牙を剥く餓狼。


水の流れる音が響いている。
個室の扉を開けて出ると、乱れた制服のまま頭を水で濡らしている麗華の後姿が見えた。

「…制服まで濡れているぞ。」

「…ん。」

返事は返すものの頭を濡らすのを止めるつもりはないらしい。
彼女のカッターシャツに水が染みていく。
それを見つめて、俺は洗面台に腰を預けた。

「もう一週間だ。…そろそろ限界じゃないのか。」

「……。」

「仁王も黙ってはいるが、ストーカー行為がエスカレートしているようだ。丸井がここ最近仁王を家に泊めていると言っていた。」

「……。」

「あの女はすでにお前を信用しきっているように見えるが。…その信用こそが必要だったんじゃないのか。」

「そうだよ。」

それまで黙っていた麗華は顔を上げる。
鏡に映る彼女は、表情を失ってしまったように何も現してはいなかった。
額から伝った水が、その瞳を滑っていく。
泣いているようにも見える彼女の口角は、しかし、横一線で動く歪む事はない。

「信用が欲しかったんだ。誰にも負けない、唯一無二と思わせる信用が。」

ぎらりと、
麗華の目が鏡越しでも分かるほど光る。
その狂気に惹きつけられる。
恐怖と羨望が倒錯する。

「唯一無二を喪った時の、彼女が見たい。」

「……それは、麗華に逆恨みがくるんじゃないのか。」

「分かってないな、蓮二。」

彼女の口角が釣りあがる。

「私は生半可な友達を築いたんじゃない。仁王のような憧れの対象であり、何でも話せる親友の関係。それは他の誰にも真似出来ない。」

「そのせいでこの一週間で麗華に対する飯島の依存度は異常だ。」

「そう、その異常な依存が欲しかったの。」

「…どういうことだ。」

ふふ、と不気味な笑いが響く。

「絶大的な唯一無二に裏切られたと感じた時、人は消沈するしかないんだよ。」

「……、」

「彼女は私に仕返しなど出来ない。私は依存対象だから。仁王は愛というやり場のない感情を押し付ける大切な対象だ。そうしたら、…ほら。彼女は八方塞で身動きが取れない。」

「なるほど。…お前のシナリオが読めたよ。だから飯島に仁王の傍にいる女子達に嫌がらせする事を唆しては、それを黒崎に写真に収めさせたんだな。…全て飯島の逃げ場を無くすために。」

「だから途中で廊下で待ってるのが蓮二に代わってくれて助かったよ。仁王だったらやりにくかった。」

ぽたぽたと音を立てて雫が洗面器に落ちる。
蛇口を捻った麗華は艶やかに笑った。
それは嘲笑のようだった。
掻き上げた麗華の黒髪から飛沫が飛ぶ。
それを拭うこともせず、俺は黙っていた。

彼女の言う通りならば、もうこの件は解決するのだろう。
仁王を苦しめる種は根絶やしにされ、もう芽生えることなく枯れていく。
そしてその種は餓えた彼女の歯牙に砕かれ糧となる。

洗面台に預けていた腰を離し首元を締めるネクタイを緩めた。
愉しそうな麗華の表情を見るに、きっと明日には解決する気なのだろう。
なら、

「っ……ちょっと、」

「なんだ。」

「さっきもやったばっかでしょ。」

秀麗な面差しが不機嫌に彩られる。
それを鏡の中で見つめながら、俺は洗面台に押し付けた彼女の体に触れた。

「明日には解決できるんだろう?」

「そ、っだけど…ッ痛いって、」

「なら問題ない。」

「んぁ…ッ」

苦悶に歪む彼女の表情を見つめながら指を滑らせる。
明日に解決するという事は、明後日には麗華は氷帝に戻ってしまうという事。
それなら、
彼女を堪能していたい。
他の誰よりも。

目を閉じて、俺は彼女に溺れた。


恐怖と愛が倒錯した俺達は、もう君に囚われている。


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