忍び寄る仄暗い翳。


テニスコートを眺めながら鉛筆を画用紙に走らせる。
でもグラウンドには仁王君の姿が見られない。

今日はお休みなのかな…。

そんな事を思いながら画用紙に視線を移す。
そこにはもちろん仁王君の姿。

これが完成したらお家まで持って行こう。
きっと彼は喜んでくれる。

鉛筆を滑らせる音だけが響く美術室。

その時、扉を開ける音が聞こえた。
驚いてそちらに視線を上げると見慣れない女子生徒。

しかも制服が立海のものではない。
ただ見つめているだけの私に、彼女は微笑んだ。

綺麗な、人…。

不躾に見つめ続けていると彼女はスケッチブックを挟んだ正面の机に腰掛けた。
そして唇に綺麗な弧を描いたまま口を開く。

「初めまして。」

耳に心地よいアルト。
私はただ会釈を返す。
どきまぎして声が出ない。

そんな私を見透かすように彼女は小さく声を零して笑った。
それさえ絵のようで私の目は惹きつけられる。

「私は麗華って言うの。」

「…麗華、さん?」

「そう。貴女は?」

首を傾げて尋ねる彼女は不思議な人。
ふわふわとしていて、きっと浮世離れって彼女みたいな人をいうんだろう。
夕日に照らされる白い肌を見つめながら、私は導かれるように口を開いた。

「飯島 ひかる。」

「そう、ひかるちゃん。」

にっこりと彼女が笑う。
どうしてだろう。女の人なのにどきどきする。
それにこの香り…

「仁王君と、同じ香水…?」

「え?」

「あ、ごめんなさい。何でも、」

ない。と続けようとして思わず彼女の口元に目をやる。
仁王君と同じ位置に黒子があったから。
驚いて凝視していると、麗華さんはまたふわりと笑った。
首を傾げて目を細める笑い方も、似てる。
この人、まるで仁王君みたい。
あぁ、そうか。
だからさっきあんなにもドキドキしたのね。

考えていたら彼女はゆっくりと口を開いた。
だるそうに首元に手を持っていく仕草は仁王君がよくやっているものと同じ。

「ひかるちゃんが、仁王の彼女なのかな?」

唐突な問に驚いた。
だって麗華さんはどう見ても立海の生徒じゃないのに。
なんでその事を知っているんだろう。
あぁ、でも仁王君と呼び捨てにしたってことはお友達か何かなのかな。
もしかして麗華さんも仁王君を狙って動き回る子の一人なのかな。
それは嫌だな。だってこんなに綺麗で仁王君に似てるんだもの。
でも仁王君の邪魔になるなら彼女も傷付けないといけないな。
だって私と彼の間に女の子なんて必要ないもの。

「ふふ。そんなに難しい顔しないで。」

艶やかに麗華さんが微笑んだ。
まるで安心してとでも言うようなその表情に私は目を瞬いた。

「私はただの仁王の友達だよ。彼女の噂を聞いてひかるちゃんに会いに来たの、それだけ。」

にっこりと言われ、ほっと胸を撫で下ろす。
よかった。
彼女は傷付けずに済みそう。
ただでさえ最近の仁王君は纏わりつく女の子達のせいで疲れているんだもの。
これ以上負担はかけたくない。

じっと麗華さんを見上げていたら、彼女は悪戯っ子のような表情をしてこちらを見た。
あぁ、仁王君が誰かをペテンを仕掛ける前に似ている。

「ねぇ、仁王とひかるちゃんの馴初めを教えてよ。」

声がワントーン落ちるところさえも。


私はぽつりぽつりと彼女に話した。
だって彼女は笑わずに私の話を聞いてくれるの。
とっても真剣に。けれどどこか楽しそうに。
今までの友達は私が言うと怪訝な表情を見せたり、驚いたような顔をしたり、様々だったけれど、最終的には“おかしい”と言ってどこかに行ってしまうの。

それが嫉妬からくる事だとは分かっていたけれど、それでもやっぱりいい気はしない。
でも麗華さんはただ純粋に興味深そうに聞いてくれた。
だから私も全てを話したの。

「最初は私の落としてしまったキーホルダーを拾ってくれてね、慌ててお礼を言ったら“気をつけんしゃい”って笑ってくれたの。それからよ、付き合うようになったのは。」

「へぇ。仁王にも優しいところがあるんだね。」

「いつも優しいのよ、彼。こないだデートしたときも優しくエスコートしてくれて。ダブルスの柳生君みたいにとっても紳士的だったの。」

「そう。私にはそんなことしてくれないから、やっぱりひかるちゃんは特別なんだね。」

特別。
その言葉に私は胸が躍った。
麗華さんは分かってくれてるんだ。
私が仁王君の彼女だと。

嬉しい。
それに仁王君が私以外に優しい態度をとっていないという事実も。
思わず笑みを零すと、彼女もまた笑っていた。
笑顔が似合う人ね。
仁王君と同じ、猫のように目を細めて笑う人。
それに仁王君みたいに優しいわ。

他の人みたいに嫉妬で私を馬鹿にしないもの。
やっぱり仁王君って友達も素敵。
もっと話していたい。
もっと仁王君と私の話を聞いて。
だって今日もこれから仁王君とデートする約束をしているの。
ねぇ聞いて。
私がどれだけ彼を愛しているか。
まだ足りないわ。
彼のためなら、私なんだって出来るの。

もっと、私の話をキイテ。

「もう下校時間か。…それじゃあね、ひかるちゃん。」

「え…」

「ほら、私部外者だから。先生に見つかっちゃうとマズイの。」

困ったように笑う彼女。
そんな。せっかく仲良くなれたのに。
こんなに短時間でこんなに話せたのは貴女だけなの。
仁王君にどこか似通う貴女だけ。
思わず椅子から立ち上がって麗華さんを見つめ続けた。
すると彼女は優しく笑って私の頬を撫でた。

その優しい手つき、私を撫でる仁王君の手つきみたい。

「また来るよ。」

頷けば、麗華さんは仁王君と同じ香りを残して教室から去っていった。
触れられた頬をなぞる。
仁王君の感触を思い出そうとしたけれど、どうにも思い出せない。
おかしいな、記憶は残っているのに、感触がない。

不思議に思いながらも、私は麗華さんの座っていた机を見る。
そこに落ちた黒い髪の毛を見つけて、私は手を伸ばす。

これは確かに麗華さんのモノ。
私は嬉しくなってソレを生徒手帳に挟んだ。


来るべき妄の終を知らぬ少女。


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