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 ――脳みそに思い出が残らないって、つまり、どういうことなんだろう。

 暑い夏が終わり、過ごしやすくなってきた頃。頭に巻かれた包帯が慣れなくて、包帯に伸びる手を看護師さんに止められながら、そんなことを考えていた。


 小学2年の秋、祖父と私を乗せた車が事故にあった。祖父も私も命に別状はなかったけれど、私の頭はとても強い衝撃を受けたらしかった。

「記憶障害が残る可能性があります」

 先生の話を聞くに、私の脳みそは、思い出を留めておく部分がバカになってしまったらしかった。
 激しい運動は脳へのリスクを考えて様子を見ましょうと言われた。記憶を留めておけるように治療していきましょうと言われた。呆然としていた母は、今思えば今後の私の苦労を察していたのかもしれない。

 結局、兵庫県にある大きい病院に通院したほうがいいだろうと言う理由で、兵庫に移り住むことになった。突然の転校だったから、愛知の友人には挨拶もできずに転校した。
 転校先にはすぐに通う予定だったけれど、検査入院やらなんやらで結局予定がずれて、予定からさらに1週間遅れて新しい学校へと足を踏み入れた。
 
 激しい運動を禁止されたので、密かに考えていたバレークラブへの入団は諦めざるを得なかった。けれど、「激しい運動ができない以外は今までと変わりないからね」と主治医に言われていたこともあったので、悲観的になることはなかった。
 転校先の学校に吹奏楽部があったので、小学4年生からは吹奏楽部に入部した。母も仕事から帰る時間が遅くなっていたし、ちょうどよかった。楽器は、腕いっぱいのばしてスライドを操る先輩がかっこよくてトロンボーンに決めた。当時、同級生よりほんの少しだけ腕の長さには自信があったこともあって、先輩たちからも是非と言われたのが嬉しかった。

 ただ、なぜあの時バレーがしたかったのか、気づけば分からなくなっていた。


「ねえなまえ。倫太郎くんのことは覚えてる?」

 母はこうしてたまに、私に人の名前や場所を聞いてくることがあった。随分前に亡くなった祖母の名前、愛知の小学校の担任の先生、家の近くにあった駄菓子屋の名前。この日聞いたのは、全く知らない男の子の名前だった。

「倫太郎くん?」
「ほら、二軒先に住んでた男の子。よく外で一緒に遊んでたでしょ?」
「ええー?そうだっけ」

 覚えてないなあ、なんてカラカラと笑う私をよそに、母は険しい顔をした。なんだか、母に怒られているような気分になって「もう寝るね!」と部屋へと戻る。その日はそのまま寝てしまい、朝起きてみると、棚にあったはずのアルバムがごっそりとなくなっていた。

 私が改めて自分の脳の状態をきちんと把握したのは、中学生3年生の頃。小学校で離れてしまったクラスメイトと偶然コンクール会場で再会した時、その子の名前やできごとが思い出せなかったのだ。

「なまえちゃんの脳はね、Wいつ、どこで、誰と、何をしたかW、その記憶が脳に残らずこぼれ落ちてしまってる状態なんだよ」
 
 脳裏では、いつだったか悲しそうな顔でアルバムの表紙を撫でていた母が思い浮かぶ。もしかしたらW倫太郎くんWの話題は、あの日がはじめてではなかったのかもしれない。

 きっと、顔も覚えていないW倫太郎くんWは、私にとって大切な友達だったのだろうなと思った。それと同時に、本人に会ってしまったらどうしようという恐怖が、私の心にこびりついて離れなかった。


△▼△



「みょうじ。そろそろ帰りや」

 コンコン、と音楽室の扉をノックする音にハッとして、扉へと目を向けると、そこには呆れた顔で顧問の先生が立っていた。やばい、やってしまった。時計を見れば、最後に時計を見た時よりもうんと針が進んでいて、慌てて立ち上がる。周りで同じように居残り練習をしていた人たちは、とっくに姿を消していた。

「また集中しすぎたんか」
「…はい。すみません」
「別にええけど。集中しすぎると他人の声が聞こえなくなるんは、どうにかせんとあかんな」

 はよせえ、と顧問に急かされて、慌てて楽器を片付ける。忘れ物はないよな、と周りを確認してから、スクールバッグを肩にかけた。「校舎の入り口まで送るわ」と顧問に言われたので、お言葉に甘えて顧問と2人で薄暗い校舎を歩く。

「最近なんかあったんか?」
「え?」
「大会近いから気合い入ってるんかと思ったけど、そうでもないみたいやし」

 顧問は、私が病院に通っていることも、その理由も知っている。純粋に心配してくれているのだなと分かるから、申し訳なくなってしまう。

 角名くんと再会、のようなものを果たしてからというもの、私は、愛知での思い出を思い出せないことに酷く焦っていた。思い出せるわけもないのに当時のアルバムを引っ張り出してみたり、ビデオを見てみたり。母は酷く驚いた様子だったけど、私のやることを咎めることはなかった。

「ま、何かあったら言いや。大会、期待してんで」
「はい」

 校舎の入り口で分かれて、門までの道を歩く。いつもの時間より遅くなってしまったからか、いつもより道も暗い。さすがにやりすぎたなあとヒリヒリとする唇を触る。
 そろそろ門に近づくというところで、向かいから数人歩いてくるのが見えた。運動部だろうか。野球部は確かもうすぐ甲子園を賭けた決勝戦があるし、練習していたのかもしれないな。
 近づいてきた影は、どこか見たことがあるシルエットで思わずそちらを凝視する。ギャアギャア騒ぐその声も聞き覚えがあって、自然眉に皺が寄った。

「あ!みょうじさんやん!」

 ばったりと会ったのは、最近遭遇率の高いバレー部だった。「俺の名前は?」なんて聞いてくる宮くんに、「宮…治」と答える。その隣でふ、と同じ顔が笑ったということはどうやらハズレだったらしい。「侑や!この前治のこと当てたんやろ!?ほんで何で間違えんの!?」と騒ぐので適当に「暗いからかな」と誤魔化した。

「みょうじさん、よう会うなあ」
「バレー部も部活終わり?」
「そ。自主練してて今終わったとこや」

 そう言ってにかりと笑った銀島くんに「おつかれ」と返せば、「みょうじもな」と言葉が返ってくる。双子より銀島くんの方が話しやすいと言ったら、双子は怒るだろうな。

「おつかれ、みょうじ」
「あ、うん。角名くんもお疲れ」

 彼らがいるということは、当然同じ部活である角名くんもいるという訳で。最近悩みの種である彼と顔を合わせるのは、なんだか気まずい。
 角名くんの本名がW角名倫太郎Wだと知った時、彼がW二軒先の倫太郎くんWであるのだと確信してしまった。それと同時に、今までこびりついて離れなかった恐怖がむくむくとやってくる。思い出も何もかも忘れた私を、角名くんはどう思うだろう。けれど、そんな私の心配をよそに、あの日、角名くんは怒ることも悲しむこともなく、意地悪く笑った。
 決定的に私たちの関係が変わったのは、私の記憶の中にあるWバレーの楽しかった思い出Wが角名くんとの思い出だと分かったあの日だったと思う。愛知でのほんの僅かなできごとを覚えていたことに安心して、角名くんの反応はあまり覚えていないけれど、気づけば角名くんは私のことをさん付けで呼ぶこともなくなった。

「家までは徒歩?送るよ」
「電車通学だし平気だよ」
「それはよかった。俺も電車だから」
「……」

 そして極め付けにこれだ。なんというか、前よりだいぶ距離が近くなった気がする。なんだかんだで駅まで一緒に行く流れになってしまった。忘れていたけれど、角名くんの実家が愛知ということは、彼は寮生なわけで。しかも、寮と私の家の最寄りは同じなわけで。
 「ほなまた明日」と手を振る三人と別れて、二人駅までの道を歩く。なんだかんだで二人きりなのはあの日以来かもしれない。

「吹奏楽って大会いつだっけ?」
「県大会は8月入ってすぐかな。関西大会はその2週間後」
「へえ」
「そういえば、バレー部はインターハイ終わったんだよね?お疲れ様」
「ありがと」

 角名くんと話すとき、随分と話しやすいなと思うことがある。もしかしたら、こういう風に昔も話していたのだろうか。聞きたいけれど、今の私には思い出を受け止めきれるほどの器はない。
 あっという間に電車が来て、私たちの会話は自然となくなった。
 揺れる電車の中で考える。
 もし、角名くんとの思い出を忘れていなかったら。「久しぶり、元気してた?」なんて笑って、今よりももっと近い距離で冗談言い合えていたのかな、なんて。

20230313



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