歌仙の声に、びくりと肩が揺れた。
顔を上げれば、紫の髪の青年が呆れ半分、心配半分の顔でこちらを見ている。机の上には終わっていない書類の山。硯の墨も少し乾き始めていた。
「……ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「ちょっと≠ナ済むかな。朝から三回、同じ箇所を書き直している」
痛いところを突かれて、私はぐっと言葉に詰まる。
だって仕方ない。頭のどこかがずっと空っぽなのだ。
昨日届いた手紙。綴られていたのは修行先で何を思い過ごしているか。これまで修行に出た男士達と同様に何を思い過ごしているのかという内容。
――けれど、これまでの男士たちと明確に違うのは私たちの関係。
私への私信は、一文字もなかった。
たったそれだけのことで。たったそれだけのことなのに、胸の奥に小さな棘が刺さったまま抜けない。
山鳥毛は優しい。誰より甘やかしてくれる。私を大切にしてくれていることも知っている。
それでも。
何もない≠ニいう事実だけが、じわじわと心を削っていた。
「……主」
歌仙がため息をひとつ零し、机の端を指で軽く叩く。
「そんな顔をしていると、帰ってきた彼が困るんじゃないかい」
「……困らせたくて困ってるわけじゃないもん……」
思わず唇が尖る。
歌仙はやれやれと言いたげに肩を竦めた。
「なら、せめて仕事くらい終わらせなさい。君が沈んでいると、本丸全体の空気まで湿っぽくなる」
「う……」
反論できない。
実際、今日の本丸は妙に静かだった。 廊下を通る短刀達もどこかそっとしていて、まるで腫れ物扱いである。
私は観念して筆を持ち直す。
けれど紙に向かった途端、また頭に浮かぶのは煤色の髪と赤い瞳だった。
修行先で何をしているのだろう。ちゃんと眠れているのだろうか。怪我はしていないだろうか。
……それとも。
私のことなんて考える余裕もないほど、何か大事なものと向き合っているのだろうか。
胸がきゅ、と縮む。
墨を含ませすぎた筆先が滲んで、小さな黒い染みを作った。
「ほらまた」
「……っ、もうやだ……」
情けない声が漏れる。
すると歌仙は少し黙ったあと、ふっと苦笑した。
「恋というのは風流だが、時に厄介だね」
「またそんなこと言う……」
「僕は事実を述べているだけさ。……まあ、彼も君を放っておく趣味はないだろう」
そう言いながら、新しい紙を机の横へ置いてくれる。
「ほら、書き直し。今度は丁寧に」
「……はぁい……」
小さく返事をして筆を取り直す。
けれど次の瞬間、ふと襟元に残る感触を思い出してしまった。
出立の前夜。強く抱き締められたこと。耳元へ落ちた低い声。待っていてくれ≠ニ囁かれた熱。
思い出した途端、胸が苦しくなる。
会いたい。
ぎゅっと抱き締めて欲しい。大丈夫だと、あの低い声で言って欲しい。
私は誤魔化すように俯き、書類へ視線を落とした。
その時だった。
障子の向こうで、ぱたぱたと慌ただしい足音が止まる。
「主さまー! お手紙です!」
こんのすけの明るい声に、私の肩がぴくりと強張った。
……来てしまった。
三通目。
胸の奥がひどくざわつく。読みたいはずなのに、読みたくない。
また私信がなかったらどうしよう。
そんなことで傷つくなんて馬鹿みたいなのに、もう昨日あれだけ落ち込んだせいで、手紙そのものが怖くなっていた。
「主?」
部屋の入口でこんのすけが首を傾げている気配がする。
私は返事をしようとして、少しだけ詰まった。
「……そこ、置いといて」
自分でも驚くほど弱い声だった。
執務室の空気が一瞬止まる。歌仙がちら、とこちらを見る視線が痛い。
「主さま、読まれないのですか?」
「……あとで読む」
嘘だ。あとでも読みたくない。
読みたくないのに、気になって仕方ない。期待して、勝手に傷ついて、また落ち込むくらいなら、いっそ開かなければいい。
そんな子どもみたいな意地が胸の奥で膨れていく。
こんのすけは困ったように耳を伏せたが、やがて大人しく机の端へ文を置いた。
「では、失礼します」
襖が閉まる。
静かになった部屋の中で、やけに白い封が目立った。
山鳥毛の字だ。見慣れた筆跡。昨夜何度も撫でたのと同じもの。それだけで息が詰まりそうになる。
けれど、手は伸びない。
「……開けないのかい?」
歌仙が静かに問う。
私は視線を逸らしたまま、小さく唇を噛んだ。
「……怖い」
ぽつりと零れた本音は、自分でも情けないほど幼かった。
「また、凹むのは……嫌だもの……」
その瞬間、歌仙の表情が少しだけ和らぐ。
呆れではなく、理解した顔だった。
「なるほど。拗ねていたのか」
「拗ねてない……」
「いや、拗ねているよ」
即答されてしまう。
私はますますむくれて、机に突っ伏した。
「だって……っ、頑張っているのは分かってるけど……っ」
胸の奥に溜まっていたものが、じわじわ滲み出す。
「私のことは、何も……ないんだもん……」
声が掠れる。
会いたくて仕方ない。恋しくて、寂しくて、苦しくて。
たった一言でも欲しかった。
それだけでよかったのに。
机に伏せたまま震える私を見て、歌仙は深いため息を吐いた。
「……まったく。山鳥毛も、随分罪作りだね」
そう言って、彼は机の端の文をつまみ上げる。
「読む気がないなら、僕が預かろうか?」
「だめ!」
反射的に顔を上げてしまった。
歌仙の目が細められる。
「……ほら。読みたいんじゃないか」
「…………」
図星だった。
悔しくて黙り込む私に、歌仙は苦笑する。
「素直じゃないのは、誰に似たのやら」
そうして彼は、封書を私の手元へそっと戻した。
白い紙の重みが、やけに熱い。まるで、遠くにいる恋人の体温みたいに。
観念して封を切った瞬間、紙からふわりと墨の匂いが立った。震える指先で便箋を広げる。
書かれていたのは、これまでと同じように修行先で感じたこと気付いたことそして、それを越えてなお掴み取った答え。山鳥毛らしい、静かで真っ直ぐな文だった。
けれど。
最後の一文を読んだ瞬間。呼吸が止まる。
――帰る=B
たったそれだけ。
けれど、その文字は今までのどんな言葉よりも深く胸へ落ちた。
帰ってくる。
私のところへ。この本丸へ。私を置いて行った人が、ちゃんと戻ってくる。
視界が滲む。
「……帰ってくる……」
掠れた声が零れた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが一気に切れた。
私は勢いよく立ち上がる。
「主!?」
歌仙の声も聞かず、文を握ったまま廊下へ飛び出した。
板張りの廊下を駆ける。袴の裾が絡まりそうになっても構わず走る。
会いたい。
今すぐ。一秒でも早く。
鳩舎へ向かう途中、すれ違った短刀達が驚いた顔をしていたが、もうそんなこと気にしていられなかった。息を切らしながら戸を開け放つ。
羽の匂い。ぱたぱたと騒ぐ鳩達。
「呼び戻し鳩……っ」
急いで籠を探す私の背後で、低く、少し呆れた声がした。
「……そんなに急がなくとも、彼は逃げないと思うけれどね」
追いかけてきた歌仙だった。
私は振り返りもせず、必死に鳩を抱き上げる。
「だって……っ、だって帰ってくるって……!」
喉が熱い。涙まで滲んでくる。
三日間。たった三日なのに、永遠みたいに長かった。
私信がないと拗ねて。不安になって。置いて行かれた気がして。
でも違った。
山鳥毛は帰ってくる。ちゃんと、帰る≠ニ言った。
その事実だけで胸がいっぱいになる。
鳩の脚へ文を括りつけようとして、焦るあまり指が上手く動かない。
「……っ、うぅ……」
「落ち着きなさい」
歌仙が半ば呆れながら手伝ってくれる。
「帰ってくると分かった途端これか。君は本当に……」
「だって会いたいんだもん……!」
もう少しだって待てないのだ。
半泣きで言い返すと、歌仙は一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。
「……知っているよ」
結び終えた鳩を、私は両手でそっと持ち上げる。
夕暮れの光が白い羽を染めていた。
「お願い……」
早く。早く連れて帰って。
祈るような気持ちで空へ放つと、鳩は大きく羽ばたき、茜色の空へ吸い込まれていく。
私はその姿が見えなくなるまで、ずっと見上げ続けていた。