風邪の引き始めか、疲労やストレスか……。
審神者業ではなく、兼業している現世での仕事。ここ最近忙しくて出勤日の朝になるとこの症状がでる。
「主」
低く落ち着いた声が背後からかかる。いつの間に来ていたのか山鳥毛は私の少し後ろに立ち、表情を覗き込んできだ。誤魔化そうとしても無駄だと言わんばかりに、赤い瞳が真っ直ぐ私を見る。
「顔色が優れないな、……気分が優れないのか」
問いかけは穏やかに、ただ私の言葉を待つような声音。私が小さく息を吐けば、山鳥毛は眉を寄せる。
「何となく具合悪いのかもって程度で、どこかが悪いってわけじゃないよ」
「なるほど、厄介だな」
彼は難しい顔のまま私から視線をそらさず、そっと私の肩に触れ小さく息をついた。
「君は真面目だからな……」
責める響きはない。呆れ半分、愛しさ半分といった響き。まるで何が原因だか見当がついているような様子だ。
彼の大きな手が安心させるように肩をゆっくり撫でる。
「君は少し思考しすぎるきらいがある。悪いことでは無いが、まだ始まってもいない一日を、朝のうちから背負っているのでは?」
山鳥毛は私の肩を抱いたままゆっくりソファに移動して隣に座るよう促した。
「もちろん原因は違うかもしれない」
そう前置きしてから、少しだけ微笑む。
「だが休みの日には現れず、出仕の朝だけ顔を出す体調不良なら、身体より先に心が警戒している可能性はありそうだ」
山鳥毛は私の額に自分の額を軽く寄せた。
「主」
呼びかける声が柔らかい。赤い瞳が近くで細められる。肩を抱く腕に少しだけ力が入った。
「仕事が始まったら午前中まで、午前中が終わったら昼まで、昼が終わったら退勤まで」
まるで一歩ずつ石を渡るような言い方だった。
「空の全部を飛ぼうとするから苦しいのだ。見据えるのは次の枝までで構わない」
「ひとつひとつ……」
山鳥毛のアドバイスを受け入れようとしてみたが、私はその手の思考が苦手で、胸の靄は晴れない。どうしてもその先が気になってしまう。
難しい顔して唸る私をみて山鳥毛は眉を下げて苦笑した。
「難しそうか。……君のその先を見据える力は長所だが、その長所は時々君自身を追い詰める」
窓の外へ視線を向ける。
夏の光はまだ柔らかく、今日という一日は始まったばかりだ。
「……君がしばらく忙しいのは私も把握している」
山鳥毛は静かに言った。
「だがな、主」
彼は私の顎をそっと指先で持ち上げた。赤い瞳が細められる。
「今日の君が、未来の分まで抱えて働く必要はない」
考えてしまうことを責めるのではなく。指摘するような言い方。それに私は曖昧に笑って頷いた。
だって言葉が見つからないのだ。今日の私は明日の私で、一ヶ月先の私も今のその先にある私。今懸念したって仕方ないのは確かだが、こんな調子で私の体力は月末まで持つのだろうかと不安になる。もたせるしかないのだけれど。
不意に手をとられ、彼の親指がゆっくりと手の甲を撫でる。
「君は時々、自分を信用しないな……」
そう言いながらふっと笑う。肩が寄せられ、ぴたりと触れる体温が温かい。
「……山鳥毛は私が私に厳しいと思う?」
山鳥毛は一瞬だけ目を細めた。
その問いが意外だったのか、それとも私が本気でそう思っていることに驚いたのか。
「……ああ、思うとも」
私の髪を指先で梳きながら、山鳥毛は続ける。
「むしろ、君は自分に甘い人間だと思っているのか?」
穏やかな声だった。責めるでもからかうでもない純粋な疑問として。
「甘いって言うか……意思が弱くて、本当は何もしたくないし、実際大したこともできない。……ちょっとくらい自分に厳しく頑張んないと本当何も出来なくなっちゃいそうな怠惰な人間なんだよ」
私の並べた言葉に山鳥毛は小さく首を傾げた。
「その評価を、君は誰に向けている?」
赤い瞳が真っ直ぐ私を見る。
「朝から体調が悪いのに仕事へ行く人間にか? 頭痛があっても勤務を完うする人間にか? それとも休みの日には疲れ切っていて寝室に沈んだまま動けないくせに、それでも翌日になればまた働きに出る人間にか?」
「任された仕事は当然ちゃんとやるべきでしょ。放り出すなんて無責任だもん……」
「私には、その人物が随分と粘り強く見えるのだがな」
山鳥毛は少し困ったように笑って、私の額を軽く指で軽く小突いた。
「君は自分の評価基準がおかしい」
言葉を切り、少しだけ低い声になった。
「君は自分が既にやっていることを数えないくせに、できなかったことばかり数える」
「でも……」
彼の指が壊れ物を包むように私の頬に添えられ、言葉を遮るように親指が唇に触れた。
「自分を評価するときだけ、妙に厳しい採点になっている。しかも採点基準が無茶だ。疲れるな、もっと頑張れ、まだ足りない。そして出来たことは当たり前だから加点しない。せめて、自分だけに不利な採点をするのはやめるといい」
山鳥毛はふっと笑い肩を竦めた。少しだけ可笑しそうに。けれど目だけは優しいまま。
確かに言われてみれば出来たことへの加点はしないのにダメなとこを減点してばかりいる気がする。けれど。
「山鳥毛は無茶言うなぁ……。一応やることはやるけど、ほんとはやりたくないし、そもそも働きたくないし、お金が出ない残業はしたくない。頑張りたくないけれど、頑張らないとどうにもならない。……こんな私が自己採点で出来たことに点数付けたら甘々採点になるに決まってるじゃん」
だから厳しいくらいが丁度いいと思っているのだ。臀を叩かなきゃ私は走らない。
山鳥毛はその言葉を聞くと、とうとう声を上げて笑った。
「ははっ! なるほど、君らしいな」
珍しく、堪えきれなかったというような笑い方だった。肩を震わせながら頷く。
笑われたことに少し不満気な顔を向ければ、山鳥毛は悪かったと片手を上げるが、そう言いながらも口元の笑みは消えない。
「いや、失礼。だがな、主」
彼は頬杖をついて私を見る。
「私は今、君が『働きたくない』と言ったことに安心している」
「え?」
「結構なことじゃないか」
私がぽかんとすると、彼は少し笑う。
「当然だろう」
きっぱり言い切る。
「誰だって楽をしたい、休みたい、好きなことだけしていたい。それでも必要だから働く」
山鳥毛は私の額を軽く指で突いた。
「君はそれを毎日やっている。だから私は君を怠け者だと思わない」
そして私が口にした言葉を思い返すように繰り返した。
「自己採点で加点したら甘々採点になりそう、か」
今度は少し考えるような顔になる。
「では聞こう。今日、気持ち悪さを抱えながら起き、身支度をした。出勤し、仕事を終え、帰宅したのなら……さて、何点だ?」
「……そんなの……」
質問の意図が見えなくて困った顔をすると、山鳥毛は肩を揺らした。
「君はゼロ点を付けるのだろう」
「っ、」
図星だった。
それは社会人として必要なことだから、山鳥毛の上げたどれもが加点対象にならない。
「当たり前だから、できて当然だから、社会人なんだから。君ならそう言うだろうとも」
「……だって……皆やってることだもん……」
山鳥毛はゆっくり首を振った。
「私はそうは思わん」
赤い瞳が柔らかく細められ、そして少し身を寄せてくる。
「主、厳しくすることと、公平に見ることは別だ」
その言葉は静かだった。
「君は自分に厳しいというより、自分の成功を無視しすぎている。だから減点ばかりが目に付く」
大きな手が私の頭を撫でて、少し可笑しそうに笑う。
「私は長く君を見ているが、君は誰に言われなくても走っているよ。むしろ走りながら『自分は全然走ってない』と言っている」
山鳥毛が先回りして答えて見せた全てに見に覚えがある。
走りながらこれじゃまだ足りない、こんなの走ってるうちに入らない。そう思ってしまう。私は何もかも周りに比べて劣っている気がしているから。
「たまには加点してみるといい」
山鳥毛は私の額に自分の額を軽く寄せた。肩に触れる手が温かい。
「小鳥」
二人きりの時の呼び名が、ふと零れる。
「君は思っているより、ずっと長い距離を飛んできている」
その声には主を評価する近侍ではなく、恋人の確信が滲んでいた。
山鳥毛は小さく息を吐いた。
「とても小鳥らしいと思うよ」
責める響きはない。
むしろ少し困ったような、愛しい癖を見つけた時のような声音だった。
「君は周りを見るだろう。仕事が速い者、体力のある者、要領の良い者や落ち込まない者を見る」
彼の指先が髪を梳く。
「そして、その者たちの優れている部分を集めて、一人の完璧な人間を作る」
赤い瞳が細められた。
「その架空の人物と自分を比べる。違うか?」
「……たぶん、違わない」
気まずくて目を伏せれば、山鳥毛は苦笑する。
「そうやって長所だけを集めて並べれば、誰だって敵わない。だが、君はその人たちの苦手なことを知らない」
家で何を抱えているかも知らないし、何に怯えているかも知らない。
彼は言い聞かせるように話しながら私の額にかかった髪をそっと払った。
「だが、君は自分の欠点だけは全部知っている」
静かな声だった。
「それでは勝負にならんよ、主」
抱き寄せられる。
「私はな、君が思うほど、君を劣っているとは思わない。むしろ時々、よくそれで自分を低く評価できるものだと驚く。……自信が持てない君は、きっと信じないだろう。今は信じなくてもいい」
そう言って山鳥毛は微笑む。
「私と君で見解が違うというだけだ。君は『足りない』と言う、私は『よくやっている』と言う」
優しく抱き寄せられて、山鳥毛が耳元で低く囁く。
「どちらが正しいかは、今は決めなくていい。ただな、小鳥」
その呼び名はひどく優しかった。温かな掌が背中をゆっくり撫で、抱き寄せる腕にほんの少し力がこもり、山鳥毛はそっと私の額へ唇を寄せた。
「私には、君が思っているよりずっと頑張っているように見えるよ」
その声は低く、穏やかに。
ただ寄りかかれる場所を差し出すように私を抱きしめた。
「疲れる日もあるだろう、嫌になる日もある」
少しだけ苦笑して私の髪を大きく暖かい掌が優しく撫でる。
「私を使え」
さらりと言った。
「愚痴でも弱音でもいい、今日は嫌だでもいい。何も言えないなら黙って寄りかかっていてもいい」
彼の胸の奥で、ゆっくりと鼓動が響く。一定で、落ち着いていて、急かさない。信頼しろ、と言うように。
そして彼は私の髪をひと撫でした。
「無理に元気になろうとしなくていい」
その代わり、と山鳥毛は言う。
「一人で抱え込むな」
私の額へ軽く口づける。
「もし休みたいのに気が咎めるのなら私に相談してくれたらいい。もっとも、私が休んだらいいと言ったところで君は大抵は仕事に行ってしまうのだろうが……それでいいさ。君が自分を甘やかさない分は私が小鳥を甘やかすから」
山鳥毛は私の行動などお見通しとばかりに優しく、少し呆れたように微笑んだ。
「さあ、今日はどうする?」