――失う時は一瞬なのだと私たちは知っている。

食堂で明日のスタメンを貴子たちと一緒にどこかぼんやりと聞いていた。泣いても笑っても明日のこの時間にはもうすべてが決まっている。準決勝までは常に息苦しさの中にいるような、それほどまでに目の前の一戦一戦を”これが最後の試合かもしれない”と無意識のうちに念頭に置いていたというのに。それがどうした事か決勝行きを決めたその瞬間からその緊張感なのか危機感なのか自分でもよくわからない感情をまるで切れ味のいいナイフで切られてしまったかのようだった。

「私はもう帰るけど名前は行かなくていいの?」
「え?」
「まだ今日二人で話してないじゃない。それにいつもみたいに頑張れって言うんじゃないの?」
「……」
「たしかに私たちはマネージャーだった先輩たちの夏と恋が終わる瞬間を何度も目にしてきたけど、この夏は、結城くん達は違う、絶対勝つよ」
「貴子、」
「ちょっとでも悩んでるなら行ってあの約束をしておいで。彼から言ってくれないなら名前から言っていいと思う。そうしなきゃ絶対後悔するよ。泣いても笑っても私たちは最後の夏なんだから」

明日の勝利をマネージャー全員で信じて幸子たち後輩と別れた後、貴子と一緒に帰路につくはずだった。彼女が足を止めて私に行かなくていいの?なんて質問を投げかける事などなければ。私の目をじっと見つめて何もかもを見透かしたように貴子がゆっくりと言葉を紡ぐ。別に隠していたわけではないし、かと言って誰かに話したわけでもない。それでもその言葉達に驚かなかったのは心のどこかで貴子はきっとわかっているだろうと思っていたからに違いない。

「名前!明日、絶対勝とうね!それで、それで明日も、明後日も、いつもの道を一緒に帰ろう!」

二年半、野球部のマネージャーとしてその日数ほぼすべてを共に過ごしてきた。お互い初めはスコアブックの書き方も、それこそおにぎりを握るのだって下手くそで毎日一緒に帰路につきながら反省ばっかりしてたね。入部するまで全然話した事もなくて、まったくの他人だった私たちが今ではお互いがお互いをなくてはならない存在だと、親友だと呼ぶまでになったね。なのに私は一番貴子に報告しなきゃいけない事をずっと黙ったままだった。なのにそれに怒りもせずにこうしてそっと私の背中を押してくれる。その優しさに泣き出してしまいそうだった。

「貴子本当にありがとう」

大きな声でそう伝えたかったのに、こみ上げるたくさんの熱い気持ちとは裏腹に噛みしめるような喉につっかえてしまったようなそんな感謝の言葉が風に乗って舞っていく。私の声は貴子にちゃんと届いただろうか。私の大好きな優しい笑みを浮かべて貴子が背を向ける。また明日ねってそう手を振りながら。闇夜に消えて行く貴子の後ろ姿を見送って、室内練習場までやって来た。そっと覗いた練習場で見慣れた兄弟がティーバッティングをしている姿が見える。確かに私は後悔しないように会いに来た、けれどその練習を邪魔していい権利なんてない。

「最後の最後に念押ししに来たの?」
「え、」
「甲子園に連れて行けって、ずっとそう言ってたくせに」
「それ、は」
「てっきりその念押しに来たんだと思ったんだけど、なんだ、ハズレか」

そこにどれくらいの時間いただろうか。室内練習場の隅っこで小湊兄弟のティーバッティングをただじっと見つめていた。あまりに集中しすぎていたのか、それともぼんやりしすぎていたのか亮くんに話しかけられてすぐに反応ができなかった。私が答えるよりも早く亮くんは言葉を並べていく。念押ししに来たわけじゃないなら何しに来たわけ?普段と変わらないそのそっけない態度を目の前にして、今先ほどまで途切れていた緊張感のような危機感なのかよくわからない感情が静かにだけどたしかに蘇ってくるのを感じた。そしてなぜか得体の知れない不安感が襲う。

「なんで試合に出ない名前が震えてんのさ」
「あ、あれ?…なんでだろう、わかんないや」

たいして痛くない亮くんの手刀を頭に受けながら得体の知れない不安と私はただひたすら戦っていた。ここに来た当初の目的なんて忘れてただ何も言えずに亮くんを見つめる事しかできない。用事がなければこんな場所で長い時間待ったりなんてしない、理由はわからずともそう思っているであろう亮くんは何も言わず私の言葉を待つばかりで。わかってる、何か言わなきゃ、そう思うのに開いた唇は震えていて。一体何が不安なの?頭の中で誰かが私に囁く。好きだと言いたかったわけじゃない。まさか決勝前夜にプレッシャーをかけるように甲子園に連れていけなんて言いたかったわけでもない。簡単な事で、ただ頑張ってねってそうひとことマネージャーとしてではなくちゃんと一人の女の子として伝えたかっただけなのに。そのひとことがどうしても出てこない。

「ねえ名前」

ずっと黙ったままの私に痺れを切らしたのか亮くんが私の名前を呼んだ。滅多に見せない射抜くような強い眼差しと共に。

「明日さ、試合が終わったら言いたい事あるんだよね」

失ってしまう事を私たちは知っている。日々の努力も、流した涙も汗も。終わってしまうのは一瞬なのだと私たちは悲しい程に知っていて、だけどそれでも夢を見る。二年半という短い時間の中で、光り輝き続けるその姿がどれだけ眩しくてもその夢を叶えられるのは一握りの人間なんだと知っているのに。そしてその夢と一緒に失ってしまう恋がある事も。それを教えてくれたのはいつの時も偉大な先輩たちだったね。

「泣くの早いから。まだ何も言ってないし」
「うん、うん…ごめんね、なんでだろ、」

溢れるのは応援の言葉じゃなくて涙と理由ない謝罪。明日が決勝だとか、決勝に勝てば夢の甲子園だとか、怒られるかもしれないけれどもうそんなものはどうでもいい。ただ、ただ続いてほしい。この時が、みんなと甲子園を目指して一生懸命頑張るこの日々が。がむしゃらに野球を頑張るみんなをずっと見つめていたい。そして亮くんとこのまま。そんなわがままが涙となって頬を濡らす。

「二年半ずっとうざいと思ってたって言うかもじゃん」
「なにそれ、ひどくない?」

肉刺だらけの硬い手がたどたどしい動作で流れる涙を拭っていく。例えばその前だけを見つめる強い眼差しだとか、どこまでも強気なその態度だとか。時々見せるその笑顔もわかりにくい今のような優しさも。日々がむしゃらに泥だらけになりながらそれでも立ち上がるその姿に私は恋をしたんです。なんて、今亮くんにこの胸の内を伝えるのはルール違反でしょうか。

「ねえ亮くん、あの、あのね、私本当は、」
「それを言うのはルール違反じゃない?っていうか今言うなんて俺たちが勝つって信じてないみたいじゃん」

失う怖さを知っているからこそ、失ってしまう前に私は手に入れたい。そう言う先輩を私は何人も見て来たから。”明日勝ったら聞いてほしい事がある”その悲しくも美しい約束が果たされた事は一度もない事を。それを亮くんだって知っている。きっとその約束が叶った事がない事も。だからこそあえてこの言葉を、約束を彼は選んだのだ。かつて、その約束を選んだ先輩たちが負ける気など微塵もなかったように。

「違うよ!そんな事思ってない!でも、」

こんなよくある売れない小説みたいな安っぽい約束を、きっと誰もが笑うだろう。それでもいい。恥ずかしい奴らだと誰に笑われても、夢を見すぎだとどれだけ馬鹿にされようとその約束には確かに、誰にも見えはしないけれど確かに譲る事のできない誇りがそこにある。大袈裟かもしれない。でも、この約束は私たちの誇りそのものなのだ。

「じゃあ黙って信じてなよ」

誰もがみんなこのチームを最高のチームだと思っているし、このチームなら絶対に甲子園に行けると思ってる。チームメイトを信じているから、このチームで勝つんだと本気で思っているから。この”青道”という”チーム”が亮くんにとっての誇りで、絶対に譲れないもので。だからこそ”ルール違反”だとそう言ったのだ。私が言いかけた言葉が彼の誇りを踏み躙ろうとしたから。

「大丈夫、勝つから」

この約束は私たちの誇りそのものだ。ならばその約束に込めた私の誇りは迷う事なく、小湊亮介その人だと言い切れる。マネージャーと言えど試合となればスタンドからグラウンドを見つめ、応援する事しかできない。どれだけ同じチームで過ごそうが、スタンドから見る彼らはどうしようもなく遠くて眩しくて。私たちが踏み入れない輝きがたしかにそこにある。だからこそ、信じるのだ。彼の愛するチームを、そして自分の愛するその人を。ただひたすらに亮くんの二年半積み重ねてきた地獄のような努力が、見るものを惹きつけるそのキラキラとしたプレーが。そしてそんな亮くんを好きになった事。亮くんが積み重ねた努力の年月、私は亮くんを見つめて来たんだよ。だからこそ、その存在すべてが私の青春で、彼への思いこそが絶対に譲れない誇りなんだ。

「大丈夫、だよね」
「何言ってんの?大丈夫に決まってるよ」
「……大丈夫、だよね?」

本当は初めから全部わかっていた。ぼんやりと明日のスタメンを聞いている時から。トーナメント戦独特の緊張感が準決勝で急に途切れてしまった理由も、亮くんに会ってその緊張感が戻ってきた理由も。そして追い討ちをかけるように背後から静かに蝕みはじめる得体の知れない不安の理由にも私は気付いてしまった。亮くんは二度目にして私のその言葉の真意を悟って、気付いた。私がそれに気付いた事に。それでも私は何も知らないフリをして息をする。悲しいものは知りたくない。辛いものは見たくない。どこまでも眩しくてかっこよくて私の誇りそのものである彼が、本当は何かを隠していたとしても。

「亮くん、ごめんね」

ねえ、私ここに来なければよかった?あのまま貴子と一緒に帰っていれば、亮くんにそんな顔をさせなくてよかったのかな?襲うのは遅すぎる後悔ととめどない不安。触れてはいけない事だったと亮くんの表情を見れば馬鹿でもわかる。ぽろぽろとこぼれる涙を再び亮くんがやっぱりぎこちない手つきで拭った。泣きすぎだと、その涙は明日にとっておけと、亮くんが馬鹿にしたように笑うけど、その声は痛いくらいに優しくて。ああ、好きだ。どうしようもなくこの人が好きだ。

「名前に謝られるとか気持ち悪いからやめてくれない?ほら、早く帰って寝なよ。明日寝坊なんかするなよ」

許されるならば叫んでしまいたい。好きだと、どうしようもなく愛おしいのだと。でもできない。亮くんが好きだから。本当に本当に大好きだから。だから言えない。もしも明日、考えたくなどないけれど私たちにとって最悪の結末が用意されていたならば、きっとこの人はこの約束自体を当たり前のようになかった事にするだろう。

「信じてる、私、明日亮くんの事信じて待ってるからね」
「…名前、ありがとう」

だから私は泣いたのだ。それをわかっているから。あえて「明日」と言った私に亮くんが困ったように笑う。絞りだすように言ったそのありがとうに込められた気持ちを私は静かに噛みしめた。私たちは今、この一瞬を愛している。お互い言葉にはできなくとも、確かに今この瞬間、私たちを邪魔するものはなにもない。話せば話すほど、その目に見つめられれば見つめられるほど、色濃く香り立つのが終焉だったとしても。それでも。熱を帯びた視線を絡めたくて、私たちの夢をつなぎたくて、このどうしようもない思いを重ねたくて仕方がなかった。



title.花洩

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