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朝から止まない雨にうんざりした硝子は溜息を零した。ポケットから取り出した煙草に安物のライターで火を灯す。吐いた細い白煙は雨の中に消えていった。こんな中でも同期の男二人は朝から任務に駆り出されていた。可哀想という気持ちはこれっぽっちも無い。むしろ煩いのがいなくて清々する。ただでさえ低気圧の影響でじわじわと圧迫されるような頭痛や身体のだるさと戦っているのに、あの問題児二人が加われば硝子の頭痛は更に悪化するところであった。

硝子がしばらく煙をくゆらせていると前方に薄いピンク色の傘が見えた。この前一目惚れして買った傘をやっと降ろしたみたいだ。傘は段々と近づいてきて硝子の目の前で止まる。傘から見えた顔は唯一の同性の同級生、「ここにいたんだ」と硝子より少しだけ高い声のトーンが傘から聞こえてきた。

「なんだ寂しくなって来たのか」
「……だってみんないないんだもん」

ナマエのムスッと不貞腐れたような顔が傘からちらりと見える。ナマエはピンクの傘を閉じて雨粒を振り落とすと硝子の隣に座りこんだ。ナマエの横顔を見て、硝子は思う。綺麗な顔だと。白くて陶器のような肌、長い睫毛は丁寧にカールされており、控えめなチークと白い肌に映えたナマエの最近のお気に入りであるリップが似合っていた。
硝子は二本目の煙草に手を付けると、彼女の丁寧に巻かれた髪を触り、指先でくるくると遊び始めた。するとナマエは「なぁに?」と首を傾げてこちらを向く。小さい頃からナマエは今のような仕草や話し方のせいで「あざとい」「ぶりっ子」などと陰で言われることあったと本人は笑っていた。硝子も最初はそう思っていたが、段々仲良くなるにつれて分かった、これは元来の性格だと。男がされたら一瞬で落ちるような仕草も女が相手だと嫉妬や嫌悪の対象だった。硝子は面倒臭いことが嫌いなので当たり障りなく関わればいいやというスタンスだったが、いつしか二人は友達と言うには少しだけ距離が近い関係となっていた。

そして今、ナマエは硝子の制服ポケットから煙草を取り出そうとしている。「わたしも吸う」とナマエは煙草を一本取ると口に咥えながら硝子を見た。「火をちょうだい」と目が訴えている。硝子は吸っていた煙草を口に咥え直し、ナマエの顔に近づいた。ナマエの顔を見ると目を細めながら火が移るのを待っていた。少しだけ強く吸うと火が完全に点いた。硝子はナマエから離れると、ナマエは綺麗な形をした鼻から白い煙を吐いた。最初見た時は、普段の彼女とのギャップに少々驚いて、「ヤンキーの吸い方じゃん」と笑ったら「鼻からだと味がなんとなく口よりも分かるんだよね」と言っていた。

「もう、自分で買って吸えばいいじゃん」
「ううん、硝子が吸ってるの見ると吸いたくなるの。一人のときは吸わないの」

なんでだろうね、と彼女は微笑んだ。

「あ、紫陽花だ。綺麗だね」
「もうそんな時期か」

ナマエの傘に二人で入りながら寮へ戻る途中、名前が指さした先には紫陽花が咲いていた。ピンク、紫、青、白、緑、様々な色の紫陽花に雨粒が落ちて雫がきらりと光っている。ナマエは持っていた携帯で写真を撮影したいからと硝子に傘を持たせた。こんなの毎年見れるじゃん、と硝子は思ったが彼女の嬉しそうに写真を撮る姿を見ると何も言えなかった。

「ねぇ、紫陽花って色ごとに花言葉があるんだよ」
「へえ、どんな?」

私もあまり詳しくないけど、ピンクと紫は「強い愛情」と「辛抱強い愛」、白と緑は「ひたむきな愛」と「一途な愛情」。全て愛にちなんでいるみたいだね。
素敵、と紫陽花に付いている雨粒を除けながら言うと、次の瞬間、ナマエは硝子の方へ顔を向けゆっくり唇を合わせた。
 
「なんだ、」
「ふふ、驚かない所も好きよ」

くすくすと口元に手を当てて笑うナマエ。悪戯がバレた子供のようだった。硝子はそこまで今の彼女の行動には驚きはしなかった。硝子の唇にはナマエの付けていたピンクのリップが色移りしている。ナマエは人差し指で丁寧にそれを拭き取ると、戻ろうか、と硝子の手を引いて歩き出した。

何を考えているのか分からない、硝子はナマエの背中をずっと眺めているしかなかった。

        

待ち合わせ先のカフェに到着した硝子はブラックコーヒーを嗜みながらもうすぐ到着するであろう当事者を待っていた。なぜ呼ばれたのかは大方検討がついてきた。

「硝子、お待たせ」

何年経っても変わらない、自分よりも少しだけ高いトーンの声が頭上から聞こえる。目の前の席に座った彼女は相変わらず綺麗で、前に会ったときよりも髪が伸びていた。大人の女性そのものだった。ナマエはウェイトレスを呼び止め、メロンソーダを注文すると硝子に向き直った。

「相変わらずコーヒー飲めないんだな」
「コーヒーはいつまで経っても飲めないままよ。紅茶は最近克服したわ」

ナマエは学生時代からコーヒーと紅茶が飲めず、甘くしようと砂糖やミルクを入れても、味が苦手だった。顔を顰めながら飲む彼女に硝子は何度笑わされたことか。そんなナマエが克服したらしい。コーヒーは未だに飲めないままだが。何のきっかけで飲めるようになったのか、それはナマエの左手の薬指に光るものが答えだろう。

ナマエの頼んだメロンソーダが運ばれてくると、二人は近況や、学生時代の仲間の話、生徒の話に花を咲かせていた。一段落着いた頃、ナマエが左手の薬指を触りながら口を開いた。

「結婚するの」

今日、硝子を呼んだのもその報告だと彼女は言った。ナマエはその結婚相手のために呪術師を辞めた。「彼がやめて欲しいって言ったから」と呆れたように言ったナマエを硝子は昨日のように覚えている。本当は辞めたくなかったはずだったのに。だが、その一言で辞めるぐらいその男は彼女にとって大切な存在だったのであろう。硝子は相手を一度だけ見たことがある。ナマエの中学時代の同級生で、二人は二十歳の時に再会を経て付き合い始めた。愛おしい目でナマエを見る男が硝子はあまり気に入らなかった。勿論、それはナマエは知らない。硝子だけの、自分のだけの秘密だ。

硝子をまっすぐ見るナマエの目はあの男の目と同じ目をしている。硝子は「おめでとう」と一言伝えた。ナマエはありがとうと目尻を下げ、嬉しそうにしていた。

「あ、見て硝子!紫陽花が咲いている」

店を出た先に紫陽花がたくさん咲いていた。ナマエはスマホを取り出し、写真を一枚撮った。あぁ、あの時と同じだ。あの時もナマエは紫陽花を綺麗だと言って写真を撮っていた。嬉しそうにパシャパシャと撮影している彼女に飽きないなと硝子は傘を持ちながら思う。

「ナマエ、」
「ん?」

硝子は傘で世界から自分たちを隠すように、そしてナマエの頬に小さくキスを落とした。顔が離れるとナマエは悲しそうな顔を一瞬したが、すぐに戻って「もう、」と口を手に当てながらくすくすと笑った。

「なぁに硝子、」
「あの時のお返しだよ」
「ふふ、覚えていたのね、あの時のわたしは本当に硝子のことが好きだったのね」
「知るか」

今頃になって知ることになった自分の気持ちなんてナマエは知らないだろう。あの時はナマエの気持ちが分からなかった。でも今度は私がナマエの立場だ。今頃になって分かったよ。

私は彼女に恋をしていたんだ。
そして、あの時の彼女は私に恋をしていたんだ。







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