はたけカカシの場合
バシャバシャと上から水が降ってきた。扉の外からはキャーキャーと騒ぐ女の子達の声。屋内にいるはずなのに、あたしはよくずぶ濡れになる。
いじめを受けてもう随分と経つ。初めのうちはやめてよと抵抗もしたけど、それが逆に相手を喜ばせてしまっていたらしい。それに気付いてからはとにかく無抵抗。水をぶっかけられようが、お弁当をひっくり返されようが、教科書やジャージをビリビリに破かれようが。
無抵抗なのがおもしろくなかったのか、あたしをいじめているクラスメイトがつまんねーと言いながらトイレから出ていく。それを確認してガチャ、と個室のドアを開けて、教室には戻らずに屋上へと足を進める。
水を含んだせいで重くて歩きづらいはずなのに、屋上に近づけば近づくほど、あたしの足は軽くなっていくような気がする。
立ち入り禁止、なんて貼り紙をしてあるくせに鍵なんてかけていないドアをゆっくりと開けて、誰もいないそこに足を踏み入れる。
まだ朝の9時前なのに太陽がキラキラと輝いて、吹く風は近くの木の葉の香りをふわふわと運んでくれる。気持ちのいい天気。このままずっとここにいたら、びしょ濡れの髪も服も靴も、全部乾きそうだ。
「ま…、乾く前に死んじゃうんだけどね。」
ぽつりと独り言をこぼしてフェンスを越えて、自分の教室のある場所の上に移動する。どうせ死ぬなら、クラスメイトに見せつけてやるんだ。自分の死体を見たクラスメイトの顔を想像すると、自然と笑顔になる。男子達は狼狽えて、いじめた女子達は悲鳴を上げ、見て見ぬふりをしていた担任は顔が真っ青になるだろう、多分。いい気味じゃないか。
ふぅっと息をひとつ吐くと、後ろからキィっと音を立てて、さっき閉めたはずの扉がまた開く。
ごほんと軽く咳払いをした後にカチカチとライターの音がして、そのすぐ後に煙草特有の匂いが風に乗ってこっちに流れてくる。煙草を吸う前に咳払いするのは、この人の癖なんだろうか。
「タイミング悪すぎませんか……カカシ先生。」
「…また貼り紙無視したの。」
振り向かずに名前を呼べば、カカシ先生はフェンスに背中を預けて、ふーっと煙を吐き出す。禁煙ブームだっていうのに、この人はよく煙草を吸う。ちらりと先生の方に顔を向ければ、整った顔に煙草と白衣がよく似合う姿が見えて、モデルみたいなんて思ってしまう。
「授業はないんですか。」
「俺のセリフだよ、それ。…自習にしてきた。」
「カカシ先生の授業みんな楽しみにしてるんですよ。可哀想。」
「お前らのクラス、他のクラスより少し進むのが早いから。」
「…そうですか。」
そうだ、1限目は化学だったっけな。元々今日の授業を受けるつもりのなかったあたしは完全に忘れていた。時間割覚えてないなんて珍しいねなんて話すカカシ先生は、吸い終わった煙草を携帯灰皿に押し付けて火を消している。
「ねえ、カカシ先生。」
「んー?」
「弱いなって、思いますか?」
「………。」
「そんな小さい事で死ぬなんて、馬鹿みたいって思いますか?」
スカートの裾からぽたぽたと水滴が落ちて、そういえばあたしずぶ濡れだったんだと思い出す。そんなずぶ濡れなあたしとゆっくり目を合わせたカカシ先生は、よっとフェンスを越えてあたしの隣に来る。寄りかかっているのが楽なのか、カシャンと音を立ててさっきと同じくフェンスに背中を預ける。
「別に、そんな事思わないよ。」
「……そうですか。」
いつもは吸い終わるとすぐにマスクを付けるのに、今日は素顔のまま。綺麗な顔だな。最後に見たのがイケメンでよかった。
「……痛いだろうねぇ。」
「………。」
「……今の痛みに比べたら、なんて事ないか。」
「そう、ですね。」
キーンコーンと1限目の始まりを知らせるチャイムが鳴って、さっきまでざわざわとしていた声がぴたりと止む。しんと静まり返った空間に響くのはカカシ先生とあたしの声だけで、なんだかとても心地がいい。
「俺ね、お前とこうやって授業サボるの、結構好きだったよ。」
「……サボってたんですね。」
「うん。…煙草吸いながらお前の話聞いたり、逆に俺の話、したり。」
あたしが屋上にいると、タイミングよく来たカカシ先生と50分間ずっと話すなんてことが頻繁にあった。授業に戻れと怒られる事も、なんでずぶ濡れなんだと聞かれる事も、いじめられているなら言いなさいと熱血ぶったりする事もなかった。ただ、今日は空が青いねとか、昨日食べた新商品が美味かったとか、本当に他愛のない話ばかり。あたしがいじめられている事には興味がないのか気を遣って話をしないようにしていてくれたのか、それは分からないけど、学校で唯一癒される時間だった。
「寂しくなるねぇ。」
「っ、やめてください…。」
「……楽に、なれるといいね、ななし。」
「…ありがとう、ございます。カカシ先生。」
お礼を言うと先生はあたしの頭をくしゃくしゃと撫でて、フェンスを越えてゆっくりと校内へ向かって歩いていく。
さあ、そろそろ飛ぼうか。
1段高くなっている段差に足をかけると、ああそうだ、と先生の声がする。振り向かずにいると、先生は優しい声でななし、なんて呼ぶから、ずっと堪えていた涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。死ぬ前にそんなに優しい声で呼ばないでほしい。
「最後に聞くけど、」
「…なんで、しょうか。」
「…俺がお前の痛みも悲しみも、一緒に背負うって言ったら、どうする?」
「……………え、」
「それでもななしは、死ぬ?」
しばらく無言が続く。どうするかなんて、そんなのいきなり言われても分からない。背中を向けたままいると、先生が静かに話を続ける。
「昼休み、またここに来るよ。…じゃあね。」
はたけカカシの場合
(あたしは、どうしたいんだろう。)
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