抉じ開ける隙間
解決屋に会った翌日。
何事もなく始まる日常。
放課後を告げるチャイムを聞いて、疼き始める傷痕を一撫でしてから席を立った。
「頑張ってね。」友達のその何気ない笑顔の言葉に「もう限界。」と言いたいのを堪えて、私は教室を出た。
「…加藤。」
「え、…あ、霧生君。」
ビックリした。
部室に向かおうとする途中の校舎裏から呼び止められる。
おずおずとそちらに近付くと「もっと奥に来て。」と言われた。
あ、そうか。
接触はあまり見られたくないのかな。
でも私と接触するだけでは霧生君が解決屋とバレることはないと思う。
不思議に思って「何?」と尋ねると、彼は相変わらず無表情に言った。
長く横に流された前髪から覗く瞳に私が映った。
「黄泉が…動くから。」
「え、?」
「黄泉は元々テニス部と1年の時に接触があるからすぐに動く。」
無表情で淡々と紡がれた言葉に私は驚いた。
でも確かに1年の時は私はテニス部と縁がなかった。
1年の後半でようやく跡部と仲良くなりだしたのだから。
驚きで黙っていると腕を組んだまま壁に寄り掛かっている霧生君は更に続けた。
「今日は黄泉の本名も分かるとは思うけど、分かってる?」
確認のように鋭い眼光に射抜かれた。
私は慌てて頷いた。他言無用、呟くと彼は小さく頷いて目線を地面に落とした。
「黄泉を見ても知らない人のフリを通して。黄泉としての接触はこちらからするから、加藤から声を掛けに行くことはないように。」
「わかった。」
わざわざ今引き止めて教えてくれたってことは、きっと今日の午後の部活で黄泉さんを見ることになるからっていう事なんだろう。
黄泉さんと本名は分けて考えないと。
うっかり間違えて解決屋として接してしまえば、現状は何一つ変わらなくなってしまう。
下手をすれば悪化する。
大きく頷いた私をチラリと見て霧生君は壁から体を離す。
「それだけ。…今日は聞かれたくないから此処で話したけど、教室でも話すと思うから。」
じゃ、と小さく呟いて去っていく背中に、私もまた小さくありがとうと呟いて重い足を動かした。
「…理紗先輩、まだ辞めないんですかー?」
部室で二人きり。
えりなはそう聞いてきた。
私はそれに返す言葉など持っていない。
だって辞める気はないし、辞めてしまえば何もしないえりなのせいでテニス部の練習は削られてしまうだろう。
だから辞めない。
無言でドリンクの容器を並べていると横から伸びてきた腕がそれらを払い除けた。
カラカラ…と無機質な音が室内に広がった。
黙って落ちた容器を拾う。
よかった。まだドリンクを入れる前で。
そう思いながら拾っていると、床につけた手の甲を踏みつけられた。
「聞いてます?早く辞めて欲しいんですよねー」
「…っ」
ぎりぎりと踏みつけられて痛くないわけがない。でも声は出したくない。
歯を食いしばっていると頭上から舌打ちが聞こえて、同時にバサッと何かが落ちる音を聞いた。
頭に降り注いだのはドリンクの粉。
あーぁ、これで何人分が無駄になったのか。
傍から見たらまるでチョークの粉でも被ったような滑稽な姿だと理解しながらも私はそんな事を思っていた。
視線を上げれば同じくジャージを白く汚している、えりな。
頭を振って粉を頭から払う私とは対照的に、えりなは泣きそうな顔を一瞬にして作り出して部室を出て行った。
もうこの後の展開など読めていた。
「またかよ。」
「お前も凝りねぇな。」
「何度えりなちゃんに意地悪するなっていったらわかるわけ〜?」
「ほんま最悪やな、自分。」
責められている自分を、最近は他人事のように思うようになった。
それが現実逃避と呼ばれるものなのか、私には分からない。
黙って俯く私を、レギュラーの後ろにいるえりながほくそ笑むようにして見ているのが分かる。
やるせなさに溜息を零した時、鈍い痛みが腕に走った。
向日にラケット殴られるのはこれで何度目か。
徐々に広がる痛みに舌を噛んでやりすごす。
すると肩を強く壁に叩きつけられた。
「お前いい加減にしろよ。」
「えりなちゃんにこないな事して…そんなにテニス部の紅一点になりたいんか?」
蔑むような目で見下ろされても、私は黙ったまま。
何か口を開こうものならえりながしゃしゃりでる。そして私の意見を一切通させない。
それが、当たり前。
さて、今日は気絶せずにいられるかな、なんて自嘲的な事を考えていたときだった。
「…お前ら何してやがる。」
救世主の声が聞こえたのは。
「跡部…」
「コイツがえりなにドリンクの粉かけやがったんだよ!!」
「マジありえないC〜」
「こんなん庇う跡部の気が知れんわ。」
跡部にじっと見つめられ、私もその目を見つめ返した。すると分かっていると言わんばかりに頷かれ、泣きたくなった。
「あ、あの、跡部部長っごめんなさい…!ドリンクまだ出来てなくて、!今から作りますね!」
泣きそうな顔に一生懸命な様。
さぞかし健気なマネージャーに見えていることだろう。
案の定レギュラー陣は「えりなのせいじゃない」とか「悪くない」とか、彼女を擁護する言葉を投げかけた。
「分かってんなら喋ってねぇでさっさと作りに行ったらどうだ。」
「…ッ!!」
一瞬怯んだ顔を見せながらもえりなは再び笑みを浮かべて頷いた。
その頬は引きつっていたが。
ぱたぱたと部室へ走っていく間際、彼女が私を睨んだ。
最近分かったことがある。
彼女は多分レギュラーの中でも跡部が好き。
だから私への苛めはエスカレートしていくのだ。
跡部だけは私を大切にしてくれているから。
「あの言い方はねぇんじゃねぇの?」
「そうだぜ。えりなは悪くなんかねぇのによ。」
ぎろりと睨まれ居た堪れなくなる。
どうせえりなはドリンクを作りなれていないから、私がやりに行くべきか。
でもまた絡まれるのは嫌だ。
悶々と悩んでいると、聞き覚えのある声が届いた。
「なんだか騒がしいね。」
跡部の後ろから顔を覗かせたのは昨日見た“黄泉”だった。
にこりと人受けする笑みを刷かせた彼女は昨日見たときよりもずっと綺麗で、そして近寄りやすかった。
呆然としていると宍戸が驚いたような声を上げた。
他のレギュラー達も驚愕と困惑を見せていた。
「麗華…!?」
「おまッ…なんで!?」
「辞めたんじゃなかったの!?」
「辞めたよ。今日はそろそろ大会近いなーと思って見学。」
微笑む彼女。
驚く面々。
あ、もしかしたらこれが霧生君の言っていたことか。
1年の頃に面識があるといっていた。
でもそれから会っていないという感じのレギュラーの反応には驚いた。
「クソクソ!何で連絡もよこさなくなったんだよ!」
「いや、マネージャー辞めたし迷惑かなって。」
「そんな訳ないやろ。麗華なら大歓迎やで。」
「そうだC〜!俺学校でも全然会えなくてチョー寂しかった!!」
「ははっそりゃどうも。」
朗らかに笑う彼女が本当に昨日薄暗い中にいた恐怖さえ感じさせた黄泉と同一人物なのか疑いたくなった。
しかも1年の頃のマネージャー。
私の前のマネージャーの話は皆と仲が良かった時から聞いていなかった。
ただ、一身上の都合で突然やめなければならなかったことだけは知っていた。
それが、…黄泉。
黙って彼らの遣り取りを見つめていた私は彼女の視線がこちらを向いた事に驚いた。
あぁ、そうだ。今は知らない人。
「ねぇ景吾。あの子が私の次のマネージャー?」
「…あぁ。加藤 理紗だ。」
「へぇ?可愛い名前だね。よろしく。私は九条 麗華です。」
まさか黄泉から本名で自己紹介されるなんて思っていなくて戸惑ったけど慌てて頭を下げる。
すると不機嫌そうな声が次々に突き刺さった。
「こんな奴に挨拶することねぇって。」
「し、宍戸さん…それはちょっと、」
「おい。」
「…なんだよ跡部まで。本当のことじゃねぇか。」
「せやな。どうせやったらウチのマネージャーとして紹介すべきはえりなちゃんやろ。」
「お、それいいじゃん!早速部室行こうぜ!」
そう言って黄泉、九条さんの手を引いていこうとする向日。
あぁ彼女もマネージャーの時は彼らから信頼を集めていたに違いない。
そうでなければこんなに皆のテンションがあがる分けないのだから。
これは皆が部室にいる間にタオルを洗うべきかな、
そう考えていた私は、九条さんが笑顔のまま放った言葉に戸惑った。
「理紗ちゃん以外にマネージャーなんていたっけ?」
世界の崩壊を。
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