※不謹慎、流血

ひどく苦しい。黒く蠢く手がわたしの体を締め付ける。体内にまで浸透し、心臓を鷲掴みにされているようにだ。わたしの心臓を握る手は徐々に握力を上げていく。うまく息が吸えないのに、焦ったように肺だけが伸縮する。どうにかなってしまいそうだ。ゴムボールが潰れるように心臓が大きく軋み、それを合図にわたしは飛び起きた。
玉のような汗が額からこめかみの脇を通り顎へ伝う。重力に従ってこぼれ落ち、掛け布団にしみをつくった。今まで寝ていたのか。しかもあんな悪夢付きで。髪をかきあげると案の定少し湿っていた。荒い呼吸は未だおさまらず、胸に手を当て落ち付けようとする。上から押さえつけた手の下で胸の皮膚が不自然にピリピリといった。だが、それが些末な事のように思える程の違和感を覚える。ないのだ、胸が。脂肪の塊、女であることの象徴が。大きさはどうあれ、確実にわたしにはあったはずだ。いつもならそこに感じる柔らかい感触の代わりに硬い胸板があった。
何かがおかしい。急に不安に駆られたわたしは鏡を探した。ふらふらと体を起こし明かりもつけずに探す。歩くたびに眩暈がした。そんなに寝ていたというのか。暗闇に目が慣れてきたころ、洗面所を見つけた。ここになら鏡があるだろう、と思い体を引きずって電気のスイッチをパチリと押してから中に入った。

「なに……これ……」

鏡の中に写っていたのは恐ろしいほど綺麗な見も知らぬ男だった。ひどく驚いた顔がこちらに向いている。その銀の髪や青い目には全くと言っていいほど見覚えがない。
瞬間的に洗面台の上にあったガラス製のコップを鏡へ投げつけた。鼓膜を突き刺す衝撃音が聞こえて鏡は全面にヒビが入り、その欠片のいくつかが床へ落ちた。割れた鏡の中に男が幾人も分身をつくってこちらを見る。それがまた恐ろしくて頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。知らない。あんな男、わたしは知らない。いったいわたしはどうなってしまったの。こんなのわたしじゃない。あの男は誰なの。
顔を覆った手の隙間から、落ちた破片の反射した光が鋭く光るのを見た。わたしは吸い込まれるようにそちらへ向かった。そっと破片を握る。半ばぼやけた視界からでもわかる鋭い傾斜。その先端を下に向け、受け皿にこの男の手首を置いて破片を急降下させた。

「、っうぁ……」

突き抜ける激痛に思わず呻き声が漏れた。その声までもが自分のものではなくて涙がさらに溢れる。やるせなさから、わたしは何度も何度も手首を抉った。その度に言いようもない痛みが襲う。だが止められなかった。視界に輪郭がなくなっても、腕の感覚がなくなっても、止めることができなかった。口から漏れそうになる悲鳴を胃の中に収めて破片を刺し続けた。お願いだからわたしを返してください、わたしの体を。かみさま。
わたしの腕が止まったのは明け方近くだったように思える。ずっと行為をしていたせいかひどく疲弊して今にも意識が飛びそうだ。窓の外で朝鳥の短く鳴く声が聞こえる。今ここで意識を手放して、そのまま死んでもいいと思った。少なくともこのままの状態よりは。空の浴槽に背を預けていると眠気が襲ってくる。痛覚はもう機能していなかった。おやすみ、そう呟いてわたしは眠りへ滑り落ちていった。



セシルが目をさますとそこは浴室だった。まぶたが突っ張って思うように開かない。目尻には涙で張り付いたと思しき髪の毛が固まっていた。完全にまぶたを開けると、目の前には惨状が広がっていた。自分の周りを流れてからずいぶん経ったどす黒い血が囲み、それは衣服にも付着しているらしく引っ張るとぺりぺりと音を立てて肌から離れた。そして左手首に鈍い痛み。顔をそちらへ向けるとひどく損傷した手首が写った。少し神経がやられているのか力が入らない。赤黒く染まった自分の腕。
彼の胸に言い知れぬ嬉しさが湧き上がった。これをやったのは、僕であって僕でない。ナマエがやったんだ。他の誰でもない、ナマエが。彼女の存在が確かに僕の腕に刻まれている。彼女が僕の手を以って僕の体を傷つけた。それだけで心が満たされた。
セシルは麻痺していない方の手で服をたくし上げた。その胸には生々しい縫い跡が残っている。なぞるように触れるとチリチリと痛みが走った。この下にナマエがいる。この薄い皮の下に。僕の体と一緒に生きている。全身を駆け巡る血液も彼女の器官を通ってきたのだ。手首に付着した血を舐めると、とても甘い味がした。ナマエが僕の全てを汚していく。この身体もふたりの物になりかけている。耳を塞げば血流に混じってナマエの囁く声が聞こえた気がした。
これが正しい事だとは思っていない。ナマエから時間を奪って僕の身体に縛り付けた。もうナマエに会う事はできない。それでも、よかった。誰かのものになるくらいなら、一生僕が共に生きよう。ナマエが目の前にいたら僕を恐れ軽蔑するかもしれない。だがそれは叶わない。彼女にはどうする事もできないのだ。最後に見た彼女の笑顔が脳裏に浮かんで意識の内に溶けていった。

今夜、また会おう。
「おやすみ、ナマエ」
そう言ってセシルは手首に口付けた。

救世主