しんと静まりかえる夜の道に、静寂を引き裂くエンジン音が一つ。両脇を雪に囲まれた道にオンボロのタクシーがぽつりと走っていた。車内には冴えない中年の運転手と、乗客であろう青年と少女が後部座席に掛けていた。少女は上機嫌そうに軽快な鼻歌を歌いながらガラス窓を指でつつき、外の景色を目で追っている。その微笑ましい光景に、青年はかすかな笑みを浮かべ愛おしそうに少女の頭を撫でた。少女は振り向き同じように微笑むと、青年の手を握りしめもう一度車外の景色に専念し始めた。



開け放たれた窓から冷気がどっと押し寄せる。寒さなどものともせず、セシルは窓から夜の曇り空を見上げていた。呼吸をする度に口腔からは白い吐息が漏れ、鈍色の雲をさらに重々しく染め上げる。先ほど止んだばかりの雪が今にもこぼれ落ちそうな空模様だった。この国の冬にはとうの昔に慣れきってしまった。暖房を切っている上に窓からの冷気で凍えるような部屋の中でも、セシルの着衣はダブルガーゼのズボンと白いシャツ一枚だけだった。セシルの生まれはこの国ではないらしいが、物心がついた時には、既に今と同じ集合住宅の、同じ部屋で生活をしていた。セシルよりも祖国で暮らしていた時間の長い兄の方が、むしろこの国の厳しい冬に慣れるのが遅かったほどだ。
セシルは時々、こうやって意味もなく夜の空を見上げたくなった。吹雪でない限り窓は開けた。衣服と淡く熱を発する肌の間に冷たい風が入り込んでくるのが好きだった。気がつくと、睫毛に雪が薄く降り積もっている日もあった。そういう日はきまって窓枠やら絨毯やらにも雪がかかり、翌朝まで湿っぽい空気が部屋に漂うのだった。

セシルの住む集合住宅の中庭は連日の降雪でどこまでも白く、一人の足跡さえ見当たらない。このいやに静かな雪の広場に、近づいてくるタイヤの音を聞いた。向こうの方で立っていた音は、だんだんとこちらへ近づき、とうとうセシルのいる窓のちょうど下の所へ一台のタクシーが停車した。運転手が車を降りトランクの方へ向かった後、後ろのドアから背の高いプラチナブロンドの青年が、続いて青年に手を引かれながらセシルと同じくらいに見える少女が雪の上へ降り立った。少女は黒髪だった。どちらもこの国では珍しい髪の色だ。悪目立ちするほどに。運転手が寄越した荷物は革張りのカバンが二つだけで、そのどちらも青年が受け取り、二人は静かに建物内へと入って行った。運転手は車外で一服した後荒々しくタクシーを動かし、タイヤの跡を雪に残して消えた。空からは、再び雪が降り始めていた。

こんな時期に引っ越しなんて珍しい。ましてや今は真夜中だ。なにか他人には言えない事情を抱えているのだろうか。たとえば、俗に言う夜逃げとか。事実この時間帯は絶好のタイミングといえるだろう。起きている人間は少なく、外に確認できる明かりのほとんどが青白く目下を照らす街灯だ。
窓を閉め壁際のベッドへ潜り込んだ。耳を澄ませば、静寂の中に例の二人が階段を上ってくる音が聞こえる。足音が自分の家の前を過ぎ、すぐに扉が開く音がした。どうやら久しぶりに隣人というものができるようだ。隣人は部屋に着いて早々に、窓に何かを貼り付けているらしく、テープをちぎる音と窓枠が軋む音が聞こえた。決して新しいとは言えないこの建物は、壁が薄く容易に隣の音が聞こえてくる。その音を耳を澄ませて聞いた。行儀のいい行為ではないが、自分の姿があちらからは見えないこと、真夜中の静けさで些細な音もよく通ること、そして新たな隣人ができることが相まってセシルは興味に勝つことができなかった。
やがて窓の軋みが収まると、青年のおやすみ、という声と少し遅れておやすみと返した可愛らしい声が聞こえ、隣人も眠りについたのだと分かった。自分もそろそろ眠らなくてはならない。年の近い子が近所にいないから、あの子と仲良くなれたらいいな、などと夢見心地に浮かべながらセシルはゆっくり眠りにおちた。

救世主