山鳥毛は窓辺の椅子に腰掛け、手にしていた書類から顔を上げた。こちらへ向けられた視線が、私の姿を認めた途端わずかに柔らかくなる。口元にも待っていたとでも言うような淡い笑みが浮かんだ。
「おかえり、小鳥」
「ただいま。ねえ、ちょもも一緒に見て」
私は鞄からスマートフォンを取り出し、軽く掲げてみせた。山鳥毛は画面へ目をやったあと、私の顔へ視線を戻す。からかうように片眉を上げながらも書類を脇へ置き、椅子からゆっくり立ち上がった。
「小鳥は、何を私に見せたいのかな?」
「いいから一緒に見てってば!」
「仰せのままに」
山鳥毛は喉の奥で小さく笑い、私の手元を覗き込むように身を屈めた。私はその視線から逃げるように先にベッドへ腰を下ろし、隣の空いた場所をぽんぽんと叩く。彼は一度だけ私の仕草を見下ろしてから、素直にその隣へ移動した。
肩が触れそうな距離に山鳥毛が腰掛けると、彼の体温がじんわりと伝わってくる。横顔には余裕のある笑みが浮かんでいるけれど、私が何を探し始めるのか、興味深そうに画面を見つめていた。
「いざ温泉リベンジ!」
山鳥毛が僅かに目を細めた。口元がゆっくりと持ち上がり、面白がっているのがはっきり分かる。
「昨日の続きをするのか」
「する。明日こそちゃんと休みだからね」
胸を張って言うと、山鳥毛は私の顔を横目で見た。褒める代わりに、指先で私の肩を軽くつつく。
「それは結構」
山鳥毛は満足そうに頷き、私の手元へ顔を寄せた。彼の髪が頬に触れそうになり、私は少しだけ身を引きながら検索画面を開く。
「では、今度こそ良い宿を見つけるといい」
「うん!」
昨日の反省を活かして、まずは条件を整理する。明日から一泊二日。手頃な価格帯だと嬉しい。駅やバス停から遠すぎない立地、できれば露天風呂があるところ。料理も美味しいと尚良い。そして、せっかくなら少し古めかしくて、日常から離れた感じのする宿がいい。
「……条件、多いな?」
私が画面を見つめたまま呟くと、山鳥毛は隣から覗き込み、表示された条件をひとつずつ目で追った。最後まで確認してから、片眉を上げる。
「昨日、自分で増やしていただろう」
「だって欲が出ちゃったんだもん」
「欲深い小鳥だな」
「ちょもだって止めなかったじゃん」
私は頬を膨らませて彼を見上げる。山鳥毛はそんな私の表情を見て、目元をわずかに緩めた。
「止めたところで君は聞かなかっただろう?」
「……それはそう」
返す言葉もない。それでも今度こそ、と検索を始める。
ひとつ目。雰囲気は理想的で、庭も素敵。露天風呂もある。料理も美味しそう。
「ここいい!」
見つけた瞬間、私は身を乗り出した。勢いで肩が山鳥毛の腕へ触れ、彼の身体がわずかに揺れる。私は気にする余裕もなく、画面を彼の目の前へ差し出した。
「見て、すごくよくない?」
山鳥毛は私の肩越しに内容を確認し、写真を眺めながら静かに頷く。
「なかなか良さそうだな」
「でしょ?」
意気揚々と空室を確認する。――満室。
私の指が止まる。画面を見つめたまま固まった私の隣で、山鳥毛も表示を確認し、何も言わずに目を伏せた。けれど、その口元はわずかに震えている。
気を取り直して次を探す。
「ここはどうかな?」
満室。次。
「じゃあ、こっちは!」
満室。
「…………」
さらに次。――満室。
「ぬわあああ……っ!! なんで!?」
思わずスマートフォンを握り締める。画面を睨みつける私の横で、山鳥毛は肩を揺らしながらも、どうにか笑いを堪えていた。片手で口元を覆っているけれど、目尻には明らかに楽しそうな光が浮かんでいる。
「昨日から何回満室って言われてると思う!? ど平日だし、もう九月だよ!?」
「さてな」
「温泉宿ってそんなに人気なの!?」
「良い宿なら、それなりにな」
「うぅ……」
一室くらい空いててもいいではないか。私は両手で頭を抱え、ベッドの上で身を縮めた。髪が頬へ落ち、視界が暗くなる。山鳥毛はそんな私を見下ろし、しばらく黙っていたが、やがて慰めるように背中へ手を置いた。
大きな掌が、肩甲骨のあたりをゆっくりと撫でる。一定の穏やかな動きに、張り詰めていた身体から少しずつ力が抜けていった。
「まだ探し始めたばかりだろう」
「もう心が折れそう……」
私は顔だけを上げ、眉を下げて彼を見た。山鳥毛は私の表情を覗き込み、困ったように、それでいてどこか楽しそうに目を細める。
「大袈裟だな」
気を取り直して、今度は条件を少し緩める。
アクセスの良さを諦め、予算を少し上げる。それでもダメなら次は露天風呂を諦め、料理も口コミが悪くなければいいとまで妥協をしていく。
そうして探しているうちに、今度は別の問題が発生した。
「……なんか、どんどん普通のホテルになってきた。っていうかこれビジホ……」
画面をスクロールしながら私は眉を下げた。山鳥毛は隣から画面を覗き込み、表示された無機質な客室写真を見て淡々と頷く。
「そうだな」
「温泉旅行感がない」
「そうだな」
「これなら家のお風呂でもいい気がする」
「それは極端だな」
「だって温泉水の大浴場じゃなくて温泉に入りたいの……」
すっかり意気消沈して、スマートフォンを胸の上に置く。身体から力が抜け、私はそのままベッドへ倒れ込んだ。枕に沈んだ頬が押し潰され、視界の端で山鳥毛の姿がゆっくりと傾く。施設がない訳では無いのに、やはり事前に計画して予約をとらないと温泉宿に泊まるのは難しいのだろうか。
「……全然ない」
「ないな」
「どこもいっぱい」
「そうだな」
「明日から休みなのに」
「そうだな」
「せっかくなら旅行したいのに」
「ふむ……」
それまで相槌を打っていた山鳥毛が、ふとこちらへ顔を向けた。私はベッドの上でごろりと横になり、枕へ頬を押し付ける。視界の端にこちらを見下ろす穏やかな表情が映った。
「……温泉行きたい」
「そうか」
「昨日からずっと温泉のこと考えてたのに」
「そうだったな」
「夢にも出てきた」
「それは良い夢だったか?」
「覚えてない」
「そうか」
山鳥毛は小さく息を吐くと、ベッドの縁へ手を置いた。指先が私の髪に触れ、乱れた毛先をゆっくりと整えていく。髪を梳くたび、指先が耳の近くをかすめ、くすぐったさに私はわずかに目を細めた。
「小鳥」
「んー……?」
「ひとつ、聞こう」
「なに?」
「君は、何故そこまでして人の世の温泉宿を探している?」
「……え?」
意味が分からず、私は寝転がったまま山鳥毛を見上げる。山鳥毛は目元をわずかに緩めながら私の頬に触れた。
「温泉に入りたい。日常から離れたい。静かな場所でゆっくりしたい。そういうことだろう?」
「うん」
「ならば、何も人の世の宿に拘る必要はない」
「…………?」
私は瞬きをする。
「ちょも、何言ってるの?」
「君が望むものなら、私には心当たりがある」
「……え?」
「とっておきだ」
その言葉に思わず身体を起こした。勢いで髪が肩から滑り落ち、山鳥毛の腕に触れる。彼は私の反応を楽しむように目を細めた。
「とっておき……?」
「ああ」
「そんなのあるの?」
「あるとも」
「昨日から知ってた?」
「知っていた」
「…………」
私はじとっと山鳥毛を見る。眉を寄せ、唇を尖らせて睨みつけると、彼は悪びれる様子もなく、むしろ愉快そうに口元を緩めていた。
「じゃあなんで昨日教えてくれなかったの?」
「君が自分で探したいと言っていたからな」
「言ってない」
「『選択肢を絞りたい』とは言っていただろう」
「……」
確かに言った。
「私が最初から提示してしまえば、それもまた選択肢を増やすことになる」
「……屁理屈」
山鳥毛は喉の奥で低く笑った。からかわれているのに、その表情があまりにも楽しそうで、私はそれ以上強く責められなくなる。代わりに彼の腕を指先で軽くつついた。
「そうかもしれんな」
そう言って、山鳥毛は私の手からスマートフォンを取り上げる。抵抗する間もなく、彼の大きな手が私の指ごと包み込んだ。画面を伏せるように持った彼の指が、私の指先を一度だけ撫でる。
「だから今度は、私に任せなさい」
「……本当に温泉宿に心当たりがあるの?」
「ある」
「満室って落ちはない? 泊まれる?」
「泊まれる」
「明日だよ?」
「問題ない」
「予約はどうとるの?」
「必要ない」
「……どういう宿?」
山鳥毛は少しだけ考えるように目を伏せた。いつもの余裕のある表情から、ほんの一瞬だけ真剣さが覗く。私はその変化を見逃さず、自然と彼の袖をつまんだ。
「人の世のものが営む宿ではある。ただし、人の世と人ならざるモノとの境に近い場所でな」
「神域的な?」
「ああ」
「……それ、大丈夫なところ?」
不安になって身を寄せると、山鳥毛は私の肩へ手を置いた。落ち着かせるように、親指がゆっくりと肩を撫でる。彼の手の重みと温かさに、強張っていた肩が少しずつ下がっていく。
「私が大丈夫でない場所へ君を連れて行くと思うか?」
「思わないけど……」
「ならば心配する必要はない」
そう言われると、急に胸が高鳴ってくる。切望している温泉宿、それも隠れ家的な普通は行けないようなところだ。
「ただし」
山鳥毛が人差し指を一本立てる。表情から笑みが消え、静かな声音が部屋の中へ落ちた。
「幾つか約束をしてもらう」
「……約束?」
「そうだ」
「やっぱり危ないとこなの?」
「危険というほどではない。だが、その場所ではその場所なりの決まりがある」
「……例えば?」
「境界を勝手に越えない。呼ばれても返事をしない。宿の者から渡されたものは、私の確認なしに口にしない」
「…………」
絶妙に危険寄りなのではなかろうかと思わず黙り込む。山鳥毛はそんな私の顔を覗き込んだ。冗談ではないのだと分かる、静かな目をしている。私は無意識に彼の袖を握る指へ力を込めた。
「そして、私から離れないこと」
「最後のはむしろ嬉しいけど……」
思わず笑うと、山鳥毛も口元を緩めた。張り詰めていた空気がほどけ、彼の手が私の肩から離れる。
「ならば問題ないな」
「……本当に?」
「ああ」
山鳥毛の手が私の頭へ伸びる。
大きな掌が髪をゆっくり撫でていく。指が髪の間を梳くたび、胸の奥にあった不安が少しずつ溶けていった。私はその手の動きに身を任せ、目を細めながら彼の肩へ寄りかかる。
「君が望んでいたものは、ちゃんと用意できる」
「自信ありげじゃん」
「もちろん」
「古くて雰囲気のいい宿?」
「君が気に入ると思うよ」
「……料理は?」
「それも心配はいらない」
ひとつひとつ答えてくれるたびに、昨日から胸の中で膨らみ続けていた「温泉に行きたい」という気持ちが、少しずつ形になっていく。
「……ちょも」
「何だ?」
「なんか、ずるくない?」
「何がだ?」
「私が一生懸命探して、全部満室でしょんぼりしてるところに、そんなの出してくるの」
「楽しそうに選んでいるのも、一喜一憂している姿も愛らしかったな」
「なにそれ、ちょもの意地悪」
悔しくて山鳥毛の肩へ額を押し付ける。彼の身体はびくともせず、私の背中へ腕が回された。背中を包む腕に引き寄せられ、胸元が彼の身体へ触れる。
「もっと早く教えてくれてもよかったのに」
「それでは、とっておきにならんだろう?」
「……そういうところずるいよね」
「何がだ?」
「大人の余裕、みたいな?」
私が呟くと山鳥毛は低く笑った。胸に押し付けた額へ、彼の笑い声が振動となって伝わってくる。私は少しだけ顔を上げ恨めしそうに彼を見た。
「さて、小鳥」
「ん?」
「明日は忙しいぞ」
「遠いの?」
「そうでもないが、用意が必要だろう?」
「本当に行くの?」
「おや、行きたくないのか?」
「行きたい。すっごく楽しみ」
顔を上げると、すぐ近くに山鳥毛の顔があった。彼は私の表情を見つめ、満足そうに目を細める。私の頬へ伸びた指先が嬉しさで緩んだ口元の近くをそっと撫でた。
今度こそ、私は思い切り笑った。どうやら夢の続きは、明日から始まるらしい。