ゆっくりと目を開ける。
最初はぼやけていた視界がだんだんはっきりして、真っ白な天井が見えた。ただ目を開けただけなのに疲労感がすごい。耳慣れない規則的な機械音が部屋に響いている。自分の状態がいまいち理解できなくて、取り敢えず起きあがろうと体に力を入れたのだが。

「…ぅ、?」

全く動かない。誰かを呼ぼうにも、喉がカラカラで言葉も出ない。まるで何年もずっと喋ってなかったみたいに喉が張り付いて、兎に角言葉が出ないのだ。身体だってそう。寝返りを打つことも、首を動かすこともできなくて途方に暮れる。いったい私は何をしたんだろうか。瞬き一つするにも、何秒もかかる。
どうにもできなくてぼーっと天井を見ていたら、視界に人間らしい人が映った。

「佐野さん?」
「…、」
「…、!佐野さん、聞こえる?!」

瞬きを一つ。それだけでその人は分かってくれたらしい。誰かに向かって至急先生を!早く!なんて話してた。数分もすればバタバタと何人かが周りにきて、あれやこれやと体をいじられ、質問される。そのどれも理解はできなくて、ただ不快に音が反響するだけだ。相変わらず声は出ないし体はだるい。忙しなく自分の頭上で繰り広げられられることをどこか他人事のように眺めた。
急に脳が処理する情報が増えたせいか、途端に眠気が出始める。色んな音逃げるように、また目を閉じた。

それが、3日前らしい。

「み、?」
「2年も寝てたんだから、3日くらい意識なくったって平気だよ。いやあ目が覚めてよかったね」
「…」

朝の巡回で訪れた医師は、驚きを隠せない私を軽く笑い飛ばしながら点滴をいじった。人間って何をしなくても3日ずっと寝てられるんか。てか2年て何。どういうこと。

「ああ、そっか君にとってはつい数時間前のことなのかもね。取り敢えず今はゆっくり休んで、詳しいことはもう少ししたらね。起きる時間が長くなりそうならご実家にも連絡入れるね」

ぐるぐると、思考が回って心臓も速くなる。痛みが急に押し寄せて、呼吸が荒くなった。自分に繋がってる機械の音も不快で、目が回る。

「ほら、興奮しないで。ちょっと休もうか」

大丈夫大丈夫と、やっぱりどこか軽い対応の医者は、慣れた手つきで看護師を呼んでくれる。点滴から鎮静剤も入れたのか、数分すれば少しは冷静に言葉を受け止められるようにはなった。

それからはもう大変だった。取り敢えず起きたけど、長い間寝ていたせいで筋力の衰えが半端ない。自分で自由に動くこともできず、日がな一日寝てるかぼーっとしているかの二つに一つ。むしろ寝ている時間のほうが長い。1日起きて、2日寝るという年寄りみたいな生活の幕開けである。まだ寝足りないのか、自分。

医者によれば、真一郎のお店で圭介に会ったあの日、後ろからチェーンカッターで殴られたらしい。一命は取り留めたもののずっと意識が戻らず、植物状態に近い状態になっていたそうだ。ヘルメットを被っていなかったら即死だったと。ぐっじょぶ、私。だが丸ごと2年眠っていたのはちょっと解釈違いですね。

「今不安定な時期だから面会謝絶ね〜」
「…う」
「意識戻ったのはいいけど頭も体も変化について行けてないんだよ。眠たくなるのはそのせい。これでまた意識飛んでっちゃったら僕ももう何もできない。まださよならしたくないでしょ?」
「…ん」
「でも驚いたなあ。急に面会謝絶になるもんだから妹さんかな、丁度お見舞いに来てた女の子が大泣きしちゃってさ。まあ詳しいこと言えないからしょうがないんだけど、悪いことした気分」

笑顔で言う事じゃないと思うのは私だけだろうか。あまつさえ、初っ端からいたこの緩く軽い医者は主治医だったらしい。確かに新しい看護師さんと会うとものすごく眠たくなるので、まあ言っていることは間違ってないんだろう。

それから様子を見つつ1ヶ月。時々フラッシュバックみたいに頭痛が起きたり気が動転することを除けば、それなりに声も出せるようになった。何より寝ている時間が極端に減ったので、医者が当初心配していた事態は乗り切ったという事らしい。医者も気を遣ってくれたのか、取り敢えずエマだけ面会できるようにしてくれた。
何でエマだけかというと、あの事件に全く関わってないので、脳が混乱することもないとの判断かららしい。

「最後に見た人とか、トラウマに関係のある人だと体が変に反応しちゃうことがあるんだよね。起きて1ヶ月そこらだしお兄さんとか弟さんにはまだ会わない方がいいかな」
「成程」
「あといつも連絡取れるのが妹さんだけなんだよね」
「あー…何となく分かります」

お店で忙しい真一郎とおそらくあんまり携帯を使わないであろう万次郎。固定電話は平気で居留守を使うおじいちゃん。そしてイザナは携帯を持っているかどうかすら怪しい。あの家族の中で携帯を本来使うべき用途で使ってくれるのはエマだけだろう。
決して嫌われているわけではないと思いたい。

「まあ、多分もう大丈夫だと思うから安心してよ。あ、もうちょっと症状改善したら論文に書いていい?というか書くね!」
「…ドウゾ」

助けてくれた上、2年も診てくれたのだから何も言うまい。嬉々として、実はもう書い始めているんだよねと言われたら、遠い目をするしかなかった。
そのうち妹さん来るから、と言い残して医者は病室から出ていく。去り際に、機能訓練という名のひらがな練習帳を手渡して来た。エマを待っている間、それに手をつけてみたが、面白いくらい鉛筆が握れない。指の力まで落ちてるとかまじか。

何とか鉛筆を持とうと試行錯誤していると、急に廊下が騒がしくなった。そうして壊れるんじゃないかと思うほど勢いよく、病室の扉が開く。そこには、汗だくになった制服姿のエマがいた。記憶にある姿よりもずっと成長している。髪金髪に染めたのは、真一郎の影響かな。

「……わあ、大人っぽくなったねえ」
「………」

私が体を起こしていることが信じられなかったのか、目を見開いて固まっている。どさりと、肩から鞄が落ちた。べしょりとクマのキーホルダーが潰れる。

「っ、ねぇね!!!」
「わっ!」

泣きじゃくって飛びつく姿は、小さい頃と変わらない。ばっしばしのまつ毛に大粒の涙がたわわになっている。覚束無い手つきで、お腹のあたりにある頭を撫でた。

「ネェのばか!!!本当にっ、心配したんだから!!」
「うん、ごめんね」
「マイキーもシンイチローも、ニィも、心配してたしっ、ケンちゃんだって、」

わんわん泣いてたから、何言ってるかほとんどわからなかったけど、心配してくれていた事は分かる。目が覚めて喜んでくれていることも。慰め方すら忘れてしまった私は、ただエマの頭を撫でて謝ることしかできなかった。

「つ、ぐず…っ」
「待っててくれてありがとうね」
「ばかっ…ウチが頑張って家のことするから、早く帰って来て…」
「うん」
「料理もできるようになったの。アイロンもするの。ネェがやってたこと全部、できるようになったよ」
「エマは凄いね」
「でもネェのご飯が1番なの…っウチ、いい子にするから、だから…っ!」
「うん」

エマが大泣きだ。その原因が私だと思うと心が痛い。本当、ごめんね。途中で私も泣けてきてしまう。生きててよかった。エマと一緒に泣き止むまでずっと相槌を打って、頭を撫でることしかできなかった。