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店内に燻らせてある柔らかなお香が、時折思い出したように鼻腔を掠める。
喫茶店の店主に以前何の香なのかと聞いた時は、白檀だとか、伽羅だとか、麝香だとか、あまり聞き覚えのないものを言われた。
ちなみに今日のお香は何か問うと、薫衣香にしてみた。と言われた。聞いた事もない名前に首を傾げると平安時代に着物に香を焚きしめる時に使った香だと教えられた。
相変わらずここの店主は物知りだ。聞けばなんでも返ってくるから、相当な知識人だと思う。

話をしているだけで、自分の知識量も増えた気になってくるから、それが楽しくて、時間が空く度にこの店に訪れている。テスト週間は特に入り浸っているけれども、そんな俺に店主は嫌な顔一つしない。紅茶やコーヒー一杯では悪いからと、夕飯も食べて帰るけれども、割にはあっていないだろう。

ふわりと、薔薇のようなディンブラの独特の香りが鼻腔を刺激した。
ゆらりと赤の水面が揺れる。
流し込めば茶葉特有の苦みが舌先を掠めて、喉を潤す。

ほう、と溜息を吐けば、店の後ろに引っ込んでいた店主が顔を出した。
腰までのストレートの髪色は、赤とも金とも言い難い。以前髪色について尋ねた時には「代赭色」との返答を頂いた。聞いた時にすぐにググったのは記憶に新しい。Google先生ありがとう。

代赭色の髪を揺らした店主は、虎眼石のような茶の瞳で俺を見た。
眉の位置で切り揃えられた前髪がさらりと流れて、きりりとした眉が見えた。

「宮地君。まだ居たんですね。」

紅を差さずとも赤い唇が言葉を紡ぐ。落ち着いた、女性にしては低く掠れた声は、誰が聞いても安堵するものだと思う。
まあ、紡ぎ出されたその言葉には少しムッとしたのだけれど。

「まだ会計も済んでないのに、帰らねぇから。」
「律儀ですねぇ。いつもお会計は机にでも置いといて帰ってもいいと言っているのに。」

小さく笑った彼女の頬にえくぼが生まれる。
彼女の髪型は姫カットというらしい。初めて見たときは人形のようだな、と漠然と思った。髪の色はとても日本人の色味ではないのに、不思議と違和感はなかった。
頬のあたりで揺れる切り揃えられた髪を眺めながら、俺は口を開いた。

「だから、それはしたくねぇんだって何回も言ってるだろ。」

苦言を呈しても、彼女は首を軽く傾げてからカウンターの中にある椅子に腰かけた。
常連である俺がカウンターに座って、店主である彼女が机を挟んでその近くに座るのはいつもの事だった。

彼女は自分で淹れてきたのだろう紅茶を啜って、持ってきた分厚い古書を捲った。
それを肩肘をついて眺める。
二人だけの小さな店内は、空調の音だけが響いていた。

古書を読む彼女の横顔を眺める。
白い肌は陶器のように滑らかで、真黒な長い睫毛が瞬きをする度に音を立てそうな程揺れる。
まるで絵画のようだ、と毎回思う。
一度面白半分でそう伝えたら、「そういう絵画もありましたね。確か、フラゴナールの読書する女、でしたか。」と返ってきた。

俺としてはこう、照れてどぎまぎする姿を見たかったのだけれども。なんとも言えずに、取り敢えずフラゴナール、読書する女でググった。
確かに綺麗な絵だったけれども、なんとなく彼女の横顔とは違った。

「…相変わらず背筋伸ばして座んのな。疲れねぇの。」

片手をつきながら問いかけると、彼女が小さく笑った。彼女のえくぼは魅力的で可愛いと思う。美しい、という表現が似合う人だけれども笑った顔は愛らしい。

「疲れませんよ。慣れですね。」
「慣れって…何歳なんだよ。」
「何歳に見えますか?」
「合コンかよ。」
「遠慮せずにどうぞ。」
「言ったところで毎回教えてくれねぇだろうが。」
「拗ねないでください。」
「拗ねてねぇし轢くぞ。」
「相変わらず物騒ですねぇ。」

ふ、と息を漏らして笑った彼女は古書をカウンターにそっと置いた。
鮮やかな茶の瞳が、不服そうな俺の面を映した。

「随分砕けてくれて嬉しいです。最初は丁寧な敬語だったのにね。」

揶揄うように、歌うように彼女が言う。愉しんでいるその表情が、少し可愛いだなんて。

「そりゃ初対面で年上の人にタメ語使うなんてしねぇだろ。」

眉間に皺を寄せて応えれば、彼女は虎眼石のような目を細めた。
その眼にぞくりとした。
薄ら寒さを感じるものではない。何かこう、探られるような眼差し。
時折見せる彼女のその目つきが、少し苦手で、堪らなく好きだった。

「何故年上だと断定するんです?」
「…そりゃ、店主だし。」
「おや。もしかしたら私は若くして企業したかもしれません。」
「いや、でも同い年の奴らにそんな落ち着いた雰囲気持ってる奴なんていねぇし、何より知識量がちげぇよ。」
「それは宮地君もだと思いますよ。貴方ほど賢い高校生もそういないでしょう。」

にこりと微笑まれて、柄にもなく頬が熱くなった。
したり顔で笑う彼女を意味もなく怒鳴りたいけれども、さすがにそこまでの勇気はなかった。
机に突っ伏して熱が引くのを待つ。
「今日も閑古鳥ですねぇ」
なんて、呟く彼女の声が響いた。

ガランッ

いつもなら涼やかな音を立てて開く筈の扉が、勢いよく開く。
扉につけられた鐘が打ち付けられて歪な音を鳴らした。
机に突っ伏していた身体を持ち上げ、慌てて扉を振り向く。

そこには、いつか見た顔がいた。


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