黎明の来迎。
痛くなるほど指を擦って洗剤で洗い流す。
手が赤くなってきたのを見計らって蛇口を捻った。
ヒリヒリとするけれど、これでいい。
だって仁王君に纏わり着く汚い女に触ってしまったんだもの。
これぐらいしないと穢れは拭えない。
目の前の鏡に映る自分の髪を整える。
今日もまた美術室に行くの。
きっとまた麗華さんが来てくれる。
そしたら今日は何を話そうかな。あ、そういえば今日の数学の時間、仁王君は丸井君とお喋りしてたな。
とっても楽しそうだった。
そうだ、その話をしよう。
彼女はどんな話も笑顔で聞いてくれる。
あんな人は他にいなかった。
仁王君と同じくらい大切な人。
小さく笑ってハンカチで手を拭く。
さっきから廊下が騒がしい。
バタバタと走っていく先生達の姿が見える。
女子生徒がガラスの破片で怪我をしたって、そんなに大騒ぎしなくてもいいのに。
だってあの子が仁王君に告白なんかするからいけないのよ。
私はハンカチをポケットにしまって、女子トイレを出た。
あぁ、早く麗華さんに会いたい。
美術室の扉を見えてくる。
意気揚々と扉を開こうとして、手を止める。
ガラスの先に見える麗華さん。
と、誰かの影。
誰かと話してる…?
ならば今入っては彼女の邪魔をしてしまう。
彼女には嫌われたくないもの。
そう考え、私はどこかで時間を潰そうかと美術室を離れようとして、聞きなれた声を聞いた。
それは麗華さんの声と、
…仁王君の、声?
驚いた私の足はその場に止まってしまう。
盗み聞きはいけないと、もしバレてしまえば麗華さんに侮蔑の眼差しを向けられてしまうかもしれないと理解しながら、私はそこから動くことが出来なかった。
断片的にしか聞こえない会話を聞き取りたくて扉に耳を押し当てる。
麗華さんと仁王君はお友達なのよ。
何も不審がることなどないわ。
そう言い聞かせているのにザワつく胸を押さえられない。
ぎゅっとスカートの裾を握り締める。
息を押し殺して、二人の会話に耳を澄ませた。
グラウンドから聞こえる運動部の掛け声でさえ煩わしい。
「…そろそろ、えぇかの?」
「いいんじゃない?」
「……おまんさんはいつも余裕そうで羨ましいのぅ。」
「そう?まぁ今は楽しくてしょうがないから。」
「えぇ趣味しとる。」
「よく言われる。」
何の話をしているんだろう。
よく分からなくて耳を澄ます。
けれどそこで会話は途切れ、無音が続いた。
訝しんで扉にあるガラスから美術室の中を覗き込んだ。
私は目を疑う。
机に腰掛ける麗華さんと、
麗華さんに、キスをする、仁王君。
意味が分からなくて困惑する。
どういう事なのか答えがほしくても、そんな人いるはずもなくて、
私はガラス越しの二人を見つめ続けた。
目を逸らそうとしても出来ない。
何で。どうして。
そんな言葉ばかりが頭に木霊する。
だって麗華さんは私と仁王君の話をいつも笑顔で聞いてくれて、
一度だって他の女のように私を蔑んだ事などなかったのに。
違う違う違う違う違う違う。
だって麗華さんは他の女達とは違うのよ。
そう、これは何かの間違いだわ。
きっと何か事情があってしているの。
ああ、もしかしたらしつこい女達を追い払うための作戦かも。
きっとそう。絶対そう。
ほらあのキスだってやっているように見せかけてるんだわ。
私は大きな音を立てて扉を開けた。
けれどその音は机と机が激しくぶつかり合う音に掻き消される。
「何…してるの、」
麗華さんを机の上に組み敷いている仁王君に声をかける。
性急に彼女の制服を乱そうとしていた彼は、見たこともないような恐ろしい目付きで私を睨んだ。
どうしてそんな目をするの。
いつものように優しい目で私を見てよ。
「…見たら分かるじゃろ。セックス。」
そんな冷たい声色も聞いた事なくて。
恐怖と困惑が入り乱れる私から、まるで飽きたと言わんばかりに仁王君は視線を逸らした。
そして麗華さんの首元に顔を埋めた。
卑猥な水音も、麗華さんの唇から零れる嬌声も、何もかもが信じられなくて私は金切り声を上げた。
「止めてよッ!!!!どうして…何で…!!!」
「五月蝿いのぅ…黙っとってくれんか。」
「だ、だって…仁王君の彼女は私なのに…ッ!!」
ウンザリしたように溜め息を吐く仁王に必死で訴える。
だって彼の彼女は私なの。
邪魔な女は皆消してきた。
仁王君は私しかいないの。
ワタシだけのモノなの。
言い募っていると、それまで机に横たわっていた麗華さんがゆっくり起き上がった。
黒髪を掻き上げながら、彼女は私に微笑みかけた。
それは私の大好きな笑みで思わず口元に笑みが浮かんだ。
良かった。
きっと私の早とちり。
何か理由があるの。
尋ねようと口を開いたが、それより先に麗華さんが声を発した。
「ごめんね。」
一体それは何に対する謝罪なのか分からなくて硬直する。
イタズラや演技に対する謝罪なのか。
それとも、
「ひかるちゃんが仁王の良いところ教えてくれるから、私も欲しくなっちゃった。」
ニッコリと笑った彼女が手を伸ばす。
仁王君の頭を引き寄せて抱き締める。
その光景に、私は立ち尽くすしかなかった。
「なんで…麗華さん…」
「あれ?ダメだった?他の女の子じゃなくて、私で良かったと思わない?」
仁王君に似た貌が笑う。
絡み合う二人を見続ける事は出来なくて私は美術室を飛び出した。
「ははっ傑作だね。」
麗華は片手で顔を覆いくつくつと喉で笑った。狂気を見せるソレに、俺は震えた。
乱れた制服のままで寝転がった彼女は赤い唇で、
嗤った。
「これで終わったと思うなよ。勘違い女。」
吼えた彼女に、俺はただ黙っていた。
校庭をひた走った。
走って走って、
息があがってようやく止まる。
苦しい。
それは酸欠からか、それとも大切な二人に裏切られたからなのか分からない。
仁王君はあんなに私を愛してくれていたのに。
でも仁王君が素敵なのは今更だから、麗華さんが惹かれてしまうのも仕方ない。
でも、仁王君は私のモノなのよ。
それなのに麗華さんは籠絡したっていうの。
沸々と憎しみが沸き上がる。
でも待って。おかしいわ。
だって麗華さんがそんなことするはずないもの。
きっと仁王君を好きになってしまったら私に真っ先に言ってくれるはずだわ。
じゃあどうして。
あぁもしかして、
「誑かされたのかしら…」
そうね。
私を僻んでる女達に何か言われたのよ。
きっとそう。
「…だから嫉妬する女って嫌い。」
早く美術室に戻って麗華さんに話を聞かないと。
そして、女を
ケサナイト。
「おーい飯島ー」
名前を呼ばれ振り返る。
そこには見たこともない赤毛の男子生徒。
ニヤニヤと下品な笑いを浮かべる彼に嫌悪感を抱く。
すると彼は何枚かの写真を渡してきた。
意味がわからないまま渋々ながらに受け取ると、そこに写っていたのは、
私が仁王君に近付いた女達に制裁を下しているモノばかりだった。
どうして
どういう事、
私はちゃんとバレないようにしたはず。
麗華さんにも協力してもらって、誰にも見付かることなく罰を与えてきたのに。
驚愕に目を見開きながら目の前の男を見た。
下卑た笑いを浮かべた男は、牙のような歯を見せて言った。
「愉しい愉しい、鬼ごっこの始まりですよ。」
バサバサと、
頭上から音がする。
真っ白な頭で見上げると降り注ぐ写真。
それが一体何なのかなんて考えたくない。
屋上から写真をばらまいた彼女は、
最初に会った時と変わらない、
艶やかな笑みで言った。
「チェックメイト」
End
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