いと尊き御神よ、いつわれは死なん
Liebster Gott, wenn werd ich sterben?


 ばちん、とネジが弾かれる。瞑っていた目を開いていくと、キュウコンが遠目にわたしを見守っている。目が合うと、不意に立ち上がった彼はしなやかな足取りでこちらへと歩んできた。恐る恐る自分の耳許からそれを外していくと、彼はその耳許に頬を擦り寄せてきた。反射的に慄くからだを抑え、頬を擽るその毛並みに委ねていたが、彼が離れて気がつく。触れると、ぬる、とした感触と冷たさがある。彼の真白い体毛についたちいさな鮮血のしみは、わたしのものらしい。彼は正座したままの目の前に座ると、ゆらゆらと九尾を揺らしながらまた私を見つめる。微動だにしないその視線の意味はわからないけれど、わからないことが救いだ。
「ごめんなさい」
 せっかく、あなたに凍らせてもらったのに。冷やすと神経が麻痺して痛くないというネットの情報を鵜呑みにしたわたしは、偶然にそばを通り過ぎた彼に頼んだのだった。ここだけ、冷やしてほしいと。実際、痛みは何もなかったし、今もそうだ。だけれどゆっくりと鏡を持ち上げると、傷口からじんわり血が染み出していて、耳朶の下からぽた、ぽた、と今も滴り落ちている。そのことを不思議だ、と思う自分と、当たり前のように受け入れている自分がいて、ふうん、と思った。
「痛い」
 試しに、つぶやいてみる。痛くなってくるかもしれない。けれど、痛みはやってこない。キュウコンは、夜の蝋燭のあかりに似た動きで尻尾を揺らしている。わたしは彼に手を伸ばして血を拭おうとする。が、触れたとたんにびくりと立ち上がり、またあのしなやかな足取りで去ってしまった。取り残されたわたしは、なにもない部屋の中で、もう一度試してみる。
「痛いよ」
 痛くない。
 血の粒が雫になって、落ちてゆく。

 妹が死んで、一年が経った。
 わたしが、それまでの目標を捨て、彼女が務める予定だったジムリーダーの職の代理を務めることになってから、一年が経ったということだ。
 そうやって淡々と事実を言葉にして、ふだん通りの笑顔でいると、それを聞く人は大抵気まずい顔をする。気持ちはわからないこともない。わたしだって、同じ立場ならそうだろう。けれど、わたしにだってわからない。どうして大事なひとが死んだのに、こんなにわたしは傷ひとつつかないのか。
 妹の名前は、あけび、という。三つ下の妹だ。妹は幼い頃からおてんば娘で、怪我の絶えない子だった。わたしによく懐き、小学生の頃なんかなんでもわたしの真似をしていた。外食に行って、わたしがハンバーグを頼むと、妹もハンバーグを頼んだ。一口交換できるようにわたしがスパゲティに変えると、妹もスパゲティに変えた。両親も店員も、お姉ちゃんが好きなんだねえ、と妹のことを笑っていた。
 それでも思春期を迎える頃には、妹も己の道を見つけたようだった。妹は、ピアノが上手かった。昔わたしの真似をして習い始めてわたしより先に辞めたのだが、妹はわたしよりも上手かった。妹はよくわたしを呼びつけて、我流のしっちゃかめっちゃかな演奏を聴かせた。傍目に聞いても酷いものなのに、彼女の演奏は不思議と説得力があった。妹はポケモンバトルも上手かった。わたしより後に旅立ったのに、妹はあっという間にジムを制覇しリーグチャンピオンとなった。おかげで、妹の相棒であるピカチュウは黄色い悪魔と恐れられていた。そんな妹にジムリーダー就任の声がかかることは、何の疑問の余地もないことだった。遅れて話題になることもなくひっそりとリーグ制覇したわたしが、教師を目指し始めていた頃だった。
 妹は死んだ。一撃必殺だ。あっけなく死んだ。交通事故で、ぽん、と。お葬式はみんな泣いていて、ポケモンたちも泣いていた。わたしは頑張って泣いた。その頑張りを察した両親は、まだ受け入れられてないのだ、可哀想に、と言った。そうなのかもしれない。わたしは確かに、妹が死んだということがわかっていないのかもしれない。でもどうして、わたしにだけわからなかったのだろう。みんながわかるのなら、わたしもわかるはずだ。不思議だ。
 かくして妹は死に、わたしはジムリーダーになった。わたしは妹とよく似ていると昔から言われたから、初対面の人はわたしを見てまず有名な妹を思い出す。今日の対戦相手もそうだった。過去の英雄の思い出に浸り、泣き出しそうな顔をした挑戦者を、わたしは羨ましく思った。
 わたしの専門タイプはこおりタイプだ。元々はオールマイティーだったのだが、ジムリーダーとなる際にひとつに絞った。そのため、挑戦者は自然とほのおタイプやかくとうタイプなんかを連れてくる。この少女もそうで、ゴウカザルなんていう迷惑この上ないポケモンを出してきた。うんざりだ。
 ジムはまだ改装中で、簡素なバトルフィールドしかない。妹のために作られていたのを急遽わたしのために作り直すことになったからだ。審判もジムトレーナーもまだ雇っていない。少女はわたしが何を繰り出すのか、緊張しているようだった。できたてのジムだ、まだわたしの手持ち情報もさして出回っていないのだろう。その少女の熱のこもった視線を振り払うように、わたしはボールを投げた。キュウコンが現れると、少女はしまったという顔をした。フェアリータイプなら、かくとうタイプの弱点をつける。
 仮に備え付けられたスポーツ用のブザーが鳴って、バトルがはじまる。少女の唇がなにかを叫んでいる。わたしはその唇を見ていた。そして、妹の唇を思い出した。妹の唇は、二枚のなまこが引っ付いたようだった。それで妹はよくわたしの唇を挟んだり伸ばしたり遊んで、やさしく蠱惑的に笑っていた。そして、あの唇で、
 ――お姉ちゃん、きもちい?
「ぜったいれいど……」
 マイナス二百七十五度のゴウカザル。同時に、あの唇も凍ったように固まっていて、きれいだなあ、と思ったら、すこし泣けた。耳許のピアスが揺れて、心なしか穴の内側がぐずついた。

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