夜更けの本丸は昼間の賑わいが嘘のように静まり返って、障子の向こうから差し込む月明かりが廊下を淡く照らし、虫の音だけが夏の夜をゆるやかに満たしている。
私は寝巻きのまま静かに襖を開け、足音を忍ばせて廊下へ出た。
「……寝付けないし、トイレ行って、厨で水貰ってこようかな……」
誰に言うでもない独り言は、静かな空気に溶けて消える。
冷たい板張りの廊下を歩き、用を済ませると、そのまま厨へ向かった。柄杓で汲んだ冷たい水を湯呑みに注ぎ、一口含む。ひんやりとした水が喉を通り、少しだけ熱を帯びていた身体が落ち着いていく。
「……ふぅ」
その時だった。廊下の向こうから、規則正しい足音がひとつ。
夜番の刀剣男士かと思って顔を上げると、月明かりの中に見慣れた長身が現れた。薄灰色の寝間着をまとい、短い煤色の髪がわずかに乱れたままの山鳥毛だった。
赤い瞳がこちらを見つけると、少しだけ目を細める。
「……主。」
低く穏やかな声が、静かな厨に響く。
「君も眠れなかったのか。」
こんな時間に会うとは思っていなかったのだろう。けれど驚きよりも、どこか安心したような微笑みがその表情には浮かんでいた。
山鳥毛は私のそばまで歩み寄ると、湯呑みを持つ私の手元へ視線を落とす。
「水だけでは身体が冷えてしまう。少し白湯でも淹れよう。」
そう言って自然な手つきで薬缶に水を入れ火にかける。しばらくの静寂。そして湯気の立つ湯呑みを私へ差し出し、隣に並んだ。
「眠れない夜というのは、不思議なものだな。」
窓の外に目を向けながら、小さく笑う。
「一人で過ごせば長く感じるのに、こうして誰かといるだけで、夜の静けさまで穏やかに思えてくる。」
「……君も≠チてことは、山鳥毛も寝付けなかったの?」
喉が乾いて目が覚めた訳では無いのだろう。
山鳥毛は白湯の湯気を眺めながら、小さく肩を竦めた。
「ああ。」
短く答えると、湯呑みを片手に窓辺へ視線を向ける。
「眠れない夜など、そう多くはないのだがね。」
静かな声には焦りも気負いもない。ただ事実を語るような穏やかさだった。
「床に入って目を閉じても、どうにも眠気が訪れなくてな。ならば無理に寝ようとするより、一度身体を起こした方がいいと思って廊下へ出た。」
そう言って、ふっと口元を緩める。
「まさか主と鉢合わせるとは思わなかったが。」
赤い瞳が私へ向き、その眼差しはどこか柔らかい。
「君はどうした、小鳥。」
仕事を離れた今夜は、自然と呼び名が変わる。
「何か考え事でもしていたのか。それとも、本当にただ眠りが逃げてしまっただけかな。」
問いかけながらも、返事を急かすことはしない。白湯をひと口飲み、湯気越しに私を見つめる。
「……眠れない理由というものは、案外なくても起こるものだ。身体は疲れていても、心だけがまだ昼間を歩いていることもある。」
そして少しだけ笑って続けた。
「もっとも、こうして小鳥に会えたのなら、眠れなかった夜も悪くない。」
「またそんなこと言って……。」
ただの眠れない夜が、まるで今夜が特別みたいに思えてしまう。
「今日はあんまり動かなかったし、頭も使わなかったから……元気が有り余ってるのかも」
悩み事なんて、今夜なかなか寝付けないことくらいだ。
山鳥毛はくすりと笑い、湯呑みを手の中でゆっくりと回した。
「なるほど。」
その笑みには納得したような色が浮かぶ。
「今日はゆっくり過ごしていたものな。身体が『まだ一日は終わっていない』と言っているのかもしれない。」
そう言って私を眺める赤い瞳は、どこか愛おしげだった。
「元気が有り余っている小鳥というのも、なかなか可愛らしい。」
「山鳥毛は? お昼寝しすぎたって訳でもないだろうし、珍しいね」
からかうように話していた山鳥毛は、自分のことを尋ねられると少しだけ視線を落とした。
疲労が足りなくて眠れない場合もあれば、興奮しすぎて眠れない場合もある。それとも山鳥毛はなにか別の理由だろうか。
「私は……そうだな。」
しばらく考えるように間を置く。
「昼寝はしていない。眠気もあったから床に入ったのだが、いざ眠ろうとすると意識だけが妙に冴えてしまってね。」
窓の外では風が木々を揺らし、葉擦れがさらさらと流れていく。
「理由を探してみたが、これといって思い当たるものはない。」
山鳥毛は苦笑を浮かべる。
「本丸の仕事が気掛かりというわけでもない。何か心配事を抱えているわけでもない。」
そこで一度言葉を切り、少し照れたように鼻で笑った。
「強いて言えば……寝る前に君のことを考えていた。」
さらりと言ってしまうあたりが、いかにも彼らしい。
「今日一日、小鳥が穏やかに笑っていたことや、話してくれたことを思い返していたら、いつの間にか頭の中であれこれと考えが繋がってしまってな。」
肩をすくめる。
「決して深刻なことではない。ただ、『明日は何をして過ごそうか』『次はどこへ連れて行けば君が喜ぶだろう』などと考え始めると、思考というものは案外止まってくれない。」
赤い瞳が私を映す。
「困ったものだ。君のことを考える時間は、私にとって心安らぐ時間でもあるのだが……時折こうして眠気まで追い払ってしまうらしい。」
その言葉に冗談めいた響きはあっても、眼差しだけはひどく穏やかで真っ直ぐだった。
「もっとも。」
彼は少し身を寄せ、私の額にかかる髪を指先でそっと払う。
「こうして夜更けに小鳥と話せているのだから、眠れなかったことも無駄ではなかったようだ。」
「ふふっ、すっごい惚気け」
嫌じゃないけれど、嘘をついていない甘く穏やかな視線が照れくさい。
「……惚気け、か。」
照れ隠しのように小さく笑い、肩を揺らす。
「否定はできないな。君のことを考えていたのは事実だから。」
「……ね、山鳥毛の部屋で寝てもいい?」
山鳥毛は一瞬だけ目を丸くした。
それは驚いたというより、私の言葉をゆっくりと噛みしめるような表情で、赤い瞳が優しく細められた。
「もちろんだ、小鳥。」
返事は迷いなく、それでいて押しつける響きは少しもない。
「眠れない夜に、一人でいる必要はない。」
彼は私の手に触れるか触れないかの距離まで指先を伸ばし、そっと手のひらを重ねた。
「君が眠くなるまで話をしてもいいし、何も話さず月を眺めていてもいい。」
大きな手が、私の手を包む。温かくて、安心できる温度だった。
「眠れなくても構わない。眠ろうと焦るほど、眠りは遠ざかるものだからね。」
穏やかな声が、静かな厨に溶けていく。
彼は湯呑みを流しに置くと、私へ軽く腕を差し出した。
「さあ、帰ろう。私の部屋へ。」
夜の廊下へ並んで出ると、月明かりが二人の足元を淡く照らした。
歩幅は私に合わせてゆっくり。
肩が時折触れ合うくらいの距離を保ちながら歩く山鳥毛は、ふと横目で私を見て微笑む。
「君から一緒に寝てもいいかと言われるとは。」
少しだけ照れたように笑って続ける。
「……嬉しいものだな。」
その声音はいつもの余裕を残しながらも、どこか素直で。
本丸の誰もが眠る静かな夜、二人の足音だけが、ゆっくりと山鳥毛の部屋へ向かって続いていった。
山鳥毛の部屋は静かで、灯りを落とせば月明かりだけが薄く畳を照らしていた。
大きな寝台へ並んで横になると、私は迷いなく彼の懐へ身を寄せる。腕の中へ収まり、足までそっと絡めると、山鳥毛は「おや」と小さく笑った。
「最初からそこが定位置というわけだ。」
言葉とは裏腹に、その腕はごく自然に私の背へ回る。
肩から背中を包み込むように抱き寄せられ、広い胸へ頬を預けると、衣越しにも彼の体温がじんわりと伝わってきた。
私より少し高い熱。
夏になれば「今日は少し離れて眠ろうか」と笑い合うほどの温もりも、梅雨明けを待つ涼しい夜には心地よい毛布のようだった。
山鳥毛は私の髪を梳くように指を滑らせる。
「今年は夜が過ごしやすい。」
低く落ち着いた声が、耳元で柔らかく響く。
「こうしていても暑さに邪魔されないのは、私としてはありがたい。」
そう言って、抱きしめる腕にほんの少しだけ力を込める。
胸に耳を寄せれば、とくん、とくん、と規則正しい鼓動が伝わってくる。
先ほどまで眠れなかったとは思えないほど穏やかな呼吸。
いや、眠れなかったからこそ、こうして互いの存在を確かめられる時間が心を落ち着かせているのかもしれない。
山鳥毛は額へさらりとかかった髪を指先で整え、優しく問いかけた。
「少しは眠気が近づいてきたかい、小鳥。」
腕の中の私を見つめる眼差しは、守るものを慈しむように穏やかで、抱き寄せたまま急かすことも離すこともしない。
「ん……少し」
「そうか」
彼は額をそっと私の髪へ預け、小さく微笑む。
「今夜はこうしているだけで十分だ。君の温もりを感じていると、不思議と心まで静かになってくる。」
たしかにこうして寄り添うだけで十分ではあったが、私はまだ山鳥毛の声が聞いていたくて、緩慢な瞬きになりながらも口を開く。
「……ね、山鳥毛が刀のまま過ごした夏はどうだった? 鎌倉時代も夏は暑かった?」
山鳥毛は私の髪を撫でる手を止めず、ゆっくりと息をついた。
「そうだな……。」
胸の奥で響く声は、夜の静けさに溶けるほど穏やかだった。
「今ほどではなかった。」
少し考えるように視線を天井へ向ける。
「もちろん暑い日はあったとも。だが、夜になれば風が熱をさらっていく日が多かったように思う。」
指先で私の後ろ髪をゆっくり梳きながら、彼は少し笑う。
「もっとも、その頃の私は刀だ。季節の移ろいを長い時の中で感じていた、という方が近い。」
赤い瞳が私へ戻る。
「刀であった頃の記憶は、夢を見るようなものだ。」
言葉を選びながら続ける。
「人の一日一日のように鮮明ではない。春の匂い、秋の澄んだ空気、雨音、鉄と血の匂い……そうしたものが幾重にも重なって、長い一本の流れになっている。」
そっと私の額へ唇を寄せるようにして、髪に軽く触れる。
「だから、『あの日は暑かった』というより、『あの時代の夏は、こんな風だった』という感覚なのだよ。」
しばらく二人とも黙る。
窓の外では、まだ梅雨の湿り気を含んだ風が障子をかすかに揺らした。
「不思議なものだ。」
山鳥毛はくすりと笑う。
「何百年という時間を過ごしてきたはずなのに、こうして小鳥と並んでいる一夜の方が、よほど鮮やかに心へ残っていく。」
その言葉には誇張はなく、静かな実感だけがあった。
彼は私を抱く腕を少しだけ寄せる。
「君は『昔は夜も涼しかった』とよく口にする。」
柔らかな声が耳元をくすぐる。
「ならば私は、いつかずっと先の時代に『あの頃は、こうして小鳥と涼しい夜に寄り添って眠ったものだ』と、この夜を思い出すのだろう。」
規則正しい鼓動が、さっきよりゆっくりと伝わってくる。
山鳥毛は微笑み、微かな眠気に瞼を閉じながらなおも続ける。
「君の声は心地いい。だから、もう少し聞かせておくれ。」
「……出陣先では? 向こうの時代に飛んだ時は刀の記憶と同じ?」
山鳥毛は私の問いに、すぐには答えなかった。腕の中の温もりを確かめるように、私の背を優しく撫でながら、小さく息をつく。
「……似ているようで、違う。」
低く穏やかな声が、胸越しに響く。
「刀であった頃は、人に佩かれて景色を見ていた。誰が手にしているか、その人の気配や心の揺れ、周囲の空気は伝わってきても、自ら歩くことはない。」
彼は少し笑う。
「だが顕現してからの私は自分の足で大地を踏み、自分の目で空を見上げる。」
その違いは、とても大きいのだろう。
「出陣先でも、『懐かしい』と感じる場所もあれば、『こんな匂いだったのか』と初めて知ることもある。」
指先が私の肩を一定のリズムでとん、とん、と軽く叩く。
眠りを誘うような、ゆっくりとした調子で。
「刀の記憶は、どちらかといえば誰かの人生を隣で見つめていた記憶だ。けれど今は違う。」
彼は少しだけ私の額へ頬を寄せた。
「今の私は、私自身として、その時代を歩いている。」
静かな笑みが声に混じる。
「だから、同じ景色でも見え方が変わる。……それにね、小鳥。」
囁くような声になる。
「刀であった頃には、こんなことはなかった。」
抱き寄せる腕がほんの少しだけ強くなる。
「隣に、大切な者がいてくれることも。」
胸板に耳を当てた私へ、穏やかな鼓動が伝わる。
「同じ時代へ赴いても、『この景色を君にも見せたい』と思う相手がいるだけで、世界はまるで別のものになる。」
しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙も心地よく、夜の静けさの一部になっていた。
山鳥毛は、私の呼吸が少しずつゆっくりになってきたことに気付いて、口元を柔らかく緩める。
「……眠気が来始めたかな。」
問いかけというより、安心したような独り言だった。
それでも髪を撫でる手は止めないから、私はどんどん微睡みに落ちていく。
「……わたしは…ちょもと一緒に時代を飛べないけど……、でも私も……ちょもと見たい景色がいっぱいあるよ」
へにゃ…と唇が緩んで微笑みを形取る。
「……小鳥。」
その呼び名は、羽で包み込むような優しさを帯びている。
「君は一緒に時代を飛べなくとも、構わない。」
そう言って、私の頬へ親指をそっと添えた。
「私が見た景色は、帰ってきて君に話そう。」
穏やかな声が、眠気に溶けていく。
「朝焼けに染まる山も、霧に包まれた城下町も、名も知らぬ花が風に揺れる野原も。私が見たものは、君にも見せたい。」
少し笑う。
「そして、君がこの時代で見つけた景色も、私に教えてほしい。」
指先で髪をひと房すくい、耳の後ろへ流す。
「君が『きれいだった』と笑うだけで、その景色は私にとって特別になるからね。」
「ふふ……わたしも……」
私も山鳥毛と見る景色が、彼が素敵だというものが特別なものになる。
今この時さえ私には愛おしくて、手放しがたい。
眠るために布団に入ったのに、今は眠りたくなくて一生懸命重い瞼を持ち上げる。
そんな私を見て山鳥毛の瞳が、月明かりの中でふっと細められた。
「ちょもの声……落ち着く……。……寝ちゃうの…もったいなくて……」
私の言葉を聞いた山鳥毛は、胸の奥で小さく笑った。
「寝るのがもったいない、か。」
どこか照れたようで、それでも嬉しそうな響きだった。
「そんなことを言われると、私まで眠るのが惜しくなってしまう。」
抱きしめる腕はそのままに、私の背を一定の速さで優しく撫でる。そして彼は私の額へ自分の額をそっと寄せた。
「だが、不思議なものだ。眠ってしまうのは、終わりではない。」
囁く声は、夜風よりも静かだった。
「君は安心しているから眠れる。私の声も、この鼓動も、この腕も……明日の朝、目を覚ましても変わらず君のためにある。」
その言葉には揺るぎがない。
「だから、もったいないと思わなくていい。」
胸に預けた私の頭へ、そっと頬を寄せる。
「眠ってしまっても、私は逃げない。」
ふっと笑みがこぼれる。
「目を覚ました小鳥を、『おはよう』と迎えるのも、私の楽しみだから。」
そのまま彼は何も急かさず、髪を梳く手だけを静かに動かし続ける。
鼓動はゆっくりと、規則正しく。
腕の力加減も、息遣いも、すべてが「ここにいていい」と語りかけるようだった。
「……おやすみ、小鳥。」
耳元へ落とされた囁きは、眠りを誘うというよりも、安心できる居場所をそっと確かめるように優しい。
もう返事はできなかった。
意識は微睡みに落ちていく。
山鳥毛の腕の中の小さな身体から、ふっと力が抜ける。
さっきまで時折動いていた指先も静かになり、胸元へ寄せられた頬が、いっそう安心したように体重を預けてきた。
「……眠れたか。」
声は吐息ほど小さい。
私の瞼が何度も開こうとしては閉じる様子を見ていた彼は、口元を柔らかく綻ばせた。
「寝るのがもったいないと言っていたのに。」
くすり、と笑う。
「身体は正直だ。」
彼の親指が私のこめかみをそっと撫でる。
規則正しくなっていく呼吸。
自分の胸へ触れる吐息。
そのどれもが、「ようやく眠りにたどり着いた」と静かに教えてくれる。
山鳥毛はほんの少しだけ腕の位置を直した。
眠った私が窮屈にならないように。
それでいて、安心して寄りかかっていられるように。
「……今日は私が先に眠るかと思っていたのだが。」
小さく独り言をこぼす。
「君の方が一歩早かったな。」
月明かりが障子を淡く照らし、部屋には二人分の穏やかな呼吸だけが満ちていく。
山鳥毛はその寝顔をしばらく見つめていた。
眠ってしまえば、いつもより少し幼く見える。
さっきまで「もっと話したい」と言っていた唇も、今は力を抜いて穏やかに閉じられている。
「……おやすみ、小鳥。」
起こさないよう、額へかかる前髪をそっと払い、その髪に軽く口づけを落とす。
「いい夢を見るといい。」
抱きしめる腕を緩めることはない。
この腕の中なら、夜中に目を覚ましても迷わずまた眠れるように。
朝になって目を開けば、最初に映るのが安心できる景色であるように。
やがて山鳥毛も瞼を閉じる。
胸へ寄り添う小さな温もりと、穏やかな寝息を感じながら、その意識も静かに夜の底へと溶けていった。