脱落者は望まない
もうずっと、座ったままの時を過ごしていた。
数週間か数ヶ月か、数年だろうか。10年は経っていないと思うが、どうだろう。代わり映えない毎日。不味い飯を喰らい、水を飲み、俺は生きながらえていた。
何故俺が生きているのか。それはきっと諦めてしまったからだ。あの輝かしい日常を諦めた。俺にとっては日常ではなく超常で、優しく暖かいあの日々を俺は諦めた。後悔はなかった。故に生きながらえている。夢を諦めたからこそ、俺は蜂の巣にならずにいる。
諦めたから、諦めていたから恨まなかった。閉じ込められても、満足に身体を動かせなくても。恨みはない。
カツカツと急く様な足音が聞こえた。
日常に訪れた非常には興味がなかった。どうでもよかった。なのに足音は俺の前で唐突に、本人でさえも予期していなかったかの様に、歪な形で止まったのだ。
「まさか、なんで…」
聞き覚えのある様な、ない様な低い男の声だった。
「なんで、お前がここに……」
震えた声の男からすれば予期せぬ再会。俺からすれば、想定の範囲内ではあった再会。だが、よもや覚えていようとは思わなんだ。俺だって、ついさっきまで気付かぬ内に忘れていた声。懐かしい、恩師の声。
「まさか、後悔するなって、こういう事だったのか?」
ああ、そんな事を言った。学校生活最後の日。あの暑い夏の始まりに。
「答えろ、田中。お前は…」
すがる様な声は、とても同じ音とは言えないくらいに絡まった旋律を奏でていた。
…あの日、俺はきっと死んでいた。
「答えろ、田中。お前はヒーローとはどんな存在だと思う。」
静かに俺を見おろす担任に、俺なりの答えを返す。
「ヒーローとは、一般市民が安心して暮らせる様に尽力する者です。また、犯罪者を捕縛し警察に引き渡し然るべき罰を受けさせる者でもあると考えます。」
「市民の為、犯罪者の捕縛の為ならお前は大怪我を負っても良いのか?」
俺は状況を振り返った。
現在、俺は病院にいる。突然街中に現れた敵を捕縛しようと、相手の個性もわからない内に飛び出し、結果として敵は捕縛したが、自身は大怪我を負って此処へ運ばれた。
敵が現れた時、周りに一般人は1人だけだった。それも俺のすぐ後ろだ。
「状況にも寄りますが今回の場合、市民の不安を煽り、敵をつけ上がらせる可能性がある為、動けない程の怪我はすべきではありませんでした。」
そう、俺があの時すべきだった事は敵の制圧ではなく一般人の避難だった。
「なら、何故お前はそこで寝ている。」
「…自分の不注意により、大怪我を負ったからです。」
「はぁ、何を焦ってんだ。」
「…」
先生の言う通り、俺はあの時焦っていた。理由はわかっている。しかしもう、もういいのだ。もうそんな事はどうでもよくなっていた。
「このままだと、お前を除籍処分にせざるを得ない。」
「…はい。除籍処分で構いません。」
「……は?」
「先生が相応しくないと仰るならば、俺はヒーローに相応しくないのでしょう。チャンスは幾度も頂きましたし、それを生かさず殺したのは俺ですから。」
もう俺はヒーローを目指す事に諦念を抱いていた。諦めとほんの少しの充実感。後悔はなかった。
「…明日までにこの書類を書いてこい。」
「はい。」
「…残念だ。」
「…」
「…」
「…先生、そんな顔しないで下さい。これが貴方の優しさだというのは、この半年に満たない期間でもわかりましたから。」
先生は普段より少し力の入った口元を震わせて、言葉を吐き出した。
「気持ち悪い事言うな。」
「…最後に、いいですか?」
最後。これできっと終わりだ。除籍された生徒なんて沢山いる。其の内の1人に埋もれるだけだ。この教師は除籍した生徒を忘れやしなそうに見えるが、俺としては忘れて欲しい。
それは彼が、良い教師だからだ。
文言を述べても良いか問いかけたが、答えを聞かずに話し出す。もしかしたら頷いていたかも知れない。けれど、其の声を聞く余裕が俺にはなかった。
「俺、英雄になりたかったんです。ヒーローじゃなくて、英雄です。先生。誰かの、たった1人で良い。ヒーローって職業じゃない英雄になりたかった。もう、いいんです。そう言ってくれた子が居たから。俺、後悔はしてません。」
「お前…」
俺の行動は間違いだった。けど、後悔はしていない。きっともう最後になるだろうから。これで、最後にするから。
「でも、先生優しいから俺が死ぬ事を良しとしなかった。俺はきっと簡単に自分を捨てる。先生が俺に生を望んでくれた事が何よりも嬉しい。」
俺を見てくれたのは、この人しか居なかったから。俺の事を知らないのだとしても、それでもこんなに俺を案じてくれた人は初めてだったから…
「相澤先生、今までありがとうございました。」
「…ああ。」
暑い夏の始まり。俺の高校生活は4ヵ月弱で終わりを告げた。同時に俺は、自由を永遠に失った。
「答えろ、田中。お前は敵だったのか?それとも、俺の所為か?」
ガシャンと鉄格子が揺れる。力の限り殴られたかのようなその音に、温かい何かが込み上げる。
「……先生。」
「俺の…」
「いいえ、先生。」
「まだ、先生なんて呼ぶのか。お前は、こんな所で…」
「俺にとって先生と呼べるのは貴方だけでした。俺の命も気持ちも重じてくれたのは先生だけです。感謝していますよ。今でも。」
だってこんな場所で、こんな風に心を痛めてくれる人を俺は知らない。
「…いつ、いつからここにいる。」
「さあ、時間を忘れる程前ですかね。」
「俺がお前を除籍してすぐか。」
「いやに断定的な響きに聞こえますが、まあ、そうですね。」
「なんでだ。お前が犯罪を犯すとは思えない。しかも此処は重犯罪者を収容するタルタロスだ。」
「俺の両親は敵ですから。しかも片方は元ヒーロー。最初から信用なんてされていなかった。」
世間を騒がせた凶悪な犯罪者の息子。さらに、全てを裏切ったヒーローの息子でもある。犯罪者と裏切り者の息子がこの世界で光を浴びるには、利用されて搾取され続けるしか道がなかった。
それでも良いと思っていたけれど、それが苦しいと思わないわけでは当然ない。
「……お前があの時2度目を拒絶したのは、そのチャンスがもうこない事をわかっていたからか?」
「勿論、予想はしていました。でも、同じ選択をした筈です。あの時既に俺は、折れていた。後悔していないのは本当です。けれど、目的は既に潰えていた。後悔がなかったからこそ、俺は先に進む事が出来ませんでした。」
だから諦めた。
「……お前は此処を出たいと思うか?」
「いいえ、先生。」
「そうか…」
「はい。」
「そう、か…」
「はい、先生。俺は此処を出たいとは思いません。」
だって、出たいと言えばきっと先生はこの国を、下手をすれば世界を敵に回す事になる。
それに、俺はもう前を向いて歩けない。折れてしまった。俺をヒーローと呼んでくれたその時から。この人生が悪いものでもないのかも知れないと、今までの後悔が全て消え去ったその時、俺は生きる事を見失った。
「俺の夢はもう、良いんです。」
その後先生がどんな顔をしていたのかは、覚えていない。