邂逅


16:30

図書館の立ち入り禁止の蔵書棚


私はそっと足を踏み入れた。
埃っぽいそこ。
口元を押さえながら、ゆっくり奥へ進む。

徐々に暗くなっていく室内に怯え、何度も後ろを振り返る。
先生も生徒もいない。

…考えたくないけれど、解決屋の噂がえりなの仕組んだ罠だとしたら、
不安を払うように頭を軽く振った。

何架目か分からない、一際大きな棚を過ぎた時、気付いた。


床に広がる埃に浮かび上がった、
足跡。


その足跡に釣られるようにして足を踏み出した。
不意にその足跡が途切れる。

蔵書の一番奥で一番汚れているはずのそこは、埃一つ無い広々とした空間だった。
磨かれた机と、キャスター付きの椅子。


そこに座る、誰か。


奥に設置された窓を向いて本を読んでいたその人は、ぱたんと本を閉じた。
キャスターと床が擦れる音が、痛すぎる沈黙の空間に響いて私の肩を揺らした。

椅子に座る誰かは、
逆光でよく見えない。

でも輪郭で分かる。

女の、ひと。

「ようこそ。…解決屋へ。」

そう囁いた彼女の口角が持ちあがり、私を見据えた。
どくん、と心臓が跳ねる。
まるで見透かされるような、そんな気がした。

突っ立ったままの私に、頬杖をついた彼女は左腕にはめられた腕時計を見た。

「16時34分…あと1分遅ければ帰ってたよ。」

よかったね、間に合って。
小さな笑いとともにその声が響いた。
何も言えずにいるとすぐ傍からキャスターの音が聞こえて慌ててそちらを見た。

キャスター付きの椅子を滑らせてきた男子生徒が、ちらりとこちらを見た。
その無表情と気だるげな顔には見覚えがあった。

「霧生、くん…?」

呟くように尋ねると彼は何も言わず椅子を滑らせた。
そして女生徒の向かいに椅子を置いた。

音もなく霧生君は離れ女生徒の横に立った。

相変わらず突っ立ったままの私に、女生徒は向かいの椅子を指し示し、薄く微笑んだ。

「どうぞ?お嬢さん。」

近くなって女生徒の表情も伺えるようになったけれど、見たことのない人だった。
人数が多い氷帝だし、見たことがないのも仕方がない。
霧生君はただ同じクラスなだけ。

霧生君にちらりと視線を投げてみるけれど、彼はどこを見ているのか分からない。
黙って目の前の女生徒を見ていると、彼女は成る程ね、と呟いた。

「ずいぶん面白いことになってるね、テニス部。」

ふふ、と笑う彼女になんと言っていいか分からず黙り込む。
すると彼女は口元を押さえた。

「失礼。無神経すぎたね。」

案ずるような声音に慌てて「いいえ」と応えた。すると彼女はほっとしたような表情で溜息を吐いた。

ざんばらに伸ばされた黒髪を掻きながら、女生徒は話し出した。
抑揚のない、流麗な声が言を紡ぐ。

「解決屋に依頼するときの条件は知っているかな?」

「…解決屋の正体は他言無用、ですか?」

「そう。ちなみに誰か教えてくれたりした?」

「…いいえ。さりげなく聞いてみましたけど、誰も。」

「それはよかった。」

いるって応えられると面倒な仕事が増えるから。
笑って告げた彼女に背筋を悪寒が走る。

本当に、大丈夫だろうか。
怖い。

「此処に来た以上、約束事は守ってもらうよ。解決屋の正体は他言無用。…もちろん霧生のことも、ね。」

「…はい。」

「まぁでも何かあったら霧生に言うといいよ。同じクラスでしょう?あぁ、でも解決屋ってバレないようにね。」

「……はい。」

「さて、と…。で?具体的にはどうして欲しいのかな?」

にこりと微笑まれ一瞬言葉に詰まった。

本当に言っていいのか、とか。
本当に解決できるのか、とか。
周りにバレてもっと大変なことになるんじゃ、とか。

色々頭を廻って、
黙り込めば静かなテノールが空気を揺らした。

「…ここまできたなら、信じれば。」

そっけない声に顔を上げると、無表情な霧生君と目が合う。
ガラス玉のようなその瞳に、何故かすっと悩みが引いていく。

言うだけなら
解決できなくても言うだけなら、
もう何が起こっているかは告げてしまった。

なら、どうなりたいかなんて、

言ってもいいじゃないか。

「また、元に、戻りたくて。」

「…元に?」

「えりなちゃんは、その、正直どうでもいいんです。ただ、…ただ皆と笑えてたあの頃に戻りたい。」

そう、それだけ。
復讐とか、そんなんじゃなくて、
どうでもいいの。

彼らとまた、笑いたい。
優勝を目指したい。

それだけ。

太腿に握った拳に、涙が落ちた。
引き攣れた火傷の痕に、歪に伸びた水。

ぱたり、と小さな音がやけに耳について、次々と雫が落ちていく。

戻りたい。

嫌われる前に。

まだ、テニス部が好きだから。
嫌われても、嫌いになれないほど。

抑えきれない嗚咽が漏れて、こんなの二人に迷惑だって分かってるのに止められなかった。

苦しくて息が出来ない。
目元を必死で拭って、擦って、

流れ出す熱い水を止めようとするけど、

意味なんてなかった。


一ヶ月間、零れることなどなかった涙は堰を切ったように溢れ出し、ぼろぼろと零れた。

何も言わない二人に申し訳なくなりながらも止められないから何も言わないでくれてよかったと思った。

苦しいほどしゃくりあげて、酸素を貪る。
何度目か分からない醜い嗚咽が響いた時、走る足音が聞こえて肩が跳ね上がった。


「ごめーん!いやぁ女の子達が放してくれなく、てー……って、アレ。」


ぐしゃぐしゃになった顔はあげられないけれど、男の子が来たことは理解できた。

俯いたまま、頬の涙を必死に拭う。
驚きで、涙は止まってくれた。

霧生君の大きな溜息が落ちる。

「…もしかして、相談中だった?」

「…もしかしなくてもそうだろ。」

「いやん!秀君たら冷たい!」

「…、」

「ごめん、冗談じゃん。そんな睨むなよ。」

ちらりと視線をあげると確かに霧生君はいつもの無表情が嘘のように顔を歪めて私の後ろにいるであろう男子を睨んでいた。

「もう、いい。慶が馬鹿で救いようがないのはいつものことだろ、秀。」

「え、ちょっとちょっと黄泉ちゃんたら、そりゃないんじゃないの!」

「黙れ慶。」

「秀怖い!」

なんか、緊張感が飛ぶような明るい人だな。
自然と頬が緩んでしまったとき、ひょっこりと視界の隅に金色が躍り出た。

眩しい金髪に目を見張る。

「ごめんね?」

そういって慶、と呼ばれていた人はハンカチを渡してくれた。
この人、知ってる。
跡部と仲がよくて、何度か見かけたことがある。

寄って来る女の子達を雌猫だなんて言って嫌がる跡部とは対照的に女の子大好きな彼の話を、跡部はよくしてくれる。
確か、

「二階堂、くん?」

「君、よく跡部といる子だよね?」

にこりと微笑んだ彼の黒縁眼鏡に繋がったトランプ柄のチェーンが揺れた。
俺も知ってるよ
穏やかに微笑む彼に曖昧に笑い返して、手渡されたハンカチで、そっと涙の痕を拭った。

男物の甘い香水の匂い
いい匂いに、すっと冷静さが戻る。

洗って返すと言ったら「お詫びにあげる。」と言われた。
でも、と言うより先に声が掛けられた。

「お嬢さん、名前はなんだっけ?」

女生徒に問われ、慌てて正面を向く。
そして応えた。

「加藤 理紗です。」

「OK、理紗ちゃんね。」

すらすらと何かを紙に書いた彼女はこちらにもう一度視線を寄越した。

「秀と慶も解決屋だから何かあったら言ってね。」

「あ、…はい。」

無表情な霧生君は腕を組んで俯いたままで、二階堂君はにこりと微笑む。

「それと、私は一応“黄泉”。」

ボールペンの芯を顎でカチリと戻しながら、彼女は笑っていた。

彼女が、黄泉。
解決屋の、リーダー。

「まぁどうせ本名すぐにバレちゃうと思うんだけど。」

彼女が背を預けた椅子が軋んだ。
悲鳴のようなその音は、嫌に耳に残った。


「解決してあげようじゃないか、君のお悩み。私達に仇なさない限り。」


光る三対の眼光に、
私は息を飲んだ。



あの頃に、
戻りたくて。

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