0


苦しい。
息が、できない。なんでどうしてつらい。
なんで急に、こんな。

違う。
原因なんてわかってる。

酸素を絶え間なく求める喉を意味もなく掻き毟りながら、俺は路上に倒れ込んだ。
真新しい通学鞄が重くて放り投げる。
必死で逃げようと地を掻いた。無意味だった。

進めない。いや進んでいるのかもしれないが、それもわからない。
そもそも物理的距離を開く事が正しい回避なのか、それさえもわからない。

でも、逃げなければ自分が死ぬんだろうということは理解できた。

あァ、熱い。酸素を求める喉が。
あァ、熱い。路面に擦れる体が。
あァ、熱い。顔面を濡らす涙が。

脚に何かが絡みついて、気休め程度に進んでいた身体が容易く後退させられた。
やばい、と脳内で何かが囁いた。
心臓が痛い程騒いで、脳味噌はくどい程に大鐘が鳴る。
食いしばった唇の痛みなどとうに忘れた。
擦り切れた膝なんて、どうでもいい。

滲む視界。徐々に遠くなる景色。自分の青白い指が助けを求めて伸びるけれど、その手が掴めるものなど何もない。自分の声も息遣いも遠い。
どうしたらいい。どうすれば。

死ぬの?死ぬの。なんでどうして。俺が。

血の味が広がる。
滲んで何も見えない景色。果たしてそれは頬を濡らす液体で見えないのか。それとももう何も映っていないのか。
ぞっとするほど冷静な自分が「もう助からない」と囁いた。

嗚咽が漏れた。
路面を引き摺られていく。小さな礫が体を傷つける。この痛みも、今から待つ死という恐怖の前には無だった。

抵抗を諦めかけた時、放り投げた通学鞄が見えた。
視界の隅にあるそれに、何故か意識がいく。
まだ半年しか使っていない、綺麗なソレに、ハッとする。
疲れ果て、傷まみれの手を、最後の力を振り絞って伸ばす。

ブチっと、

通学鞄から引き千切れたそれをぐっと握った。
そして思い切り後ろに投げつける。

すると脚に絡みついていた何かは慄いたように離れた。
バチッと、何かを弾くような音がする。
この隙を逃すまいと、縺れる足を動かして距離を置く。倒れ込んで振り向いたそこに在るソレに、震えが走る。

悍ましい、カタチなき、ソレ。
如何とも形容しがたいそれは、冷気を漂わせながらそこに在った。

仄暗い気配を漂わせ、見ているだけで身の毛がよだつ。
まるで光さえ飲み込むようなソレは、先ほどから自分を追い掛け、引きずり込もうとしていた。

学校からの帰り道、なんとなく、何かに視られているような嫌な予感がして、急いで下校した。友人達を巻き込みたくなくて一人で下校したが、この状況に陥ってはどちらの判断が正しかったのかわからない。
何度か、こういった所謂“怪奇現象”に巻き込まれる事はあったけれども、ここまで命の危険に直面したのは初めてで動揺を隠しきれない。

カチカチと噛み合わない歯。
季節と真逆に寒さで震える体。
とめどなく溢れる涙に、過呼吸寸前といった安定しない呼吸。

けれども自分の生命を脅かす目の前のモノから目を逸らすなど到底できるわけもなく、ただ見つめていた。

やがてそれは蠢いたように思う。空気が震えたからだ。
何か仕掛けられるのかと身構えたけれども、それは杞憂だった。ソレは怯んだように、俺が投げつけ地に落ちた“お守り”から距離を取っていた。

肌を刺すような冷気が引いていく。
助かる。そう直感した。


「花宮?」


自分の名を呼ぶ声に目を見開いた。
去ったはずの冷気が再び立ち込める。氷塊が背をなぞった。慌てて声の主を探す。

あろうことかその声の主は蠢く影の後ろにいた。
呆然と立ち竦むその姿に、俺は地に這い蹲った情けない体で、声にならない声を漏らした。

「…んで…っ」
「な、んでて…お前が青い顔して帰る、から…」

何かあったんかと思って。
先輩の掠れた声に、歯を食いしばった。まさか慌てて一人で帰った事が仇になってしまうなんて。聡い先輩は純粋に心配してくれたんだろうが、まずい。

先輩は完全に“影”を認識してしまっている。

全く感じない人ならば良かったのに。
あァ、だってほら。

影が先輩に照準を定めてしまった。

「今吉先輩!!逃げてください!!」

焦りが体を支配した。やばいやばいやばい
俺では助けられない。助けられない
どうすれば、誰か誰か誰か

「っ…!!」

今吉先輩の目が見開かれる。影が着実に忍び寄っていっている。あァ、まずい
動かない体が憎い。動いたところで出来る事などないくせに、

黒が先輩を覆い隠そうとする。
引き攣れた声を聴いた。地面を掻いた。無意味だった。

俺は声を上げた。きっと無意味だろう。それでも、
先輩を助けれくれ。


「誰か…ッ!!!」


耳を劈く断末魔が響いた。落雷がすぐ傍に直撃したような、それほどの衝撃だった。
脳髄を揺さぶるその断末魔に両耳を塞いで蹲る。
恐る恐る顔を上げれば、立ち上る煙。
何が起こったのか全く理解できないけれども、助かった事だけは認識した。
凍てつく冷気も、仄暗い影もなかったから。

そして、数メートル先には自分と同じように耳を塞いで呆然とする先輩の姿があったから。
安堵の息を吐くより先に辺りを見回した。

見るも悍ましい影が存在した場所から、濛々と立ち込める煙。
その中に佇む人影。

息を飲んだ。

代赭色の長髪を靡かせたその人影は、ゆらりと振り向いた。
その目は獰猛な猛禽類のような、ぎらぎらとした底光りする金だった。

引き攣った息が漏れた。
身体を退こうとして、先輩と目が合う。呆然とする先輩は、この人影が異形のモノとは気付いていないのだ。ならば自分だけ逃げるわけには、

歯を食いしばる俺に、その人影はゆっくり口角を上げた。

「仲間の為に助けを求めるなんて…君は随分善良な人間だ。」

くすり、と口元に手を当てて上品に笑う人影に、俺はあ、と声を漏らした。
口元を抑えるその指は4本だった。

その視線に気付いたらしい、人影は「生まれつきでね」と気分を害する様子もなく笑った。
何気なく見やった反対の指もまた、4本だった。

立ち込める煙を気にすることなく人影は、落ちたままだったお守りを容易く拾い上げた。それに瞠目する。だって先ほどの異形は明らかにお守りを嫌悪し、怯んだのだ。
弾くような音も響いたというのに、目の前の金目の人影は臆することなく拾い上げた。

ゆっくりと歩み寄ってくる人影を見上げる。
その後ろでは焦ったように先輩が立ち上がっているが、大丈夫だと、俺は目で訴えた。
もちろん、お守りが効かないレベルの異形なら大丈夫でも何でもないのだが。

人影はお守りについた砂埃を軽く払い、俺に差し出した。

「いいお守りを持っているね。厚い加護だ。ちゃんと神社に詣でてお礼をし給え。」

躊躇いながらもお守りを受け取った。
白い布袋は、焼け焦げた跡があって、自分を守ってくれたのだと思った。
あの時の恐怖を思い出して、ぐっとお守りを握りしめていると、訝し気な先輩が俺のすぐ傍に立った。

金の眼に気付いたらしい先輩が喉を鳴らすのを聞いたけれど、様子から危害を加える事はないだろうと判断したのか焦りはみられないかった。
尤も、場に漂う緊張感だけは共有していたが。

「お姉さん、で、えぇんですか?」
「お姉さん、か…ふふ、そうだね。構わんよ。」

先輩の言葉に笑った異形の女は、何となく穏やかな空気を身に纏っていた。息が詰まる事もない。むしろ清涼とさえ表現できる何かを漂わせている。

「お姉さんが助けてくれたんですか?」
「あぁ、そうだよ。たまたま通りかかったんだけれども。…そこな少年が必死で先輩の為に助けを請いていたからね。」

柔和に笑んだ女の顔がこちらを向く。
気恥ずかしくて顔を逸らすと、苦笑する先輩の声が聞こえた。

「そやったんか。おおきにな、花宮。」
「別に…」
「お姉さんも、ありがとうございました。」
「構わんよ。君達も災難だったな。お守りを持つ事を勧めよう。」
「そうしますわ。…ほら、花宮も礼言わんと。」
「いや、本当に構わないでくれ。ただの通りすがりだから。」

そういって異形の女は踵を返した。
赤の羽織か揺れた。黒の着物の裾から覗く足首が艶っぽくて魅入った。

「ありがとうございました。…あの、名前は?」

俺が問いかけると、上から驚いたような視線を頂戴したが無視を決め込んだ。
振り向いた女は怪しく笑った。

「いい質問だな。いいだろう、気紛れに教えてみよう人の子よ。かくいう私も太古は人であったけれどね、」

4本の指が口元で揺れる。
金の眼が陽光を映して煌めく。
夏の赤い夕陽が、彼女の代赭色の髪をますます赤く染めた。


「我が名は―――――」


それが、俺と貴女の出逢い。
ALICE+