華麗なる犬死に
※R18 モブの自慰表現有 控えめに言って胸糞が悪い系


 だめだ。だめだ、倒れたら、だめだ。いいや、本当は倒れたかった。倒れて、介抱されて、可哀想だねって、もういいんだよって言って欲しかった。いつから? わからない。でも、そんなの、あんまりにも惨めだ。もし僕の想像みたいに隣の人が倒れたら、僕は可哀想よりも惨めだ、情けないって思うだろう。だから、だめだ。僕はそんな風に見られたくないから。僕はちゃんと、立っていなきゃ。でも、倒れたい。倒れてしまいたい。今はまだ、B組のは行なのに。
 頭がずんと重くなり、重力が前後左右あちこちから力強く引っ張ってくる。僕は為されるがまま頭を振り回していたが、やがて前の力が重くなると、ガタン、と派手な音が鳴った。頬がひんやりして気持ちいいと思えば、どうやら床らしい。ざわつく人の声が遠い。その中には母さまの声らしきものもあった。ああ、母さま、いるのに。だめなのに。もういっそ早く意識を失ってしまいたい。そう思って目を瞑りかけたその瞬間、本当に目を瞑らないで良かった。のちの僕は、そう思う。ふわりと体が浮いて、僕はあっという間に抱き上げられた。そして、その深い海の底に見惚れた。文字通りに、見て、惚れてしまった。
「大丈夫か? 酷いよな、立ちっぱなしとか」
 新入生はおろか父兄や在校生からの視線も刺さるのを全く意にも介せず彼は歩く。視界の端には母さまの姿もあった。ピリリと肌が痛む感覚がして、身を縮める。彼は無言で足を早めると、体育館の外に出た時、僕の目を見てやわらかく微笑んだ。その瞳は、全てを受け入れる海そのものだった。
「……お母さん、いた?」
「ぁ、……はい……すみませ……」
「いや、ちょっとインパクトあったからさ。ええと……」
 そうそう、と言って、彼は母さまの呼んでいた名前を繰り返した。高校生にもなるというのに、恥ずかしいあだ名だ。かっと赤くなった僕に、彼はごめん、と不甲斐なさげな笑顔をしていた。
「せんせい……、せんせいは、な、なまえ……なん、て……」
「俺? 俺はね、漣っていうの。気軽に漣せんせー、って呼ばれるかな」
「漣、せんせい……」
「おう。……貧血の子に喋らせてごめんな。保健室行くから、お前、寝てていいよ。もう大丈夫だからな」
 せんせい。
 僕はその時、眠れなかった。けれど深く、安堵した。母さまに抱き締められてもこんなに深く、心の奥底が安らぐような心地はしなかった。彼の腕は魔法みたいに僕の強張っていた体を和らげた。少し力が抜けると、彼の腕に僕のかたちが合わさっていく。僕は、出来ることならずっと、この逞しい腕の中に包まれていたいと、切々に祈っていた。

 それが、入学式の出来事。僕はあの日の彼の腕を思い起こしながら新生活を送った。あの時倒れたマザコン野郎として、僕は初っ端から笑いの的にされていた。担任の先生まで同じ扱いをした。所詮教員だって、クラスのカースト上位に気に入られていないと僕らと一緒なのだ。けれど、せんせいは、違う。僕はあの人の腕を知っている。全てから守ってくれる、強く優しい腕だ。五月ともなれば、感覚の記憶は薄れていた。だが抱き上げられたという事実を何度も反復して、あの綺麗な瞳を、優しい腕を夢想しては、朝になった。
 あれからせんせいと話すことは一回もなかった。もう一度あの腕に抱き締められたい、僕を包んで欲しいと願ってはいたけれど、一度そんな機会があっただけで僕は十分に贅沢者だ。だから欲は言わない。それに、ちゃんと良い子にしていれば、いつかせんせいが見つけてくれるかもしれない。
 でもその「いつか」は、案外早くにやってきた。行きたくなかった遠足でのことだ。バスで一二時間ほどかけて行った水族館で、僕は案の定班のメンバーにはぶられていた。仕方がないだろう。班決めの時に余り物になって無理やり入れられた、僕はお荷物だから。その日はとても暑い日だった。普段あまり外に出ないから油断していたが、紫外線がビリビリと肌を裂くようだ。白く貧弱な腕は真っ赤になっていて、恐らく顔もそうなのだろう。班の子の、二メートル後ろを歩く。二メートルが徐々に三メートルになり、四メートル五メートル、やがて人混みに紛れて見えなくなった。班行動をしろと言われている以上、はぐれてはいけないということは分かっていたのに。足元を小学生がギャイギャイ喧しくウロチョロしている。蹴っ飛ばしてやろうかとさえ思ったけれど、その力も残っていなかった。そのとき、神様が、僕にようやく笑ってくれた。
「おい、大丈夫か?」
 せんせい。
 せんせい。夢じゃない、幻覚じゃない。せんせいだ。せんせい。せんせい。
せんせい。
 せんせいが、僕の肩を抱いている。せんせいの腕だ。
「顔色悪いけど、それに一人でどうした? 他の班の奴は?」
 せんせい。せんせい。せんせいの触れてるところが、焼けるように熱い。せんせいの腕は焼印なんじゃないか。ジュウジュウと肩や背中が焼けている。その甘い苦痛から何も喋れない僕だったけれど、せんせいはまるで僕の全てが分かっているみたいだ。テレパシーのように、全て察して、ニコリと瞳を細めて、僕の頭に手を乗せた。頭が、ジュッと焼かれた。
「……そっか。班の子には他の先生から俺と一緒にいるって伝えてもらうよ。だから、お前は俺と一緒に、日陰で休みなさい。な?」
 だめだ。こんなにも。せんせいが近い。せんせいがいる。せんせいが、僕に触れてる。気持ち悪がらないで。優しく。全部抱き締めてくれるその腕が。僕に触れてる。深い海の瞳が。僕に。僕だけに。向いてる。水面に。僕を。映してる。僕を。せんせいが。せん。せい。が。見つけてくれる。僕を。せんせいが。救ってくれる。
 せんせい。
 せんせい。

 そうして、烙印は押される。僕の肩にくっきりと残った生々しい焦げ跡が二つ。裸で鏡の前に立って、その痕を確かめた。そっと指先でなぞってみると、電流のような痺れが全身に走った。これが、せんせいのくれた、証。せんせいからの贈り物だ。なんて優しいひとだろう。こんな僕に、こんな激しい贈り物をくれるなんて。蹲りながらも、僕はもう一度鏡を見る。確かにある。恋の奴隷の烙印。そして、ホモの烙印。せんせいは、僕に大切な贈り物をしてくれた。僕はホモだ。男が好きだ。せんせいが好きだ。せんせいに、恋をしている。母さまが聞いたら、卒倒するだろう。母への反逆という恐るべき禁忌に、僕は震え、そして興奮した。
 その日、僕は初めて自慰をした。寝室では母さまがいるから、トイレで。今日のせんせいの声が、せんせいの手が、せんせいの腕が。チカチカする頭の中でせんせいが蘇るたび、僕は嬌声を上げた。せんせいの全てが快楽に繋がってしまう。涙を流しながら絶頂に達し続けた僕に、せんせいはふうと息をつくと、僕を後ろからぎゅっと抱き締めた。力強い腕の力に、また勢いよく白濁が飛び散る。せんせいはそれでも、僕の肩に顔を埋めたまま動かなかった。きっと、僕の想像力が足りない。一方的に達するだけで、僕はその後の知識を何も知らなかったから。スマートフォンは部屋に置いてきてしまったし、調べようもない。けれど、なぜかお尻の奥がぎゅっと締まって、それと同時に腰がぞっと快感に震えた。どういうことだろう、乱れた脳内で考えるも分からずにいたときだった。無遠慮なノックの音に、目が醒める。
「……ちゃん、どうしたの!? 泣いてるなら、何があったのか母さまに聞かせなさい!? いいこと!?」
「……だいじょうぶ、だよ、母さま」
 母さまに怯えて、せんせいは霧に紛れてしまった。母さまのせいで、僕のせんせいが居なくなってしまったじゃないか。母さまのせいで。
 僕はその日初めて、自慰をした。そして初めて、母を殺すことを考えた。


 でも、まさか僕がホモだなんて、絶対に知られてはならない。知られたらもう終わりだろう。クラスでの居場所が無くなるのは、もう無いようなものだからいい。それよりも問題になって、転校せざるを得なくなって、せんせいと会えなくなるほうがよっぽど世界の終わりだ。でも、僕はホモだ。紛れも無いホモで、ホモといえば、馬鹿にされる存在だ。僕自身、自分がホモという事実を軽蔑しながら見ている気持ちはあった。
 そういえば、せんせいは、どうなんだろう。
 遠足の時せんせいは、保健室なら空いてるからいつでも来いよ、と言ってくれた。そんなこと言われても、せんせいに会ったものならもうすぐにでもびりびり快楽が走るというのに。それでも、会いたい、と思ってしまった。むしろあの激しすぎる熱の快楽を走らせてほしいと、望んでしまう僕が居た。そしてその僕は、金曜日の放課後、保健室の戸を叩いたのだった。
「お、お前か! 久しぶり、元気か?」
 屈託無い笑顔にさえ、感じ入ってしまう。僕は腰を丸めながらも、恐る恐る足を進めた。
「どうした? どっか怪我でもした?」
「ちが……あの、」
「……俺に用? いいよ、そこ座って。コーヒー飲める?」
 せんせいは、ほんとうに、僕の全てを分かっている。本当は、僕が何を言いたいのかも分かってるんじゃないだろうか。二人ぶんのコーヒーを持って、せんせいはもう一つの丸椅子に座った。砂糖とミルクも聞かれたけど、僕が返答できない間にさらさらと流れるような手付きで適量を入れていた。骨ばった大きな男の手に、また腰が快楽に疼いていた。
 せんせいの淹れたインスタントコーヒーは、苦すぎず酸っぱすぎず、熱すぎず冷めすぎず。凡庸と言ったらそうなのかもしれないけれど、母さんに甘やかされた僕の舌には丁度良い具合だった。やはり、テレパシーなんだろうか。カップに口付けながら、せんせいを盗み見する。せんせいはやはり僕と同じコーヒーを飲んで、自然に僕のほうへ目配せしてきた。まだ太陽は高く、でもどこか夕方の妖しさの漂う保健室の中で、僕とせんせいは世界に取り残されたみたいにぼおっと見つめあって、夢幻の時を過ごした。
「コーヒー、美味い?」
「あ……」
 低い声にずんと心臓を重くしながらも、僕はこくりと頭を落とした。
「よかった」
 せんせいは、それ以上喋らない。自分から言いだすのを待っているのだろうか。全部、全部知っているくせに。僕から淫靡なことを喋らせようとしている。酷いひとだ。でも、きゅうと胸の奥が興奮する。失禁しそうな緊張感の中、僕は唐突に、ばっと立ち上がって口を開いた。
「っあ、あのっ!」
「ん?」
「……せんせいは……ホモですか」
「……お?」
 海の瞳がぱちりと瞬く。全部知ってるくせに、わざと惚けて僕で遊んでいるのだ。せんせいの悪戯な愛情に、僕の心は震えた。
「……あー、変な噂でも聞いた?」
「ちが……」
「そっか。……まあ、お前ならいいか。とりあえず、ひとつ訂正しなければならないところがある」
 せんせいは横に向けていた椅子を、僕と向き合うように直した。マグカップも置いて、僕の瞳をじっと見てくる。そんなのに耐えられるわけもなく、僕は交代にせんせいから向きを逸らした。
「ホモっていうのは、あんまり言い方として良くない。男性同性愛者なら、ゲイって言い方のほうがいいよ。どっちもなら、バイ」
「……せんせいは、」
「あはは、そんなに俺のことが気になる?」
 気になる。気になるに決まっている。僕は机の上にあったコーヒーミルクをカップに注いでいく。ほとんど牛乳みたいな色になったそれは、最早元の味を留めていなかった。白い液体をスプーンで掻き回すうちに、せんせいはぽつぽつと呟いていた。
「うーん、俺はね。基本的には女の子が好きだよ。でも、好きだなって思ったら、男の子も好き。まだひとりしかいないけどな」
「……ひとり、」
「うん。……こんなもんでいい? さすがに俺も話しにくいや、これ以上は」
 ひとり。ひとり。ひとり。照れ臭そうに頬を引っ掻きながら、せんせいは笑っている。ひとり。ひとり。せんせいの伏せた睫毛から、その「ひとり」への愛おしさが溢れている気がした。ひとり。ひとりって、誰だろう。
 もしかして、僕?
 そうなのかもしれない。いや、きっとそうだ。せんせいのこの、頬を赤らめた照れ臭そうな表情。きっと、絶対そうだ。せんせいは、僕が好きなんだ。好きだけど、先生と生徒っていう関係を気にして打ち明けないでいるんだ。せんせいと不意に、目が合った。せんせいは誤魔化すようににへらと笑った。僕だって、まだ好きだとは言う勇気はない。それで退学になったら、せんせいに会えなくなってしまうから。でも、僕も伝えておかなくちゃ。好き。好きです。僕もあなたが大好きですって。
 だからこれは、ほんの言葉遊びだ。
「僕も……すきな人が、その、男で……」
「ほお。そう」
「でも、ば、ばかにっ、されるかもしれないから……」
「うーん。馬鹿にする奴が悪いんだけどな。まあでも、現実問題生きにくいからなあ」
「……はい」
「でも、悪いことじゃないのは分かっておいて。お前はそのままでいいんだよ」
 せんせい。それは、どういうこと。僕はあなたを好きなままで、いいんですか。それはせんせいが僕を好きだから? 僕が卒業したら、迎えに来てくれるから? そうだ。きっとそうだ。絶対、絶対そうだ。僕もせんせいの言いたいことがテレパシーみたいに分かる。せんせい。せんせい。今すぐにでも通じ合いたいけれど、我慢してくれている。せんせい。せんせい。せんせい!
「……あ、雨だ。髪の毛うねるからやだな……」
 せんせいは、窓の外をちらりと覗き見ると、自身の髪の毛をくるくると回して遊んでいる。その手先に自分の体が惑わされることを想像して、僕の背筋にはまたびりびりする快楽が走っていた。
「そういえばお前、髪の毛いっつも短いのな」
 せんせいの視線が、僕の髪を触っている。つい嬌声を上げそうになったのを堪えて、母がいつも床屋に連れて行ってくれることを息絶え絶えに伝えた。せんせいは、ふうんと言って頬杖をついた。そんなに色めいた目で僕を視るなんて、せんせいはやはり僕を誘っている。僕への欲望が抑えきれていないのだ。なんて激しい情熱。
「髪の毛長くても似合いそうだけどな、校則的にはあんまり良くないけど、もうちょっと伸ばすくらいならセーフだろ。あ、今のが似合ってないってわけじゃないけど」
 せんせい。じゃあ、伸ばします。母さまの言うことにも、歯向かってしまえ。もっといけないことがしたい。いけないことができる僕になりたい。僕は、一切返事が出来なかった。けれど、きっとせんせいには伝わってくれている。だって僕らは愛し合っているのだから。愛し合うふたりなら、言葉がなくたって分かり合えるのだから!
 でももう時間も時間だ、塾に間に合わなくなってしまう。その旨を伝えると、せんせいは僕を扉のところまで見送ってくれた。
「まあ、俺ならいつでも相談に乗るからさ。また来いよ、待ってる」
 ぽん。肩に、手が置かれる。奇しくもその肩は、あの時恋の烙印を押されたほうの肩だった。火傷の痕がまたじりじりと痛み出す。苦痛も行き過ぎれば快楽だ。僕は自分が情けなくうっとりとした顔をしているのが分かった。逃げるように駆け出した後、ああ、あの時せんせいの身体に身を預けられたら、せんせいの逞しい腕に抱き締められたなら! 僕は幸福だった。電車の中で我慢できなくて、途中下車してトイレに籠るとまた自慰をした。せんせいに後ろから包まれながら扱くという、すっかり癖になってしまったこの妄想。けれど、同時に慣れつつもあった。もっと悪どく、もっといけないことが知りたい。もっとせんせいに包まれたい。僕の全部をせんせいに満たされたい。こんな局部だけじゃなく、身体中全部――僕はその日の塾の授業で、こっそり携帯を操っていた。

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 僕は、母さまに叱られることが多くなった。まず、髪の毛を伸ばし始めた。律儀に切り揃えられていた髪は無造作に乱れ、ワックスで固めた。鏡の前で見た自分の姿に惚れ惚れした。前よりもずっと色気があって、美しい。馬鹿みたいに分厚かった眼鏡も、コンタクトにした。母さまは目に異物を入れるなど絶対にいけないと、やはり分厚い眼鏡でお説教してきたが、知ったことか。溜め込んだ貯金を崩してハードのコンタクトレンズを買った。ゴロゴロと目の中で転がる感覚は慣れなくて違和しかなかったが、それでもやはり鏡で見た僕は綺麗だ。それから買ったものが、もう二つ。一つ目は浣腸剤。場所が場所だけに最初は怖かったが、段々と癖になってしまった。今日もせんせいと会えるかもしれない。その時には然るべき準備をしていないと、せんせいに不快な思いをさせてしまうかもしれない。そう思って毎日毎日薬を使っていると、癖になってしまったらしい。徐々に量は増え、依存癖になりかけているのかもしれない、と思った時にはもう遅かった。けれど、せんせいのためだから。せんせいのためなら、依存なんか怖くない。それからもう一つは使い切りのローション。一度だけ自分で使ってみた。ぬるぬると気持ちの悪いそれは人肌に馴染み始めると心地良く、これもまた慣れたら刺激が無くなるだろう。一度だけにして、とっておきの快楽はせんせいに与えてもらうのだ。そう考えただけで、穴の奥がきゅうと窄まった。コンドームは買わなかった。そんな余計なもの、必要ないと思った。直接せんせいのものが欲しいと思っていた。せんせいの精液を全部全部この腸で吸収して、永遠に僕のものにしたいと思った。
 僕の自慰は、段々と過激さを増していった。いや、これは僕のせいじゃない。自慰をしているときの、せんせいの声が過激さを求めるのだ。こうしてごらん、うん、良い子。次はこう……せんせいの甘い声に唆されて溺れる内に、僕は更なる快楽の先を求めるようになっていた。鏡の前でした時が、一番淫靡で、堪らなかった。自分の淫らな姿と、せんせいの優しくも必死な表情が同じ画面に映る姿は、まるで宗教画のような美しさだった。恥じらう僕にせんせいは必ず「大丈夫だから」と囁いてくれる。それは、入学式の時に僕にくれた言葉だった。僕はあの声を、記憶のテープが擦り切れるまで再生していた。テープが擦れていくうちに掠れていく彼の声は徐々に色艶めきを増し、僕の快楽も増していった。それから鏡の前だと、自分の烙印がよく見えた。せんせいはその烙印を毎回なぞり、悪戯っぽく口付けを落として、僕の表情の変化を楽しんでいた。
 最初の頃は、母さまがよく部屋のドアを叩いた。でも、棒を刺して絶対に開かないようにしてしまえば、母さまさえも快楽を助長する材料になった。母さまが扉のすぐ向こうにいるのに、僕とせんせいはこんなことしてる。先生と生徒なのに。男同士なのに。せんせいはずっと微笑んでいた。初めて会った時から崩れることのないあの微笑みで、せんせいはいつも僕を抱き締めていてくれた。徐々に母さまも反抗期と諦め始めたのか、扉をうるさく叩くことも少なくなり、がっかりだった。
 そうして、僕は高校一年生の夏休みを通り抜けた。遊ぶ友達も元からいない。毎年恒例の祖父母の家に行くのもなんとか理由をつけて断り、僕はせんせいとの愛の戯れに興じ続けた。僕はもしかしたら、本当のせんせいに会わないほうがいいのではないだろうか。そう思うこともあった。それほどまでに、幻想のせんせいに愛され過ぎた。でも、やっぱり駄目だ。せんせいに会いたい。何か思い切り今までの僕を覆す、新しい刺激が欲しい。深くへ、深くへと模索しながら泳ぎ、深海に堕ちるよう、それはせんせいの瞳のよう。あの奥に、僕のまだ知らない快楽の世界が存在するに違いない。だから僕は、九月一日の始業式、喜び勇んで体調不良を訴えた。勿論、喜び勇んでいるのは心だけ、外面上は熱中症を装い、フラフラと足重に廊下を歩いた。
 しかし、いざ保健室の扉の前に立って、僕は戦慄した。若い女の声だ。その甲高く響く喧しさからするに、生徒だろう。それに応じるように笑う男の声、ああ、せんせいの声はこんなにさっぱりとした男の声だったろうか。いや、違う。興味のない女と喋る時だから、優しさの中に素っ気なさを含んだ声なのだ。何を不安に思うのだ。僕とセックスする時の、あの甘い声を忘れたか。
 不意にガラリと扉が開くと、女と目が合った。スカートの短い不良だ。碌でもない女の癖に、せんせいに色仕掛けをしようというのか。僕は思い切り女を睨んだ。女に睨み返されても、僕は萎縮しなかった。だって、僕はせんせいの恋人を予約したのだから。
 女が去ると、僕はもう一度仮病を繕った。せんせいはパソコンに向かっていて、こちらに気付いていないようだ。せんせいの背中。あの背中に、どれだけしがみ付いたことか。夏の汗ばんだ記憶が蘇り、脳が沸騰しそうになる。呼ぼう。僕には、せんせいを呼ぶ資格がある。
「お、お前か! 久しぶり、元気か?」
 呼ぶ前に、せんせいはふと振り返ると、僕を見つけた。僕の声は喉元で止まり、笑顔に昇華される。やっぱり僕が呼ぶ必要なんて無いんだ。せんせいは、必ず僕を見つけてくれる。そうに違いない。
「どうした? 具合悪い?」
「……、」
「ん? まあとりあえず座りな、顔赤いな……熱測る?」
「せん、せい……、ぁ」
「お……っと、ベッドのほうがいい? おいで」
 おでこに手を当てられた緊張からふらふらよろめくと、せんせいが自然に抱きとめてくれた。一ヶ月ぶりのせんせいの手。そんな腫れ物に触るような、じんわりと優しい触れ方をしてはだめです、せんせい。それは恋人を触る手です。それに何より、ベッドだなんて大胆すぎる。でもせんせいが、そう言うのなら……僕は手を引かれて、ベッドに座らされる。せんせいは僕の正面にしゃがんで僕を見上げている。ゆるい眦から愛が伝わる。体温計を脇に挟みながら、僕はウットリと目下にいるせんせいの背徳に酔いしれていた。
「……ん、お前仮病だな〜?」
 体温計が鳴ると、せんせいは瞳を細め、悪戯っぽく笑う。僕が恥ずかしさと罪悪感からにやけながら目を逸らしても、せんせいは僕を怒らなかった。
「いいよ。お前は真面目だから、ちょっとさぼれるくらいになるくらいがいいんだ。サボりすぎは駄目だけどな、俺も何回もはちょろまかせないから」
「ふ……ふ……」
「で、本当の用事はなんだ? 新学期で疲れちゃった?」
「そう……かも……」
「そう。じゃあ思う存分休んできな。ちょっと寝てくか? 俺そこでパソコン作業してるから、何かあったら呼んで?」
 カーテンを潜り抜けかけた後、思い出したように振り向いたせんせいに僕は身を震わせた。身構えていたところに、ぽん、と頭に置かれる手。そのまま乱暴にワックスで固めた髪を掻き乱され、せんせいが立ち去った後、僕はベッドに沈んだ。スリッパのぺたぺたという足音がする。せんせいの足音だ。本物だ。せんせいの気配がこの薄いジャバラのカーテン一枚越しにあって、熱を持ったせんせいが居て。いとも簡単に触れてくれて。せんせい。せんせい。……僕の手は、無意識のうちに脚の間へと伸びていた。制服の硬い生地をも突っ張らせている僕の茎を、最初は事故のように、制服の上から手の甲で一瞬掠る。くっ、と鼻の奥に溜まった息をゆっくりと吐き出してからもう一度、今度は明確な意志を持って優しく包む。まだ頭頂部に生々しく残るせんせいの手の感触を転移させながら。指の腹をの柔らかさを使って揉み始めると、僕は横向きに転がった。顔をシーツに押し付け、声を堪える。けれど一度スイッチの入ってしまった手は止まらず、僕は淡い脳味噌のぎりぎりのところで布団を被った。
 キーボードを打つカタカタという小気味好い音が聞こえる。せんせいの指が叩いている。音を真似て、トトト、と指で軽く叩くと、一気に腰から上へ快感が上り詰めた。背中を丸めて逃げようとするも逆効果だ。身体がより小さくなって、その小さい内側で熱が溢れるようだ。もう下着の中に手を入れるまでの躊躇は無かった。せんせいがいる。本当のせんせいがいる前で、こんなことをしている。気付かれないように布団を被って声を押さえたのに、僕の本心はきっと気付かれることを祈っている。気付かれて、それで、せんせいは一瞬瞬きした後、葛藤するように表情を歪める。けれど僕がとろりと先端から蜜を零したのを見ると、ギシリとスプリングを軋ませて、覆い被さるのだ。そして震える僕の耳元で囁いてくれる。「先に誘ったのは、お前だからな」さっきまでの優しい先生の声とは真反対の、冷ややかさと束縛を含んだ声色。ジュルと耳朶を舐められて、それから布団を剥がされるとあっという間に僕は手篭めにされて。
「せ……ぁ……っ」
 僕はスラックスと下着を足元に蹴飛ばした。僕の手にはあの幻想の「せんせい」が宿っていた。優しく握って上下に擦る手は紛れも無いせんせいの大きな手。痺れる身体は不器用だったけれど、なんとか自分でも腰を振り始めていた。けれど達する時には辛うじて手が動き続けていただけで、全身はビクビクと震えて使い物にならなかった。けれどせんせいの手はまだ止まらず、拡縮する尻の窄みへと到達しようとしていた。もう片手でポケットに入れていた使い切りのローションを取り出すと口で破り、指に馴染ませる。既に精液の染み付いていた手にローションが混じる感覚が淫靡だ。ゆっくりとシーツに息を吐き出しながら、人差し指を差し込んでゆく。僕の腸内はすっかりせんせいの指を飲み込むのにも慣れ、むしろ吸い込むかのように蠢いていた。静かにうつ伏せになり、頭を下げ腰だけを持ち上げた体勢になると、せんせいの目の前にその内部が晒される。「えろいな」せんせいの舌舐めずりに腰が震え、穴からはたぷたぷになったローションが零れ落ちた。
 僕の指は三本を束ね、せんせいの性器を模すような形になる。そして、それは急かすことなくゆっくり、ゆっくり入ってくる。僕がシーツを噛んで堪えているのと同時に、せんせいも小さく掠れた声を上げていた。でも全てが収まると、せんせいは少し笑った。そしてグイと僕の背中に抱き着く。不意に角度が変わったことでつい喘ぎが漏れそうになったけれど、せんせいの逞しい腕に包まれていることの安心感に僕は、はあと息を吐いた。僕は、こんなにもせんせいに求められている。愛されている。心の底から、せんせいに、愛されてる。
 突かれる度に、吐息と快楽と愛を感じた。これまでの空っぽな生涯がせんせいで満たされていくようだった。僕は母さまのお人形。母さまが僕の為に何でもしてくれるから、僕は何もしないで良かった。勉強が出来なければ家庭教師を付けてくれた。スポーツが出来なければジムに通わせてくれた。僕の中身は、母さまで出来ていた。母さまに呼ばれるための僕だった。けれど、今は違う。母さまは、生まれた時から絶対僕を見続けていた。せんせいは、せんせいの意思で、僕を見てくれる。苦しいほどに僕を愛してくれる。そして僕は僕の意思で、せんせいに満たされている。僕は母さまの人形ではない。せんせいの人形でもない。僕は、せんせいに出会って、僕自身を知ったのだ。快楽に弱く、淫靡ではしたない、不良な、でも誰よりも美しい僕に。その僕を教えてくれたのは、せんせい、あなたです。せんせい。
 せんせい。
 せんせい!
「……っ、んあぁぁ、せんせいぃ……!!」
 シーツを噛む力も弱くなって、僕の口は少し横向きに逸れていた。思わず漏れて音になってしまった声が最後の刺激となった。勢いよくシーツに吐き出される精液。もう手にも力が入らず、幻想のせんせいの姿が煙に消えた。僕はうつ伏せでシーツに倒れ、まだ残る自分の荒い呼吸の色めきに酔おうとしていたそのときだった。白熱灯の光が勢いよく差し込んだ。
「……どうした!」
 カーテンがばっ、と開いた。逆光の中のせんせいを、布団を被ったうつ伏せのまま横から見上げる。せんせいは、焦った顔をしている。愛おしい人だ。僕はゆっくりと上体を起こし、布団を肩に羽織ったまま正座をした。下半身は裸だった。制服のジャケットは、白く濁った液体が付着していた。僕は、せんせいを見上げ、聖母のような柔和さで微笑んだ。
「せんせい」
 座る向きを変え、片足のつま先からゆっくりと床に足をつける。ひんやりした床に、僕のぼおっとするような熱は浮いているようだ。両足を付けると布団をベッドにずり落とし、僕は立ち上がる。ぺた、ぺた、と裸足の足音を数歩鳴らすと、僕はせんせいの胸に抱き着いた。白濁が接着剤になって、僕とせんせいは融合した。愛おしくて、せんせいの逞しい胸に頬を擦り寄せた。
「はぁっ……せんせい、ぼくも、せんせいが、すき……」
 せんせいは微動だにしなかった。その緊張を緩めるように、胸に回していた手を腰へと移動させていく。艶かしく、娼婦のように。
「せんせいも、ぼくがすきでしょ……だって見てほら、この、烙印……せんせいの愛は、あっついよ……でも、ぼくが生徒だから、我慢してるんでしょ……でも、ぼくが、我慢できないもの。せんせ、もう、シよ……いいよ、ぼくが悪いってことにして、いいよ……」
 語るうちに、先程達したばかりの僕の陰茎が再び熱を持ち始めていた。勃ち上がりはじめたその圧は、せんせいにも伝わっているはずだ。せんせいの足が一歩逃げたけれど、逃がさないとばかりに押し付ける。せんせいは、まだ葛藤しているようだ。
「ねえせんせい……いけないことしよう……せんせい……せんせい……あいしてるせんせい……、せんせい……っ!」
 感度の高い僕の全身はせんせいの熱に堪え切れなくて、僕はその場で咄嗟に蹲った。そして再び手のひらに熱を吐き出す。床やせんせいの靴下にも飛び散ったそれを見てぼおっとした後、僕はもうせんせいを見上げようとした。
「せんせい……せん、せい、……」
 見上げようとした。いや、実際見上げたのだ。床にしゃがみ込んで、尻も脚も床につけた状態で、僕は、棒立ちしたままのせんせいを。だがそこで僕の記憶は錯乱する。ノイズが掛かったようにガサガサと揺れている。それでもなんとか見ようとしたせんせいの表情は、おかしい。何故、こんな冷たい顔をしているんだろう。せんせいはここで、葛藤するように表情を歪めているはずだ。何故このせんせいは、こんなにも冷たく悲しい目をしているのだろう。海の底と形容し続けた瞳は、ただの紺色で平面のようだ。ただ虚無と何かしかない瞳、これではない。僕のせんせいは、これではない。それにこの「何か」とは何だろう。弱肉強食の光景を外から眺める学者のような、母犬に押し潰されて死んだ子犬の死骸を捨てるようなこの目。これは、これは、憐憫だ。残酷な哀れみだ。せんせいは、僕を哀れんでいるのだ。何も動かず、何も言わず、ただただ僕を哀れみ、しかし救うこともしないのだ。こんなはずではない。こんなのは本当のせんせいではない。せんせいはこの後、僕の痴態に誘惑され、僕は抱かれるのだ。愛されるのだ。そう、愛されたじゃないか、あんなにも。こんなせんせい偽物だ。せんせいはこんな目をしない。こんな顔をしない。何故ならせんせいは僕を愛してくれている、
 愛してくれない。
 ノイズはいつの間にか消え失せ、視界はクリアになっていた。愛情も何もない、弱者への哀れみだけが突き刺さる。かわいそうに。勘違いして、かわいそうな子。せんせいは何もしてくれない。ただ憐れむだけの、残酷な人だった。
 せんせい。

 愛して欲しかった。

***

「あ、おかえりなさ……」
 その人が帰ってきたのは、ちょうど夕飯にラップをし終わった時だった。連絡もないけど、そろそろ焼き魚の表面が乾いてしまいそうだったから。タイミング悪いな、とは思いながらも渋々ラップを外していった時、どっと背中が重くなる。彼が抱き着いてきたのだった。
「……どうしました?」
「……なんでもない」
「そう……でも、重いんですけど……」
「ごめん、しばらくこうしたい……」
 くぐもった声で彼は囁く。腰に回った腕のは、子供が自信無さげに甘えるような弱さだった。珍しくしおらしい様子に、僕も薄々心境を察した。何か、辛い思いをしてきたらしい。それも怒れないような、やるせない哀しみなのだろう。こうして頼るしか、解消の出来ないものなのだろう。たとえば、傷つけたくない人を傷つけたとか。伊達に、長い付き合いをしていない。
 リビングの真ん中に、ぽつんと男が男に抱きついている。暗い窓に反射したその姿が少し情けなくて、僕は一度その手を外すと、おずおずと向き合った。それで、少しだけ腕を広げる。その僅かな合図に、彼はぐちゃりと泣きそうな具合に表情を歪めて、思い切り体重を掛けて抱き締めてきた。肩に顔を埋め、苦しそうに呻く彼に、ゆっくりと僕も腕を回す。
「祐月……あのさあ……」
「はい……」
「あいしてるって言ってもいい……」
「……どうぞ」
「……っ、あいしてる……」
 崩れそうな心を保ちたくて縋るようだ。彼は訥々と愛の言葉を繰り返す。僕はその多過ぎる愛に返事をしなかった。ただそれだと、彼の重い片思いになってしまうだろうから。背中に回した、彼のジャケットの皺を作っていた手をゆっくりと離す。それから彼の頬を両手で包んで、一度だけ口付け、視線を絡ませた。
 それからは、雪崩れるように、愛してあげた。
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