懇願の金曜日




以前に一度だけ泣きながら懇願したことがある。血が滲む包帯が巻かれた銀ちゃんの胸に頭を垂れ、私は震える声で願いを伝えた。連れていってなんて言わない。行かないでなんて言わない。銀ちゃんの足枷になるような言葉は絶対に言わないからせめて、いってらっしゃいと見送るくらいはさせて欲しいと。それが私が望める最大のわがままだった。けれどそんなわがまますらも銀ちゃんは許してくれない。私の頭に自身の頭をぶつけ、銀ちゃんも震える声で私に請うのだ。

「それだけは勘弁してくれ」

この時ほど言葉を失ったことはない。この状況をまったくといっていいほど予期していなかった。銀ちゃんはいつだって私の願いを聞き入れてくれたから。寒いと言えば手を繋いでくれたし寂しいと言えば抱きしめてくれた。だから今回だって、いや今回の願いこそ聞き入れてくれると思っていたのに。

「買い物いくとき、パチンコ打ちにいくとき、そん時ならいいよ。いや、そん時は連れていくから言う必要もねェか」

「ど、どうして?」

「……」

「どうして!?どうして」

「お前に逝ってらっしゃいなんて言われたら俺、どうしていいかわかんねーんだよ」

「…!」

「ただいまって言うから、約束するから、お前はおかえりだけを俺に頂戴」

それはきっと私の思いを分かった上での銀ちゃんの願い。体中の力が抜けてしまったへなちょこの私を銀ちゃんは壊れ物に触れるかのように大事に大切に引き寄せた。今度は何も言えなかったわけじゃない。浮かんだ言葉を全て押し込めて私は無言を貫いた。それが私の返事だと、きっと銀ちゃんには伝わっていたはずだから。この人の傍にいるということは深い愛情と引き換えに恐怖とも隣合わせ。侍の国から、銀ちゃんが守り愛した世界から悪が消えない限り私に平和は訪れない。その道を選んだのは他の誰でもない私。逃げ道がないわけではない。現にこうして懲りずに待ち続けている理由を捨てて駆け出せば私は全ての恐怖から解放される。けれどそれはできない。相変わらずズルい人。

昨日の雨が嘘のようにからりと晴れた青空に浮かぶ雲の隙間を覗き込む。私の気持ちを余所に世界は穏やかな時を過ごすのだ。落ち込み、悩む方が馬鹿らしいと笑えたのならどれほど楽なのか。

「銀ちゃんの馬鹿。天パ。脳内くるくる。寝坊助。ニート」

「おい」

「阿呆。変態。ニート」

「いっそいで帰ってきたら彼女が自分の悪口並べてたときの俺の気持ちとか考えたことある?しかもニート二回言ったよね?」

「ニート」

「感動のアレがニートで台無しなんですけど。俺の息切れ返せバカヤロー」

一体どの口がペラペラと。決めた、もう銀ちゃんだなんてかわいく呼んであげない。これからはニートで十分だ。普段ならば簡単にぶつけることができる悪態も今は大人しくしているほかなかった。なまえ、と銀ちゃんが私の名前を呼べばそれこそが涙を誘う合図のようだ。情けないほどに溢れ出した涙と共にまるで小さな子供のように泣き喚く。心配した、馬鹿、寂しかった。全てを隠して笑ってあげるほど私は上手くできていないから。銀ちゃんだってそれをわかっている。わかっているからこそ私をきつく抱きしめてくれるのだと、それだけは私にも伝わっているから。

「怪我は」

「あいつらならピンピンしてるよ。調子に乗っておぶれだなんだ言い始めると思ったけどちっせえ脳みそ働かせて俺のこと蹴り飛ばしやがった。なまえに会いに行けだとよ。言われなくても行くっつーの」

「銀ちゃんの怪我は」

「なまえちゃん欠乏症だな。これハートの怪我だよね」

こんなときまでふざけるのは止めて欲しい。いや、ふざけることができるのは元気な証拠なのかもしれない。血に染まった銀ちゃんを迎えることにならなかっただけでも安堵するべきなのだ。けれどしっかりと銀ちゃんの口から状況を聞きたい。切実な願いを込めて銀ちゃんの背中にパンチを撃ち込めば頭上からは小さな悲鳴が聞こえた。

「銀ちゃん、怪我は」

「たった今負った。なんかすげぇ背中が痛い」

「……」

「あーうそうそ。平気だって。ただなまえちゃん欠乏症はほんと。今晩はたくさん構ってくれなきゃ銀さん死んじゃう」

「安らかにどうぞ」

「殺すなオイ」

くしゃりと自身の髪を掻くのは銀ちゃんが少なからず緊張しているときの癖。私の瞳に残っていた涙を人差し指で拭い、優しく笑ってみせたその笑顔を見たときに私は始めて心からの安心を得るのだ。そして銀ちゃんの帰りをずっと一緒に待ち続けたその言葉をようやく伝えることができる。

「おかえり、銀ちゃん」

「たでーま」

もうどこにもいかないで。誰にも聞こえない声で呟いた金曜日。