執務机の向こうから差し出された書類を受け取る気にもなれず、私は視線だけを逸らした。障子の外では夜風に竹が鳴っている。静かな本丸だ。静かなはずなのに、胸の奥ばかりがざわついて落ち着かない。
帰ってきた山鳥毛は、以前よりずっと鋭かった。立っているだけで空気を制し、声を出せば周囲が従う。修行前から強かったはずなのに、今はもう強い≠ナは足りない。刀としての格が、覚悟が、あまりに完成されてしまった。
「主、こちらに印を」「主、今日は冷える。羽織を」「主、報告が」云々。
優しくないわけではない。むしろ前よりずっと気を配っている。なのにその呼び方だけが、私の胸をじわじわと削っていく。
主。主。主。
まるで距離を取られた心地だ。
「……そんなに、主≠チて呼ばなくてもいいじゃない」
ぽつりと落ちた声に、山鳥毛の動きが止まった。
「前は……もっと、違ったのに」
硯のそばに置かれた彼の指先が、わずかに強張る。
「……君は、以前の私の方が良かったか」
低い声だった。
責めるでもなく、ただ静かに問い返される。
私はうまく答えられない。強くなった彼を否定したいわけじゃない。修行が彼に必要だったことも分かっている。誇らしいとも思う。思っているのに。
でも。
「……小鳥って、呼んでくれなくなった」
言ってしまった瞬間、喉が熱くなった。子供みたいだ。そんなことで傷ついていたのかと、自分でも呆れる。けれど山鳥毛は笑わなかった。
沈黙が落ちる。
やがて彼はゆっくり席を立つと、こちらへ歩いてきた。以前より重くなった足音。戦場を幾つも越えてきた男の歩き方。逃げるように俯こうとした私の顎を、長い指がそっと持ち上げる。
「……君は、本当に」
掠れた吐息が落ちた。
赤い瞳が近い。以前と同じ色のはずなのに、今は炎を呑んだように深く見える。
「そんなことで、このところ寂しそうな顔をしていたのか」
「そんなことじゃ……」
「そうだな、些事ではない」
指先が頬を撫でる。
熱い。大きい。逃げ場をなくすように輪郭を包まれる。
「修行に出てから、私は少し考えた」
山鳥毛の声は低く、静かだった。
「君を愛称で囲い込むように呼ぶことを、甘えすぎではないかと。……主である君を、私情で曇らせてはならないとも思った」
「そんなの……」
苦しくなる。
「私は、別に……主としてだけ見られたいわけじゃない……」
言葉の終わりが震えた。
山鳥毛の目が細められる。
その瞬間、彼の額が私のそれに触れた。
「……参ったな」
困ったように笑う声が、耳元近くで低く溶ける。
「私は君を強く支えるつもりでいたのだが。どうやら、小鳥を不安にさせていたらしい」
その呼び名に、胸がきゅうと縮む。
懐かしい。
たった数日だったはずなのに、ずっと失くしていたものみたいに。
「……ちょも……」
掠れた声で呼ぶと、抱き寄せられる力がわずかに強まった。以前より逞しくなった腕。包み込むというより、完全に捕まえられている感覚に近い。胸板に頬を押しつけると、鼓動が響く。どく、どく、と落ち着いた音。
その奥に、確かに私の知る熱がある。
「小鳥」
今度ははっきりと呼ばれた。
耳のすぐそば。蕩けるような低音が、肌を撫でる。
「君が好きだと言うなら、私は何度でもそう呼ぼう」
首筋に唇が触れるか触れないかの距離で息が漏れる。
「ただし……以前と同じではいられない」
背に回された手が、ゆっくり撫で上がる。
「修行を終えた私は、以前よりずっと欲深い」
ぞくりと肩が震えた。
「主として敬い、恋人として甘やかし、私だけの小鳥として抱き込む。……その全てを諦める気がなくなったのでね」
逃がすつもりのない声音だった。そのまま抱き締められる。深く、強く、囲うみたいに。
「だから君も、もう少し我儘を言うといい」
耳朶に触れる熱い囁き。
「小鳥、と呼んで欲しいなら。そうして欲しいと、私に命じればいい」
「命じる……。命じないと、もうこれからは小鳥って呼んでくれないの?」
山鳥毛の私の認識は守ってあげなきゃいけない相手≠ゥら共に戦う存在=A支えるに足る主人≠ノなったのだろう。能力が認められたのは喜ぶべきことなのだと思う。思うけれど……
「小鳥≠チて呼んでくれないなら……私もちょも≠チて呼ぶの辞める」
こんなのただ拗ねで、八つ当たりで、意趣返しでしかないのは分かっているけれど言わずにはいられなかった。
空気が止まった。
抱き締めていた山鳥毛の腕が、ぴくりと反応した。
ほんの一瞬。けれど彼ほどの男が見せる沈黙としては、あまりに分かりやすかった。
「……ほう」
低い声が落ちる。
私は唇を尖らせたまま視線を逸らす。
自分でも面倒なことを言っている自覚はある。子供みたいだとも思う。けれど止められなかった。
だって寂しかった。
主≠ニ呼ばれるたび、少しずつ遠くへ行かれている気がして。
以前は、あんなにも甘かったのに。
「主として扱わなきゃって、そう思うなら……別に、私だって」
言葉が最後まで続かなかった。
ぐい、と顎を持ち上げられたからだ。
「小鳥」
低く、鋭い。
反射的に肩が震える。
山鳥毛の赤い瞳が、真正面から私を射抜いていた。
戦場で敵を黙らせる時の顔だ。なのにそこに宿る熱は、私にだけ向けられるもの。
「今、自分が何を言ったか理解しているか」
「……してる」
「なら、随分と思い切った脅しだな」
脅し。
その言葉に少しむっとして睨み返す。
「脅してるんじゃないもん」
「では拗ねているのか」
山鳥毛がふ、と息を漏らす。
呆れたようでいて、どこか甘やかな笑いだった。
次の瞬間、視界が揺れる。気づけば腰を抱え上げられていた。
「きゃっ……」
そのまま机の端へ座らされる。逃げられない高さ。逃がす気のない距離。長い脚が両側を塞ぎ、山鳥毛がゆっくり顔を寄せてくる。
「君は本当に、自分がどれほど可愛いことをしているのか分かっていないな」
耳元で囁かれ、熱が駆ける。
「ちょも≠ニ呼ぶのをやめる、か」
わざとゆっくり繰り返される。
「私がどれほどその呼び名を気に入っているか、知っていて言っているのだろう?」
「だって……」
「君しか呼ばない名だ」
唇がこめかみ近くに触れた。
柔らかい感触。
けれどそこに滲む執着は、以前よりずっと濃い。
「私だけの呼び名だ。君が私を特別に呼ぶ声を、私は大事にしている」
低く落ちる声音に胸が締めつけられる。
「なのに取り上げると?」
「……だって、山鳥毛ばっかりずるい」
思わず本音がこぼれた。
「私は……小鳥って呼ばれるの、好きなのに……」
山鳥毛の目が、ふっと細められる。
「……なるほど」
大きな手が頬を包む。親指が唇をなぞり、じわりと熱が広がった。
「では訂正しよう」
吐息が近い。
「君が不安になるくらいなら、私は何度でも呼ぶ」
額が触れる。
「小鳥」
優しい。
甘い。
それなのに抗えない力強さがある。
「我が主であり、私の恋人であり、守りたい小鳥だ」
耳朶に落ちる低音に、身体が熱を持っていく。
「どれか一つに決める必要などないだろう?」
山鳥毛の指が私の後ろ髪を梳く。
するり、と丁寧に。
「……君は時折、私を買い被りすぎる」
唇の端に軽い口づけが落ちた。
「私はそんなに器用ではない。君を主として敬えば恋情が消えるほど、綺麗に割り切れもしないのでね」
次は頬。
そして目尻。
少しずつ、逃げ道を塞ぐみたいに触れてくる。
「だから小鳥」
最後に鼻先が擦れ合うほど近づいて。
「ちょも≠取り上げるのは勘弁してくれ。……君に呼ばれるたび嬉しいんだ」===
ここで素直になれる私ならどれほど良かったか。
「主としての能力を認めてくれるのは嬉しいの。……でも……山鳥毛には……」
山鳥毛にだけは私を守る対象として見てて欲しいと思ってしまう。侮ってるんでもいい、頑張りすぎなくていいと包んでくれる恋人の距離感が好きだった。
……でも、彼はもう選んでしまった。恋人でありながら、私を主として尊重することを。主である私を支えていくことを。だから言葉を飲み込んだ。
「……山鳥毛が……小鳥≠チて呼んでくれる時間だけ、私もちょも≠チて呼ぶことにする」
山鳥毛の瞳が、ゆっくり瞬いた。その提案はきっと、子供じみていて。拗ねていて。面倒で、回りくどい。
なのに彼は笑わなかった。むしろ痛みを飲み込むように、静かに息を吐いた。
「……随分と厳しい条件を出されたものだ」
低い声が、胸の奥へ落ちてくる。
私は視線を逸らしたまま唇を噛む。
本当はこんな駆け引きみたいなことしたくない。困らせたいわけじゃない。
ただ、怖かった。
山鳥毛がどんどん完成されていく。強く、眩しく、頼もしく。その隣に立つ主≠ニして見られるたび、自分まで強くあらねばならない気がしてしまう。
私はそんなに強くないのに。
「……君は」
山鳥毛の手が頬へ伸びる。大きな掌。熱い指。逃げるように俯いた顔を、優しく持ち上げられる。
「私が君をどう見ているか、本当に分からなくなったのか?」
赤い瞳が近い。
責める色ではない。
むしろ、困っていた。
「修行へ出たからといって、君を突然歴戦の武人として扱い始めた覚えはないのだが」
「でも……」
「主として尊重している。頼もしいとも思っている。共に歩む覚悟も決めた」
否定されない。だからこそ胸が痛む。
山鳥毛は、ゆっくり額を寄せた。
「だがそれと同時に」
低い声。
「夜更けに寂しくなれば私を探して歩き回り、頭痛がすれば無理を隠して笑い、拗ねればこんな風に意地を張る君を――放っておけると思うか?」
息が止まる。
「君は私にとって、守るべき小鳥のままだ」
指先が髪を梳く。あやすみたいに、ゆっくりと。
「ただ以前より、君を弱いから守る≠ニは思わなくなった」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ瞬間。
山鳥毛は続ける。
「強くあろうとして、それでも傷つくことを知っているから守りたいと思っている」
静かな声音だった。
「戦えないからではない。頼りないからでもない。君が君だから、私は包み込みたい」
そのまま肩口へ顔を埋められる。
長身の彼が甘えるように体重を預けてきて、思わず息を呑んだ。
「……小鳥」
耳元で呼ばれる。
蕩けるように低く。
修行前と変わらない、恋人の声。
「君は勘違いしている」
腕が背へ回る。逃がさないくせに、壊れ物みたいに丁寧だ。
「私は君を主として敬いながらも、恋人として甘やかしたいと思っている。そして頼もしい主君は、私の前では拗ねて、小鳥≠ニ呼べと言う。……そんな姿を見せられて、可愛がらずにいられるほど私はできた男ではないよ」
く、と喉奥で笑う気配。鼻先が触れるほど近づいて。
「だから、その条件は受け入れよう」
唇がすぐそばで止まる。
「仕事中でも、ふと君が不安そうな顔をしたなら呼ぼう。小鳥、と」
熱い吐息が唇を撫でた。
「その代わり、呼ぶ時は覚悟するように」
目を細めた山鳥毛が、少し意地悪く囁く。
「……覚悟?」
「ああ、覚悟だ」
山鳥毛が低く笑う。喉の奥で転がすような声だった。
そのまま私の顎を指先でそっと持ち上げ、赤い瞳が覗き込んでくる。逃げ道を残しているようで、実際にはひとつも残していない距離。
「君は随分無防備にちょも≠ニ呼ぶからな」
唇の端がゆるく上がる。
「私はそのたび、内心かなり満たされている」
「そ、そんな大袈裟な……」
「大袈裟ではないとも」
きっぱり返されてしまう。
山鳥毛の親指が、私の下唇を軽く撫でた。それだけで熱がじわりと広がっていく。
「特別な名で呼ばれるなど、存外、独占欲を刺激されるものだぞ」
低く囁かれ、胸が跳ねる。
「しかも君は、甘える時ほどその呼び方になる」
慰めて欲しい時。触れて欲しい時。好きだと伝えたい時。無意識に山鳥毛≠ナはなく、ちょも≠ニ呼んでしまう。彼はそれを全部覚えている。
山鳥毛の額がこつりと触れる。
「君がちょも≠ニ呼ぶたび、私は君を抱き締めたくなるし、甘やかしたくなるし――」
一瞬、言葉が途切れる。
その沈黙が妙に熱っぽかった。
「……離したくなくなる」
掠れた声音。背中へ回された腕に力がこもる。じわじわと囲い込まれて、体温が混ざる。
「修行前より欲深いと言っただろう?」
耳元に落ちる吐息が熱い。
「以前の私は、どこか君を壊さぬよう距離を測っていた」
髪へ唇が触れる。
「だが今は違う。君が私を求めてくれるなら、以前よりずっと深く応えたいと思ってしまう」
指先が背をゆっくり撫で下ろす。慰めるようでいて、熱を思い出させる触れ方。
「だから小鳥」
視線が絡む。
「君がちょも≠ニ呼ぶなら、その責任は取ってもらうぞ」
そのまま、ふ、と笑って。
「例えば……今みたいに、私にこんな顔をさせた責任をな」
「責任だなんて……その瞳の炎で私のこと焼くつもりなの?」
真っ直ぐ向けられる甘く熱っぽい眼差し。私しか知らない私を欲いと思っている時の目。
「……焼いてしまうかもしれんな」
山鳥毛が低く笑う。むしろ私の言葉で開き直ったみたいに、熱を隠さなくなった。
赤い瞳が近い。
戦場で燃える炎みたいな色なのに、今そこに映っているのは殺気ではなく、ひどく甘い執着だった。
「ダメと言われてやめられるなら、私はここまで君に夢中になっていない」
指先が頬を撫でる。熱を確かめるようにゆっくりと。
「君は自分で思っている以上に無防備だぞ、小鳥」
「……山鳥毛がそういう目で見るからでしょ……」
「ほう。私のせいか」
「そうだよ……」
拗ねた声を漏らすと、山鳥毛の口元が愉快そうに歪む。
そのまま鼻先が触れ合うほど近づいてきた。
「なら責任は取らねばならないな」
低い囁き。
「君をそんな顔にしたのが私なら、蕩けるまで甘やかす義務がある」
心臓が跳ねる。
大きな手が腰を抱き寄せる。逃げられないように、それでいて壊れ物を扱うみたいに丁寧に。
山鳥毛の睫毛が伏せられ、唇が触れそうで触れない距離を漂う。まるで焦らすみたいに。
「主としての君を敬いたい。頼もしいと思っている。……それは本当だ」
耳元へ落ちる声が、じわりと熱い。
「なのに君が少し寂しそうにするだけで、抱き締めて隠してしまいたくなる。強くなくていい。頑張りすぎなくていい。私の腕の中では、何も背負わなくていいと――そう言いたくなる」
その言葉こそ、私が欲しかったものだった。
山鳥毛の額が、こつりと私に寄りかかる。
「だからそんな顔をするな、小鳥」
吐息が唇を撫でる。
「君に焼かれているのは、どうやら私の方らしい」