17
「進路希望調査票出してない奴、いい加減だしや〜」

 一日の終わりの号令を告げる直前、ダルそうに告げた担任の言葉に私はようやく鞄に眠っていたその紙の存在を思い出した。どうしよう、全国大会のことばかり考えていてすっかりその紙の存在を忘れていた。「やべ」と声を漏らした隣の男子生徒に思わず同意しそうになるも、ぐっと堪えていればようやく号令により解放される。あっという間に散り散りになる生徒たちを見送りつつ、私は鞄の中身を漁った。
 
 9月になると、三年生に向けて進路希望調査が行われる。提出した進路希望調査表をもとに、中間テスト後に面談が行われるのだ。大会前に行われるテストは、十月中旬から春高予選を控えたバレー部だけでなく、全国大会を控えた吹奏楽部員にとっても関門だった。

「なまえ、部活行かへんの?」
「調査表、出し忘れてた」
「ちゃんとしてるなまえが!?珍し!」

 部活仲間である一組の同級生が、机に向かう私を見て驚いたように指をさす。どうやらわざわざ遠いクラスから迎えに来てくれたらしい。「明日槍でも降るんちゃう?」と、揶揄い始めたので軽く睨みつけると、同級生は思い出したように「あっ」と声をあげる。

「そういや、治も残ってたなぁ。あいつも、調査票まだやったんかな」
「へぇ〜」
「なまえ生返事すぎひん!?もうちょい興味持ってくれてもええやん!」

 いや、治くんの事よりまずは自分の進路の事だ。ううん、と調査票を睨みつけながら、同級生に向けて虫を払うように手を動かした。いいから早く部室に行けという意思表示だ。
 どうやら意思は十分伝わったらしい。「も〜!ほな先行くわ!」と彼女はそそくさと去っていた。そんな彼女に今度はヒラヒラと手を振ると、再び進路希望調査票へと向き直る。

 進路。将来。私の、未来。

 中学の時から、進路希望調査票を埋めるのは嫌いだった。自分の病気をきちんと知ってからは自分の将来を考えるなんて、無意味だと思っていたからだ。どうせうまくいきっこない。忘れてしまう脳みそなんて、会社に入っても使い物にならない。あの時の私は、そんな事を考えていた。
 今ではそんな事を考える事は無くなったけれど、不安がないわけではない。忘れていくならまだ前兆があるから対策がしやすいが、自分の場合は言われてはじめて忘れてしまっていることに気づく。そんな私が、希望の大学でやっていけるかなんて想像もつかないことだった。
 
 ましてや、東京の大学で、だなんて。

 ううん、と考えて、私は悩んだ末に県内の国立大学の名前を書いた。理系を選んだ理由などないが、せっかく理系クラスにいるのだから、理系の国立大学を狙うのもいいかもしれない。
 ガタリと席を立ち、教室を出て廊下を歩く。手のひらに持っているのは紙切れ一枚のはずなのに、なんだかそれがとても重く感じた。

「あれ、みょうじさんやん」
「あ…治くん」

 もう少しで職員室、というところで、治くんとばったり遭遇した。部活はどうしたんだろう、と視線を向ければ、治くんの手のひらには紙が一枚握られている。
 そういえば、迎えに来た同級生が治くんも教室に残っていたとか言っていたような。進路希望調査票と書かれた紙にああと納得する。それは向こうも同じだったようで「みょうじさんも進路希望調査票出しに来たん?」と首を傾げたので、私は首を縦に振った。

「みょうじさん、どこ受けるん?」
「え、あ、ちょっと!」

 ひょい、と治くんに紙を奪い取られ、私は思わず「急に何するの!?」と抗議の声を上げる。治くんはそんな私にチラリと視線を向けてから、意味ありげに「ふうん」と呟いた。

「国立やん。自分、そんな成績ええの?」
「まあ、一応…成績で狙えそうな大学を書いてるからね」
「ええ…マジか」

 治くんは、「こいつ本当に人間か?」と言わんばかりの顔で私をじっと睨みつめる。そういえば、倫太郎が宮兄弟は赤点常習犯だと言っていたような。この顔からして、勉強は苦手なのだろう。

「治くんは?」
「俺は大阪の専門学校書いたで」
「へえ」
「…なんで?とか聞かへんのな」

 治くんの言葉に、私の方が「なんで?」と言いかけて口を閉じる。治くんの表情からして、きっと既に誰かに「なんで?」と言われた後なのだろう。それが一人なのか、複数人なのかは分からないが、きっと治くんはその言葉が嫌だったのだと思う。
 
「治くんの進路なんだから好きにしていいんじゃないかな」

 それは、自分の本心でもあった。いざ言葉にしてみると、より自分の書いた紙切れが無意味なものに思えてくる。好きにしていいはずなのに、結局自分は自分の好きにできていない。
 治くんは、私の言葉にポカンと呆けた顔をしてから、耐えきれないとばかりに口元を緩め笑い始める。そんなにおかしいことを言っただろうか。不安に思っていると、治くんは「みょうじさん、角名と同じこと言いよる」とニヤリと口角を上げた。

「俺、バレー部やん。ツムもプロ入り目指しとるから、俺もそうやと思われてたみたいやねん」
「え、うちのバレー部ってプロ入りできるほど凄いの?」
「なんやそこからかいな」

 治くんはとうとう腹を抱えて笑い出した。「みょうじさんと話してるとなんやほっとするわ」と褒め言葉なのか分からない言葉をいただいた。きっと治くんは「どうしてバレー続けないの?」と聞かれたんだろうな。
 
「ねえ、どこの専門学校にしたの?」
「調理。将来めしの仕事したいねん。食べるんもめしも好きやから」

 好き。その言葉に、私はハッと顔を上げる。治くんは、いっそ眩しいくらいの笑顔で堂々とそこに立っていた。その笑顔を見ていたら、何だか自分の紙切れがより無意味なものに思えてくる。決断できる彼が羨ましいとすら感じてしまった。

「その、さ。不安とかないの?好きだけじゃうまくいかないかもしれないでしょ?」
「んー、あんま考えたことあらへん。不安よりも、挑戦してみたい思う方が先やな」
「挑戦…」
「そ。俺は、挑戦せんで後悔するより挑戦して後悔したいねん」
 
 挑戦。その言葉がストンと落ちる。治くんの言葉には「挑戦してみてもいいかな」と思える何かがあった。そっか、挑戦。挑戦してみるのも、いいかもしれない。

「…私さ、本当は東京の大学行きたいんだよね」
「東京?えらい遠いな。音楽続けんの?」
「うん…そうしたい、んだけど」
「ええやん。みょうじさんだって挑戦してみても。だってこれ、俺らの人生やで」

 「ちなみに今の言葉、角名の受け売りな」と治くんはおかしそうに笑う。そうだよね、挑戦してみてもいいかも。「私、書き直してくる」と言えば、治くんは「おん」と頷いた。

「あ、でもそれ、角名は知っとんの?」
「え、何で倫太郎?」
「あー、いや、なんでもあらへん」

 じゃあな、とヒラヒラと手を振り職員室へと消えていく治くんを見送り、私は教室へと戻る。もうすでに、迷いはなかった。国立大学の文字を消し、紙にシャーペンを走らせる。
 第一志望に書かれているのは、東京の音楽大学の名前。
 書き終えた紙を持って、私は再び廊下を歩く。手のひらにあるその紙は、先ほどの重さがまるで嘘のように軽かった。

20230428



back