奈落に沈み逝く安楽。


「うわ〜…超言い争ってんじゃん。」

「…精市あの声どっから出してんだろ。」

「案外地声なんじゃね?普段無理して低くしてるみたいな。」

「怜って何でそんな精市と仲悪いわけ?」

「別に?アイツが突っかかってくるだけっしょ。」

「アンタが精市怒らせるからじゃないの。」

「そうとも言う。あ、掴みかかった。」

「悠長に言ってないでカメラ構えてよ。これ逃したら精市きっともうやってくれないから。」

「はいはい。俺結構タイプだけどなー精子ちゃん。」

「怪我…しないと良いんだけど。」

「…何。心配なの?」

「そりゃあね。テニスプレイヤーだし。」

「ふぅん。俺が喧嘩してる時は心配してくんねぇのに。俺妬くわー。」

「あっちょ、構えてる!?」

「はーい、いつでもおっけー」

ズサササッ

カシャッ

「うーん完璧。俺自分に惚れそう。」

「ねぇ…あれ盛大に階段から転がったけど大丈夫なの。」

「大丈夫なんじゃね?ウィッグ取れてねぇし。」

「そういうことじゃねぇよ。」

「さぁー。俺的に階段落ちの100点の落ち方だったと思うけど?」

「…はぁ…、精市!!」

突き落とした女が去っていったらすぐに麗華は転げ落ちた精市に駆け寄った。
何だかんだアイツのこと気に入ってるよな、それだから俺はアイツが気に入らないって 麗華は気付いていないんだろうか。

「いや…気付いててやってんのか。」

嫌になる。
彼女の狡猾さが。でもそれが愛しいと感じてしまう俺はやっぱり狂ってる。
多分それは立海メンバーにも言える事なんだろう。
精市も普通はこんな依頼断るはずだ。
何のメリットもないし、何より危険だ。
下手をすればテニスに影響が出るかも知れない。
それなのにアイツは麗華のお願いを断らなかった。

「操り人形かよ。」

小さく呟いて階段を降りた。
思わず口元に浮かんだ笑みは自嘲か、それとも。


「まさかあんなに綺麗に階段転げ落ちるなんて思わなかったよ。」

「まっ逆さまに落ちるよりはいいんじゃないかと思って。痛かったけど。」

「そりゃあね。とりあえず怪我は軽いみたいでよかった。」

安心したように微笑む麗華に笑い返す。
擦り傷が出来て血が滲んだ腕を動かす。
良かった。あんまり痛まない。
これならテニスに支障はなさそうだ。

ほっと息を吐いて、眼鏡を取る。
ウィッグにも手を掛けようとすると止められた。
首を傾げて麗華を見ると、困ったような苦笑を返された。
今は取らない方がいいんじゃない?と言われハッとした。

危ない。もう少しで女装癖があるって噂されるところだった。
自力で立ち上がろうとして、気付く。
ヤバイ。脇腹打ち付けてる。すっごく痛い。

思わず顔を顰めると、心配そうに麗華が眉を寄せる。
あ、その弱弱しそうな表情好きかも。

「ちょっと擦り傷がスカートに擦れて痛んだだけだから、気にしないで。」

「…本当?」

「本当だよ。」

笑いかけると、彼女は息を吐いていた。
そのまま手を差し伸べてくれるけれど、今その手に捕まって立ち上がれば脇腹が痛んでまた顔を顰めてしまうかもしれない。
どうしようかと逡巡していると、麗華の後ろから表れた黒崎が彼女の肩を叩く。

「放課後だし、麗華はあの女に会いに行くんだろ。」

「もうそんな時間?」

「精市は俺が空き教室まで連れてくから行けよ。」

「分かった。ありがとう。」

手を振りながら早足で去っていく麗華の後姿を眺める。
どうにか怪我はバレずに済んだけれど、まさか黒崎が残るなんて意外で思わずじっと彼を見つめた。
すると黒崎はしゃがみこんで「俺その顔で見つめられたら襲っちゃうよ?」とほざいた。
なんだコイツ。寿命はまだなのか。

心の底からの嫌悪を現して顔を歪めたら、ふっと笑った黒崎が「で?立てんの?」と聞いてきた。その言葉にまさかと目を見張った。

「脇腹。お前派手に打ち付けて落ちただろ。」

「……なんで分かるわけ。」

「さぁ?精子ちゃんの事愛しちゃってるからじゃね?」

「死ね。」

「分かったからさっさと立てよ。着替えて医務室行かねぇとなんねぇだろ。」

黒崎の腕が俺の体を支えて立たせる。
ピリッとした痛みが走ったけれど、酷い痛みじゃない。
礼を言うべきかと顔を上げると、彼はすでに歩き始めていた。
慌ててその後ろを着いて行く。
腕が擦れると痛みはするが、歩いている時に支障はない。
それを確かめながら先に歩いて行く赤毛に声を投げた。

「助かったよ。ありがと。」

「…お前、何で断らねんだよ。」

「え?」

「麗華も麗華だしよ。よりによってお前に頼むことねぇだろ。」

「…別に。俺が引き受けたことだし、麗華は悪くないだろ。」

彼も心底麗華にハマっているはずなのに、まさか非難するような事を言うとは思わなくて驚いた。
表情が読めない後姿を眺めながら返答を待つ。
やがて聞こえてきたのは長い溜息だった。

「馬鹿だよな。お前も。テニス部のレギュラーの奴らも。」

「…は?」

急に真剣な声音で言われ眉を寄せる。
一体なんだなんだ。何が言いたいんだろう黒崎は。
訳が分からず、取り敢えず侮辱された事に対して何か言わなければと口を開いた。

「秀も慶も、…俺も。」

そう呟いた黒崎が振り向いて、笑った。
苦笑とも自嘲とも形容しがたいそれに押し黙る。
馬鹿。
一言に纏めてしまえばそうかもしれない。
だって麗華は明らかに何かがオカシイ。
狂った彼女に魅せられた俺達もまた、何かがオカシイんだろう。
でも、それは馬鹿ではない。

「麗華に囚われた時点で、愚か者に昇格してるんじゃない?」

そう言って笑えば、彼は目を見開いて次いで笑った。
ニヤリと笑ういつも通りのソレは、確かに麗華に毒された証だった。



「これが根元が黒くなっちゃってる時の仁王君の髪の毛なの。」

「へぇ。あ、本当だ。」

「ふふ。だから私教えてあげたの。黒くなってるよって。」

「そうなんだ。」

「そしたら“気付かんかった”って笑ってたのよ。」

「見たかったなぁそれ。」

美術室で会話する二人。
廊下でそれを聞きながら待っている俺は背筋が寒くなるのを感じた。
さっきから普通に相槌が打てる麗華に尊敬と畏怖を抱く。

だって俺は飯島と会話したことなどないのだから。
辛うじてあるのはアイツがこないだ言っていたキーホルダーを拾ってやったというもの。
だがそれも気をつけろとは言ったがそれだけであって、そこから付き合うという会話など微塵もしていない。

ちらりと美術室を覗く。
そこにはキラキラとした純粋とも呼べる眼差しで麗華を見つめる飯島と、優しく微笑む麗華。

そしてその二人の間の机には、
綺麗に並べられた何本かの髪の毛。
ぞっとして顔を背けた。
きらりと銀に光ったあの髪は間違いなく自分のもので。
薄ら寒さと共に吐き気さえ込み上げる。

それに微かに見えた、飯島が手に持っていたのは。

「これ、昨日仁王君が切っていた爪よ。」

「…ッ」

ヤバイ。無理だ。これ以上堪えられない。
口元を覆って吐き気を堪える。
麗華を待っていようと思っていたが、この不快でおぞましい会話をもう聞いていたくない。
頭痛がして、いよいよ立っていられなくなった時、腕を支えられる。
驚いて顔を上げると心配そうな表情をした柳生と目がかち合う。
小さく目を見張ると、柳生は無言で俺を支えて廊下を進むように促した。

「柳生、おまえさん…何で、」

「幸村君に心配だから様子を見てきてくれと言われたんですが、来てよかった。」

苦笑した柳生は美術室を一度覗く。
飯島を見て顔を顰め、麗華を見て微笑んだ。
そして俺に視線を戻し、歩けますか?と問う。

頷いた俺の腕を支えながら、柳生は小声で続けた。

「ここは麗華さんと柳君に任せて、仁王君は少し離れたほうがいいですね。」

言い切る前に曲がり角から参謀が姿を現した。
驚く俺をよそに、参謀は顔を顰めた。

「…酷い顔色だ。休んだ方がいい。」

「…すまんな。」

「いや気にするな。これも麗華の話術のデータを取るいい機会だ。」

そう言ってノートを広げる参謀に苦笑した。
心配してくれとるのが丸分かりじゃ。
柳生に体重を預けながら、俺は言った。

「ありがとうの。」

随分といい仲間を持ったもんじゃ。
面倒だと言いながら、ちゃんと解決しようとしてくれている麗華も。
俺はふらつく足取りで廊下を歩いた。
不快感はいつの間にか拭われていた。


ソファーの糸くず


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