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「ねえ、なまえ。東京の大学受けるの?」
「え?」

 進路希望調査票を出したその日の部活終わり。帰路に着きながら、倫太郎が真面目な顔をしてそう言った。進路の話したことあったっけ。どうやら考えていたことは筒抜けだったらしく倫太郎は「治から聞いたんだけど」と続ける。
 おそらく、職員室前で会った時のことだろう。「一応、そのつもり」と頷けば、倫太郎は難しい顔をして黙り込んでしまった。

「倫太郎は?志望校どこ書いたの?」
「…大阪の大学、かな」
「そうなの?てっきり愛知かと思った」

 素直な感想を告げれば、倫太郎は難しい顔をしたまま「うん」と呟いた。その表情は、何かを考え込んでいるようにも見える。「どうしたの?」と声をかけるよりも先に、口を開いたのは倫太郎で、彼はその顔をこちらへと向けた。

「なまえは、さ。何でその大学選んだの?」
「…本当はね、県内の大学行こうと思ったんだけど。挑戦してみたくなったんだよね」
「挑戦…」
「うん。東京の音楽大学にすごいトロンボーン奏者の人がいてね。その先生に習いたいなってずっと思ってたから」

 サア、と秋風が倫太郎の髪を揺らす。倫太郎は何か言いたげに口を開いたけれど、きゅっと一文字に閉じてから、小さく「そうなんだ」と口の中で呟いた。
 
「将来はプロになるの?」
「どうかな。そこまでは決めてないけど、オーケストラは元々興味があって。いつかそこで演奏してみたいとは思うかな」

 オーケストラに入団だなんて、とんでもなく狭い門なことは分かっている。夢のまた夢だと分かっているけれど、奏者としては憧れずにはいられない。
 倫太郎は、そんなことを告げた私からそっと目を逸らした。夢を見過ぎだと思われただろうか。慌てて口を閉じると、倫太郎は、少し考えるそぶりを見せてから、今度は真っ直ぐとこちらを見つめた。
 
「行かないで、って言ったら、なまえは怒る?」

 サア、と再び私たちの髪を秋風が揺らす。思わず立ち止まった私に、倫太郎は同じく足を止めた。その表情からは、倫太郎が何を考えているのか分からない。

「怒らない…けど、困る」

 これも、私の素直な言葉だった。倫太郎は「そう」とだけ呟くと、一人改札を潜る。どうやらいつのまにか駅まで着いていたらしい。私は慌てて倫太郎の背を追いかける。

 この日から、私と倫太郎は会話をすることはおろか、学校で会うことすらなくなってしまった。

 
▽▲▽


 中間試験も終わり、あっという間に校内は三者面談の期間へと移る。この週は授業も早めに切り上げられることから、部活の時間が増えるため部員たちはいつも以上に部活に精を出していた。

「なまえ先輩の音、なんか変や」

 パート練習の途中、後輩がぽつりと呟いた。思わず「え」と言葉を落とせば、「いつもの先輩の音やない!」と今度は声を張り上げる。その声に驚いた部長が「お前うるさいねん」と彼女の頭を小突く。あたっ!と叩かれた本人は叩かれた己の頭を撫でている。

「でも、私も同感やわ。なまえ、悩み事でもあんの?」

 空元気みたいな音してるで、と今度は先輩にまで指摘され、私はぐっと言葉を詰まらせた。「すみません」と謝れば、先輩はそれ以上聞いても私が口を開かないと思ったのか、なお騒ぐ後輩の隣で「…まあええけど」と強制的に話を終える。その気遣いに感謝しつつも、己の腑抜け具合に肩を落とした。
 
 理由は分かっている。何故だかあの日から、倫太郎に避けられているからだ。

 避けられている理由はおそらく、進路の一件。あれは完全に失言だったな、と己の行動を振り返っては落ち込む日々を過ごしていた。「困る」だなんて、今までの倫太郎を忘れていた自分が言えた言葉ではないのに。
 けれど、あの時咄嗟に「困る」と思ったのは、その言葉が迷惑だと思ったからではない。むしろその逆で、嬉しいと思ってしまう自分がいたからだった。同時に、倫太郎と一緒にいる事を選ぶか、自分の挑戦を選ぶかを決められない自分もいた。
 進路を妥協しようとした時は、あっさり挑戦へと思考を変えられたのに、対象が倫太郎になった瞬間、彼という存在を切り捨てたくないという気持ちが芽生えてしまった。私の中にあった小さな蕾は、いつの間にか花開いてしまったらしい。

 ーー私、倫太郎の事、好きなんだ。
 
 それに気づいてしまってからは、毎日が上の空で大変だった。試験に影響してはいけないと力を入れ、部活にも力を入れる。けれどどうやら、力を入れすぎていたらしい。その結果、後輩にも先輩にも心配される始末。コンクールは目前だというのに、何をしているんだろう、私。

「なまえ、今日この後面談やろ。せめてそん時だけはしゃきっとせぇよ」
「…はい、すみません」

 先輩から向けらせる心配の目に居た堪れなくなっていると、同じクラスの同級生がひょっこりと顔を出す。どうやら時間よりも早く終わったらしい。
「なまえのママもうクラスんとこ来とったで〜」と指をさされ、私は慌てて楽器を置いて教室を飛び出した。

 教室へと着いてからは、母親と私の戦いだった。担任は「みょうじなら行ける思うけどなあ」と調査票を見つめながら言ってくれたものの、母親からしたら県外の、しかも新幹線で行くような遠い距離だ。事前に話していたとはいえ、やっぱり納得がいっていない様子で座っている。
 結局、その場は「まあまだ志望の段階やから、もう少し親子で話してもええんとちゃいますか?」と担任が締めくくったことで、私と母親の会話も一度途切れる。そのまま教室を後にした私と母親の間には沈黙が広がった。

「あの、なまえのお母さん…ですか?」

 そんな私たちに声をかけたのは、倫太郎だった。久々の顔に、私が驚いていると、私以上に驚いた母親が「そう、だけど…もしかして倫太郎くん?」と声をかけている。久しぶりね、そうですねなんて繰り広げられている会話がどこか遠くに聞こえ、私はそっと二人から視線を逸らした。

「そうだ、倫太郎くんからも言ってやってくれないかな」
「え…?」
「この子、東京の音大行くって聞かなくて。ほら、音楽だけで生きていくのって大変でしょう?」

 母親の言葉に、私はぐっと唇を噛み締めた。そんなの、私が1番よく分かっている。けれど、母親が素直に心配してくれていることも分かっている。
 倫太郎は「はぁ…」と小さく相槌を打つと、そんな私をチラリと見つめてから「まあ、そうですね」と呟いた。ああ、やっぱり倫太郎もそう思っていたんだ。段々と視界がぼやけていく。あ、やばい、泣きそう。

「でも説得は無理だと思います。俺も東京の大学行くんで」

 倫太郎の言葉に、私は目を見開いた。母親は驚いているのか「え、倫太郎くんも東京の大学なの?」と目を見開いている。え、待って、聞いてない。
 だってあの日倫太郎は大阪の大学に行くって言っていたのに。思わず倫太郎へと視線を向ければ、彼は安心させるように口を開く。

「俺も、バレーするために東京行こうと思ってるんで」
「そう。倫太郎くん、バレー部だものね。稲荷崎、強いんでしょう?」
「はい。でも、稲荷崎は吹奏楽も凄いですよ」

 母親は、倫太郎の言葉に「そうだけど」と言葉を濁す。どうやらここに味方はいないと気づいたらしい。とうとう言葉を詰まらせた母親に、倫太郎はいつもの澄ました顔で言葉を続ける。
 
「それに、なまえが東京にいるならって、俺の両親も安心してくれるんです」

 何それ、聞いてないよ。じっと倫太郎を見つめていれば、母親は少し考えてから「…そうね、倫太郎くんがいるならうちも安心かな」と笑った。
 そのまま踵を返して背を向けた母親を見て、倫太郎は私に向かって小さくVサインをしてみせた。
 何それ。ほんと、馬鹿じゃないの。まるで、私のために進路を変えたみたいに聞こえるよ。
 都合のいいように考えてしまう私は、やっぱりどこか腑抜けているらしい。ポロリと落ちた雫には気づかないふりをして、私は倫太郎に小さくVサインを返してみせた。

20230429



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