サ、ヨ、ナ、ラから始まる

「約束がほしい」

その白き男神は絞り出したような声でそう言った。あまり強請ることがなかったその一振りも、これが最後になるやもしれぬと薄々感じていたのだろう。腕の中にいる愛しき人の子の、確かな鼓動に耳を傾けながら許しが下るのを待った。鈴を転がしたような声が発されるまでが、何刻にも感じられる。

「はい。何を約束しましょうか」

笑みさえ浮かべて許しを示したその人の子を憐れとも思ったし、平気で約束をする姿を愛しやとも思った。神との約束はたとえ口約束であっても契約に値する。意図せずに破ってしまった場合、神の怒りを買うこともある。それこそ、末代まで祟られるかもしれないし、その身をもって償わされるかもしれない。それを知ってか知らずかは定かではないが、ただ一つ言えることは、この娘はたとえ神との契約になろうとも自身の選択に後悔を持つことはないのだろう。大層大事にされているという自覚はあった。それ故に心地よい温もりを離し難く思う。

簡単に約束をするもんじゃないと窘めたところで、事の重要性を分からぬその子はころころと笑っている。自身が無く泣き虫な彼女は己がいなくなったのち、誰を頼るのだろうか。その神が羨ましい、ああ、離れがたい。それでも行かぬわけにはいくまい。

「必ず君の元へと還ろう。そうしたらまた、俺を受け入れてくれるかい?」

「はい、必ず。貴方の姿が変わっても鶴丸が鶴丸である限り、私は喜んで迎えましょう」

まっ直ぐ目を見て綺麗に笑った人の子。彼女を抱く腕に力を込める。これでいい。これで安心して逝ける。どうせ消える定めだ、少しくらいなら構わんだろうと、桜色の唇に己のそれを寄せた。そうして薄く目立たなくした己の神気を愛し子に流し込む。道標と加護を受け渡し、ぱちくりと瞬く彼女を、もう一度己の羽織で包んだ。真っ白な中に流れる黒髪がより一層、その人の子の美しさを駆り立てる。成程、自分のものを纏わせるのは一等気分がいいものだ。何も残して逝けぬなら、せめて羽織だけは置いていこう。もぼってきた管狐に羽織を置いていくことを告げると、渋々ながらも認めてくれた。狐も狐なりに今回のことについては責任を感じているのだろう。

そうして人の子の視線を背中に感じながら、一度も振り返ることなく己の終末へと足を向ける。薄情だと思うだろうか。手だけでも振ってやるべきだろうか。否、それをしたら戻れなくなるのは己だと分かっていたからこそ、何もしなかった。ともすれば踵を返しそうになる自身を律して前へと足を動かす。そうして漸く空間が歪み、温かい眼差しも感じなくなったころ、それまでずっと口を閉じていた管狐がぼそぼそと話しかけた。

「…よろしいので?」

「何だ、振り向いたら返してくれたのかい?そいつは惜しいことをしたな」

「…それ、は…」

「君が謝ることじゃない。俺だって何も知らなかったわけじゃあない」

「…それもこれも、すべて我々の不徳の致すところでございます」

「謝るくらいなら最初から道を外さないことだ」

「耳が痛いお言葉です」

「君に言っても仕方ないが…これに懲りたら神を怒らすなんて馬鹿な真似は止めた方がいい」

しゅん、と耳も尻尾も垂らした狐に、ついっと視線をやったものの許す心は最初から持ち合わせていないのだが。怒りに任せて斬らないのは、これを切り捨てたところで現状は何も変わらないし、より人の子を悲しませるだけだと分かっているからだ。だからせめてもの仕返しに、一つ枷をつけることにした。

「こんのすけ、君は代変わりするのかい?」

「いえ、緊急事態でもない限り、一人の審神者には常に同じ管狐が付きます」

「そうかい。では一つ頼まれてくれ」

つぶらな瞳が、恐々と己を見上げる。緊張で身体中の毛が逆立っていて、図鑑で見たはりねずみとやらに似ていると思った。立ち止まり、安心させ羽陽にその震える背を撫でてやる。

「何、難しい事じゃあない。君は頷くだけでいいのさ。あの人の子を裏切らないと、味方でいてやるとそう頷いてくれりゃあいい」

「それは、勿論です」

「そうか。そいつは嬉しいね」

にっと軽快に笑った彼は、いつも通りの飄々とした雰囲気に戻っている。管狐はほっとすると同時に、不思議そうに首を傾げる。それを目にした鶴丸国永は、もう一度同じ言葉を繰り返した。

「あの人の子を裏切ってくれるなよ」


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