元に走り寄る。
銀の毛並みを揺らした狐は鼻先をしきりに彼女の脚に着け、何度も何度も彼女の顔を窺っていた。

言葉のないそれは、きっと頭を上げて欲しいという懇願なのだろう。

しかし彼女は一向に頭をあげなかった。
見かねた柳生先輩やジャッカル先輩が声を掛けても微動だにせず、ただ低頭するばかり。

だから俺は丸井先輩を見た。
何となく、わかった。
理熾さんは丸井先輩が何に対する謝罪なのかを理解してから、頭を上げろと言うまで頭を下げ続けるんだろう。

困惑しきりの丸井先輩に、仁王先輩が口を開いた。

「ブンちゃん、ブンちゃんが最近体調悪かったんは、そこの子狐がおまんさんに懐いて着いてってしもうたからなんじゃと。」

「…は?俺に、懐く?」

「えぇ。信じられないかもしれませんが、丸井君にもそこの狐が見えているでしょう?彼女、理熾さんはその狐さんのご主人のご友人、連れ戻しに来られたんです。」

「懐いて丸井の精気を奪ってしまったんだって。ご主人も、その子狐も、意図的でも、悪気があったわけでもないんだ。」

「ちょ、ちょっと待ってくれよぃ!マジ、なんの話してんだよぃ!」

意味が分からないとばかりに丸井先輩が叫ぶ。
その困惑は分かるし、俺達もさっき同じような状況にあったのだから何も言えない。
ただこれは事実だ。
嘘でも冗談でもない。
再び怯えるような眼で丸井先輩が狐を見る。

俺達が真剣な眼差しで彼に訴えかけていると、何度か深呼吸をした丸井先輩が俯いた。
血の気が引いたような顔を、両手が覆う。

やはり、急に信じてもらうのは難しいのだろうか。
俺達は非現実的な事の連続で、否が応でも信じるという選択肢しかなく、疑う余地さえありはしなかったが、あまりに突発的で脈絡さえ感じられないこの現状を思えば、丸井先輩が俺達の質の悪い冗談だと笑い飛ばしてしまっても仕方ない。

だが、気付いて欲しい。
理熾さんの真剣な謝罪に。

俺はただ彼女の思いが、目の前で顔を覆ってしまった先輩に届くことだけを願っていた。


「……じゃ、さ。その俺に懐いてたっていう狐、が、その…ご主人、と帰ったら、俺は、この…風邪、…じゃない、やつと、…が、治るんだよ、な…?」


顔を覆う両手の隙間から途切れ途切れの声が聞こえた。
震えてはいないが、必死で俺達の言葉を噛み砕いて整理しようとしているような、迷い迷いの言葉。
拙いそれに、俺は目を見張った。

「信、じてくれるんスか…?」

呟いたつもりでいたそれは思いの外室内に響いた。
すると音のない空間で、ゆっくりと丸井先輩が顔を上げた。

指の間から見えるその表情は、苦笑。

「だってお前ら超真剣じゃん。信じねぇ方がおかしいだろぃ。」

そう言って笑みを濃くする彼に、俺達は一様に笑みを浮かべた。
安堵と、喜び。
彼がこんな突拍子もない事を信じる上で、俺達は信頼に値したようだ。
よかった、と息を吐いた時、丸井先輩は躊躇いがちに頭を下げたままの理熾さんに目線を移す。

「あの。その狐、迎えに来てくれたんですよね?」

「…あぁ。」

「んで、その、わざとじゃないんですよね?」

「もちろんだ。」

「なら、…頭、あげてください。」

改めて丸井先輩が声を掛けると、今まで微動だにしなかった理熾さんが頭を上げた。
色素の薄い鋭い眼光が、丸井先輩を射抜いて、細まる。
目のやり場に困ったらしい先輩が視線を下げると、彼女は小さく口を開いた。

「いいのか。君の生活に支障をきたしてしまったのに。」

「や、別に。普通の風邪と変わんない感じだったんで、俺、その、そういうのって気付いてなかったし…、」

彼らしくない、覇気のない声だった。
躊躇うような、言葉を選ぶような、慎重なそれに笑いそうになってしまったのはきっと俺だけじゃないはずだ。

それなのに丸井先輩は俺だけを睨み付けた。
思わず口を引き結ぶ。
理不尽だ。だって幸村部長や柳先輩なんて肩を震わせているのに。

俺を一睨みした丸井先輩は、自身の頬を掻きながら、真剣な眼差しを向けてくる理熾さんに少し笑いかけた。
いつもよりぎこちないそれは、しかし、放たれた言葉で緩和された。

「むしろ、助けにきてくれてありがとうございます。…お前らも、心配してくれてサンキュ。」

俺達は思わず固まった。
そして笑う。
声を立てたものではなく、ただはにかんだ。
面と向かって言われると、何となく気恥ずかしくて、なんと言ったらいいかわからない。
それは言った丸井先輩も同じなのか、上気した頬が髪と同じ色に染まっていく。

嬉しいような、恥ずかしいような思いを誤魔化す為に隣に目線をやると、困ったように笑う理熾さんがいた。

困っているような、でも嬉しそうな。
途方もない、と形容できそうな笑みを浮かべた彼女は溜息ともつかない声を吐いた。

「普通は怒鳴り散らしてもいいとこだってのに…君達は心根が純粋すぎるね…」

その呟きは、何故か俺達の心に、
痛まない硝子の破片のように残った。



ただ何も知らないこの時は、何故か泣きそうな彼女に、笑いかける事が自分に出来る精一杯だったのだ。

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