美少女の脚
 ついに、従姉妹の脚が動かなくなった。事故でも事件でもなく、何でもない日々の積み重ねの間に蝕むように、従姉妹の脚は動かなくなっていった。従姉妹は栃木の実家で暮らしていて、ひとり貧乏学生をする僕とは異なり不自由のない生活をしている。だから生活に困る事はないよと笑顔の顔文字と一緒に送って来た。けれど、ゆうちゃんに会えないのは悲しいね。従姉妹は泣笑いの顔文字と一緒に送って来た。
 従姉妹は僕と同い年だ。だから、殆ど生まれた時からの付き合いだ。僕の最初の記憶は、栃木の家で従姉妹と遊んだ記憶だ。もしかしたら後に母や叔母から伝えられた話を自分の記憶にしてしまったのかもしれないが、僕がおままごとをやろうと言って、従姉妹が怪獣ごっこをしようと言っていたのだ。どちらも譲らず、母と叔母に促され両方やろうとしかけた時、テラスに飛んで来た蜻蛉に騒いで怪獣もおままごとも置き去りに駆け出した。そんな話をいつだか従姉妹にしたとき、従姉妹は微笑んで答えた。
「私の最初の記憶もね、ゆうちゃんだよ。私がお風呂に入ろうとしたら、ゆうちゃんも一緒に入るって泣いたって話。それで一緒にお風呂、入ったのよ、覚えてる?」
 従姉妹は活発な少女だった。公園で一緒に遊んでも、僕の作ったピカピカの砂団子をいとも簡単に壊していくような少女だった。他の子にやられたなら泣いただろうが、従姉妹は憎めない少女だった。僕が従姉妹に勝ったことはない。駆けっこでも水泳でも勉強でも。それでも僕は従姉妹を憎むことは無かった。従姉妹に手を引かれると、数秒前すぐ目の下まで駆け上っていた涙は消えていた。
 従姉妹は美少女だった。溌剌とした表情が良いと母はよく従姉妹を褒めていた。実際、従姉妹は良く男性に好かれたし、僕も中学に入った頃には青臭い思いを抱いた。羞恥心と自信過剰を複雑に混ぜた男心に、従姉妹は格好の対象だった。夏に会う時は、肌に浮かんだ汗の内側の色の白さとその儚さに思いを馳せた。それでゆうちゃんと去年と変わらぬ距離に入られるので、僕は始終下を向いていた。
 僕が関西の実家から上京し、東京で一人暮らしを始めるようになった頃にようやく僕の思春期も終わった。従姉妹と僕はよく二人で会うようになった。栃木に来ても何もないからと、僕の最寄駅の路線の駅で会うことが多かった。会うと言っても何をするわけでも無く、ただ適当に見つけた喫茶店で昔話をするだけだった。その頃から脚の不調子を呟いていた従姉妹は、僕の前でもその異変を見せつつあった。喫茶店を出て、何も無いただのコンクリートの道路で、突然従姉妹の脚がふわりと浮いた。そのまま絡み合った二本の脚は千鳥足で数歩進んだかと思うと、何もないようにしゃがみ込んだ。従姉妹の白いスカートがバルーンのように膨らんだままコンクリートに付いた。白鳥が湖に着水するように、従姉妹は膝を折り曲げてそこに座っていた。周囲を歩くサラリーマンや老人も、その不思議と幻想的な光景に目を奪われていた。
 慌てて駆け寄った僕に、従姉妹はきょとんと瞬きをしていた。そしてあどけない美少女の笑みを浮かべた。
「へんだね、転んじゃった。手を貸して?」
 従姉妹は、少しずつ着実に歩けなくなっていった。数ヶ月後会った時は、左脚だけ調子が悪いようだった。跛の如く、がったんがったんと一定のリズムを刻みながら歩く従姉妹だったが、僕を見つけるとやっぱり、あどけない笑顔を見せた。会う場所も僕の家の近くから、徐々に栃木へと近付いていった。阿佐ヶ谷から新宿になって、日暮里、北千住、栗橋、栃木に入って、そして最終的には従姉妹の実家という訳だ。僕は従姉妹が美味しそうに食べていた喫茶店のショートケーキを手土産に、従姉妹の家を訪ねた。叔母に従姉妹の部屋を案内され、扉の前に立たされた。厳かな木製の分厚い扉の奥は、昔から従姉妹と僕の遊び場だったが、久しぶりに立たされると心臓が重くなった。ノックして数秒後、従姉妹の軽やかな声がした。
 扉を開くと、光が網膜に飛び込んだ。二階にある従姉妹の部屋は、丁度扉の真正面に小さなバルコニーが設けられていた。木々の緑と青空の爽やかな光景を大窓が挟み、白いカーテンが扉を開けた風圧で靡いていた。そしてその中央の椅子に、従姉妹は座っていた。木製の安楽椅子に、従姉妹は座って、僕を見つけるとあどけなく美少女の笑みを浮かべた。
「ごめんね。遠いところまで、ゆうちゃんだって大学忙しいでしょう」
 僕は曖昧に返事をした。大学も夏休みだから、大して忙しくはないのだという旨を付け加えて。僕は机を運ぶと、紅茶と持って来たケーキを従姉妹の前に用意した。真夏の日差しを背景に、従姉妹は微笑みを輝かせていた。
 従姉妹の部屋は、昔とは随分様子が変わっていた。まず何よりも本が増えた。左右の壁は一面本棚になっていて、一人の時間の増加を何よりも感じさせた。ベッドにはぬいぐるみも沢山乗っていた。昔遊んでいた時は、僕のほうがぬいぐるみを好んでいた。女の子らしくなったね、と失礼なことを呟くと、従姉妹もクスクスと口元を抑えて笑った。
「そんなことないよ。頭の中は男勝りのまま。置いてある本よく見てみて、子供向けの冒険小説ばっかり。ダレンシャンに、シャーロックホームズ、ハリーポッターまで。遊ぶ場所が現実から、想像の中に変わっただけ」
 ぬいぐるみは女の子らしいじゃないかと反論すると、ゆうちゃん私をそんなに女の子にしたいの? と笑われた。ゆうちゃんは変わらないわね、女々しいまんまだわ。ぬいぐるみひとつあげようか? と言われて、少し心が動きかけた。引っ越す時に、ずっと一緒だったぬいぐるみも全て捨ててしまったのだ。
 会話が一旦止むと、僕の視線は自然と従姉妹の脚に動いた。長いスカートに隠されたその脚は一見どうということもない脚だ。従姉妹はその視線に気付くと、意地悪な女の顔をした。
「脚ね、もう動かないって決まったら、なんだか楽しくなっちゃった。荷が軽くなったような気分。脚が動く人にはわからないのよ、それってすごく特別な幸せだと思わない?」
 見たい? 従姉妹は僕に尋ねた。僕が頷くと、従姉妹は真白いロングスカートをゆっくりと持ち上げた。ウェディングドレスの裾を持つ少女のように、従姉妹はあどけないぼんやりとした表情をしていた。
 先の尖った女の足先から、視線は徐々に上ってゆく。足の甲は薄っすらと青い血管が透けていて、何か彩でも添えているようだ。そこからゆっくりと、白いスカートが上っていくのを追い掛ける。あれ、と思ったのはくるぶしを超えた時だった。眩い石だ。宝石だ。緑色の底光りする宝石がひとつ、ふたつ、みっつ、それぞれの脚に嵌め込まれている。どういう技術なのかは分からないが、それはあまりにも自然な嵌り方だった。そこからは白い陶器のような肌が続き、膝で一度カクンと角度が付いてからも、真白い太腿が続いている。
 これどうしたの、と聞くと、従姉妹は得意げに答えた。
「みんな、髪の毛で遊ぶでしょう? 結び方を工夫したり、きらきらした髪留めを付けたり。それとおんなじなのよ、私の脚。確かに私のものだけど、感覚はない。死んだ細胞の塊。爪の先の白いとこもおんなじ」
 僕は彼女の脚元にしゃがむと、その宝石をじっと眺めた。緑色の眩しい色彩は、何か懐かしいものを僕に思い出させた。僕が記憶を探るうちも、彼女は滔々と語る。
「私、動かなくなってから、自分の脚が大好きになった。だって、飾れる場所が増えたんだもの。しかも髪の毛や爪みたいに、伸びたりしないの。毛もね、剃ってしまったらもう生えなくなっちゃった。少しずつ筋肉は無くなってきちゃったけど、お医者さまから言われたの、筋肉がなくなれば、脚は死ぬまでこの姿を保つって」
 ぼやけた記憶の中から、一つの記憶が選び出されて浮かび上がり始める。彼女の裸足の脚の白が、僕の記憶の絵の中を飛び回る。
「脚を切ってしまうっていう話も出たの。無駄なエネルギーがここまで回ってるから。でもそんなの、絶対にいや。無駄なんかじゃないわ、こんなに美しいもの手放してたまるもんか。お医者さまって頭が硬いわね。要らないものはすぐに捨てちゃうんだわ。要らないからこそ、要るものもあるのに」
 あれは確か、山の中の川へ水遊びしに来た時だった。大人たちが浅瀬に居なさいというのを無視して、彼女と僕は川の上流を目指して行った。幼い子供たちの姿が徐々に少なくなっていくのと同時に、川の中の岩たちも大きさと鋭さを増していく。彼女は僕の手を引きながら、上へ、上へ、目指して行った。何がそんなに彼女を惹きつけるのか分からなかった。僕は半泣きになるのを川の水で洗い流しながら、彼女のお供をし続けて居た。
「私、むしろ、上半身のほうが要らないの。ねえゆうちゃん、私が死んだら、脚だけは取って置いてね。上半身は燃やしちゃっていいから。脚だけはホルマリン漬けにして、美しいままで飾っておいてね。博物館に寄贈してもいいわ、私の脚はね、後世に取って置いてもいいものだもの」
 彼女も、想像以上に体力を奪われているらしかった。真白い脚は水にふやけてさらに白さを増していて、幽霊のような美しさがあった。そして、上り詰めて上り詰めた、その先で、僕らは見たのだ。
「ううん、でもやっぱり、今のうちに死んでおくべきよね。ゆうちゃん、私明日死ぬわ。綺麗に死ぬわ。上半身要らないの。それで、脚だけゆうちゃんのところに送ってもらうの。それでずっと大事にしてね。ホルマリンの中で大事にしてね」
 川の上の、先の先には、大きな崖があった。そしてその崖の中央から、大滝が貫いているのだった。僕はそれまで図工の授業で水を青い絵の具で塗っていた。けれどその日の絵日記から、僕は水を緑で塗り始めた。真夏の日差しのさんざめく中、水面は木々の葉の濃い緑を反射していたのだった。緑色の滝。滝壺が一番濃ゆい緑色をしていた。奥に行けば奥に行くほど、絵の具が溜まったような緑だった。深い闇色の緑だった。その水の緑が反射して、彼女の脚も透けるような緑色をしていた。
「ゆうちゃん、触ってみる?」
 美少女は、僕を試すように微笑んだ。僕は頷いた。そしてその、死の溜まった脚先に、そっと触れた。
 白い陶器の脚に、僕は顔を近寄せる。怪我や痣どころか、毛穴のひとつの影もなかった。僕は頬を寄せてみた。それはやはり、生き物の脚とは思えなかった。意味もなく神様が悪戯につけてみた飾りのようだった。それならば緑色の宝石は、ひとの証。眩しい無機物の輝きが、皮肉に彼女の人間の生を証明していた。
 美少女は、ずっと目を閉じていた。左右対称の人形のような顔だった。僕は、少しだけ泣いていた。
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