「ランプよし、油よし、ロープよし、魔導書よし。忘れ物、無いよね」
使い古した革製のカバン、その中には今確認したものがぎゅうぎゅうに詰まっている。そろそろ替え時かな、と思いつつカバンを肩に掛け上からローブを羽織った。扉を開けて少しだけ頭を廊下へ出す。自分の部屋から漏れる灯り以外に光は無い。見た限り人影も無い。といっても、この時間帯、つまり深夜に城内を出歩く人なんてほとんどいないと思うけど。一旦部屋に引っ込み灯りを消すと完全な闇が出来上がった。目が慣れるまで待たなくてはいけないのがもどかしかった。地下にあるこの宿舎に窓は無い。月の光でもあればもっと楽に移動できそうなのに。宿舎を地上に増築してくれないかな、と考えたところで無理だろうと早々に諦めている自分がいた。白魔導士団、黒魔導士団はあまり発言権がない。新設ということで近衛兵団や竜騎士団はおろか、陸兵団や海兵団よりも地位が低いのだ。到底願いが聞き届けられるとは思わない。そもそも言ったところで近衛兵団の目が怖いから、こういう事は心の内に留めておくのが賢明だ。
暗闇に慣れた目をぱちぱちと瞬かせる。もう大抵のものは見えるようになった。再び扉を開ける。この扉は開きすぎるとギギギと大きな音を立てるから、少しだけ隙間を空けて滑るように外に出るのが正解だ。誰もいない廊下を忍び足で歩く。並んだ扉の前を通るたび心臓が鷲掴まれたようにきゅっとした。どうかこのまま誰にも会いませんように、と祈りながら城の裏口を目指した。
場所でいうと厨房の横、裏口から出ると外は月の光でほんのり明るかった。やっぱりあるのと無いのでは違うな。今の時間、城の真裏であるこの場所に見回りの兵が来ない事は把握済みだけど、念のため辺りを見回す。よし、誰もいない。裏口の横に置いておいた木箱を二つ持って、素早く城壁に駆け寄った。カバンの中からロープを取り出す。鉤爪付きのものだ。それを城外に投げて引く。鉤爪が城壁にしっかり固定されたことを確認したら準備完了。木箱をロープの真下に置いてそれを踏み台に城壁を登っていく。バロン城の城壁は高くて、初めからロープだけで登ろうとすると少し骨が折れる。もともとそんなに筋力は無いから、木箱分だけずるをしてしまおうというわけだ。それでも疲れるには疲れるもので、登り終える頃には息も上がっていた。城壁の上で暴れる胸を押さえ呼吸を整える。上を見上げれば二つの月が静かに浮かんでいた。綺麗だな、なんてぼんやり考えていた私は、近づく人の気配に気付けなかった。
「何をしている!」
はっと気がついたときにはもう遅くて、声の主はこちらへ駆けつけていた。どうしようどうしようと慌てている間に、巡回であろうその人は、私が用意した木箱とロープを使って軽々と城壁に登ってみせた。目の前に現れたのは銀の髪の綺麗な青年だった。青年、というには少し幼い気もするけど、私よりは年上に見える。左手に松明を持っているから、片手でここまで登ってきたということになるのだろう。その運動神経の良さにびっくりだ。驚きで固まっていると青年がいきなり腕を掴んできた。
「ここで何をしている。侵入者か?」
「い、いや、黒魔導士団の者、です」
「城の者ならどうしてこんなところに。ともかくここは危ない、降りるよ」
青年が言い聞かせるように言ったその後ろで、こちらに向かってくる松明の灯りが見えた。この人一人ならうまく丸め込めるかもしれないが、これ以上は無理だ。その時の私は、見つかってしまった焦りやらこれから来るお咎めへの恐怖やらで、正常な判断ができなかった。気がつくと彼の腕を掴み返し、城の外へジャンプしていた。青年からうわあ、という少し情けない声が聞こえたかと思えば急な浮遊感に襲われ、二人して城の外へ落ちていく。怖くて思わず目を瞑るとすぐにガサガサ、と音を立てて顔面から茂みに突っ込んでいた。そしてすぐに背中にとても重たいものがのしかかる。さっきの青年だ。うぐっ、と色気のない悲鳴が口から漏れた。お、重い。
「いたた……わっ、ご、ごめん。立てるかい?」
青年は即座に私の上から退くと申し訳なさそうに手を差し伸べてきた。むしろこっちの方が申し訳ないというのに。運良く茂みの中に落ちたからいいものの、これが何もないところだったら一大事だ。ありがとう、とその手につかまって立ち上がる。振り返って城の方を見るとその壁の奥は少し騒がしくなっていた。
「ここまで来たら、君も同罪ってやつだね」
彼の方を振り向き、少しおちゃらけたように言うと、そうみたいだね、と呆れたような苦笑いが返ってきた。

「私黒魔導士のナマエ。君は?」
「僕はセシル。去年兵学校を卒業して陸兵団に入ったばかりなんだ」
「ああ、なるほど。それで見回りの仕事か」
「まあね。それで、君はどうして城を抜け出したの?」
「もう少しでわかるよ、こっち」
青年、もといセシルと話しながら夜の森を二人で歩いた。私たちの前方を持ってきたランプが明るく照らす。いつもはちょっと怖いこの道も、同行者がいるだけでずっと心が落ち着いた。少し行くと開けた場所に着いた。いつも通り切り株にランプを置く。ランプに照らされて黒く焦げた丸太が直立しているのが見える。
「着いたよ。ここが私の特訓場」
「特訓?」
「そう」
「その丸太は?随分と煤けているようだけど」
「これに魔法を当てるの。私、落ちこぼれだから、この丸太一本燃やせる威力の魔法もうてない」
そう言って丸太に向き直る。真っ直ぐに立つ黒い丸太。その表面だけが焦げている。
意識を集中させて丸太に向かい手をかざす。手のひらに燃え盛る炎をイメージして詠唱する。ファイア!威勢のいい呪文とは裏腹に、手のひらから出てきたのは弱々しい火の玉。丸太にぶつかるとすぐにぱっと飛び散って消えてしまった。悔しくて二、三度もっと勢い良く呪文を唱えるが、結果はどれも同じだった。結局五回目の詠唱を終える頃には体はもう疲労でいっぱいだった。もともと魔力の容量も少ない私だから、この有様というわけだ。
「ね、全然燃やせそうにないでしょ。だからこうして毎晩特訓してるわけ」
「すごく、努力家なんだね」
「この努力が実ればいいんだけど」
疲れて地面に寝転がる。夜風に晒されて冷えた草たちが火照った体の熱を奪ってくれるようで心地よかった。セシルも隣にごろりと寝転がる。月の明かりに照らされた銀の髪がキラキラと輝いてとても綺麗だ。
「本当はね、白魔導士になりたかったんだけど、これっぽっちも才能がなかった……そうだセシル、怪我とかしてない?」
「怪我?」
「うん、さっき落ちた時とかに」
「うーん……あ、これ。さっきついたものじゃないけど、今日の訓練中に切った傷なら」
そう言ってセシルは腕についた切り傷をみせた。本当に剣の先がちょっと掠ったくらいの小さなものだった。
「見てて……ケアル」
起き上がってその傷に手をかざし詠唱を始める。手のひらに淡い光が集まったところまでは良かったが、それもすぐに四方へ散り飛んでしまった。分かってはいたものの少しだけ悲しいような気持ちになる。
「ほらね、まるで才能ないの」
「でも、とても綺麗な光だったよ」
自嘲気味に放った言葉に予想外の返事があった。しかも優しい笑顔付きで。今までこの出来損ないの魔法を貶されたことは百万とあっても褒められたことなんて一度もなかった。ぎゅーっと顔に熱が上ってきてセシルを正視できない。ありがとうという言葉もつっかえつっかえでようやく言えた。照れ隠しのように自分のカバンをごそごそ漁る。奥の方で指に触れた小瓶を引っ張り出しセシルの前に突き出す。
「これ、傷薬。良かったら使って」
ぶっきらぼうに差し出された小瓶を、セシルは一瞬きょとんとしてから受け取った。ありがとう、と言った彼はまたも優しい笑顔だった。今度は照れることもなく、こっちも笑顔でどういたしまして、と返すことができた。

「ねえ、僕も特訓しにきていいかな。見回りのない日はここで」
「へ?」
突然の提案に驚いて情けない声が漏れてしまった。夜の森で行う特訓にいささか心細さを感じていた私としては願ってもない提案だけど、
「でも、いいの?見つかったら大変だよ」
「ナマエが言えたことじゃないだろ」
「そ、そうだけど……」
ふふっと笑ってみせるセシルはやっぱり綺麗だ。
「僕はもっと強くなりたい。そのための特訓。幸いここには丸太がまだありそうだし。ダメかな」
「……わかった。いいよ、ここで特訓して。ただし、他の人には内緒だからね?約束」
「うん、約束」
私が差し出した小指にセシルの小指が絡まる。どちらからともなく微笑んで、その日は城へ戻った。
それからというもの私は夜に城をこっそり抜け出すのが楽しみで仕方ない。真っ黒焦げの丸太と剣の切った跡でいっぱいの丸太は、今日もあの森の中で仲良く並んでいる。

救世主