08
 その後の練習は散々だった。誰が見ても集中できていない俺に、尾白さんにからは心配を向けられ、北さんには「体調悪いなら帰れ」と言われる始末。体調は悪くなかったので、結局練習には最後まで参加した。

 明くる火曜日。
 俺たちは昼食を終えると、早々に教室を出て7組へと向かった。そこには昨日は見かけなかった顔がいて、無意識にほっと胸を撫で下ろす。

「みょうじさん呼んでくれる?」

 以前も声をかけた女子生徒に同じように声をかけると、彼女も覚えていたようでああと納得した顔で「なまえ〜」と大声で彼女の名前を呼んでいる。それに対し、自席から動かず大声で「なに〜?」と返事を返しているあたり相変わらずのようだ。

「あれ、えっと」
「宮侑や!一回で覚えろや!」

 俺らの存在に気づいて声をかけようとしたみょうじさんは、侑の顔を見て目を泳がせる。吠える侑の後ろで、治と銀が「こりゃあ想像以上やな」と絶句していた。彼女は気にしていない様子で「そうだそうだ宮くん」と頷いている。

「で、何の用?」
「……」

 侑の顔にでかでかと「こんなやつに謝んの?」と書かれているのが分かるくらい、侑は顔を歪ませてこちらを見る。いいから謝れ。俺がじっと見れば、侑は降参したかのように口を開いた。

「練習邪魔して悪かったな」
「え?」
「せやから、絡んで悪かった言うてんねん!」

 「あとついでに頭ニワトリ以下言うたのも」と、侑は口を尖らせてさも不服ですと言わんばかりの表情を向けている。俺は光の速さで容赦なくその頭を叩き落とした。もっとちゃんとやれ。「え、なに?なに?」と首を傾げるみょうじさんは、目の前でなにが起こっているのかよく分かっていないようだった。
 突然頭に衝撃を受けた侑は「なにすんねん角名ァ!」と大声で叫ぶ。うるさい、いいから謝れ。俺の圧に耐えきれなくなったのか、侑はだんだんと体を縮こませ「すみません、でした」と頭を下げた。
 侑の90度曲がった体を見てみょうじさんはぎょっとした顔を向けている。けれど、ようやく状況が理解できたのか、困ったように眉を下げて「別にいいのに」と笑った。

「私が顔と名前一致しないの、本当のことだし」
「お前、俺のことも覚えてへんしな」
「侑黙って」

 侑を睨みつけると、治がさっと侑の口を押さえる。もごもごと騒いでいる侑を無視して「ごめん」と謝ると、なぜか申し訳なさそうな顔をしてみょうじさんは笑った。こちらに気を遣わせたとか思ってるんだろうな。そんなことないのに。
 みょうじさんは「私も酷いこと言って殴ろうとしてごめんね」と侑に頭を下げる。
 突然謝られた侑は、「お、おん…」と治の手の中でくぐもった声を出す。まさか相手も謝ると思っていなかったのだろう。みょうじさんはそんな侑の返事を聞いて安心したような笑みを浮かべると、「じゃあこの話はこれでおしまいね」と手を叩いた。

「えっと、なんかみんな知ってるみたいだけど、改めて。みょうじなまえです」

 ぺこりとお辞儀したみょうじさんに、全員が目を瞬かせてから、ああと納得する。たしかにきちんとお互い挨拶したことはなかったな、と各々自己紹介をしていけば、みょうじさんはどこかほっとした表情を向けた。

「というか、何でお前俺らのこと覚えてへんねん。吹奏楽部員やろ」
「コンクールメンバーは、バレー部の応援参加してないんだよね」
「そうなん?」
「だからバレー部のこともよく知らなくて。自分のことで精一杯というか」

 そういえば、侑と喧嘩していた彼女の後輩も、喧嘩の時どこか切羽詰まったように「練習の邪魔をするな」的なことを言っていた気がする。うちのバレー部も相当だけど、吹奏楽の世界も相当厳しいものなのかもしれない。

「あ、そうだ。これ食べる?」
「なんやこれ」
「知らない?しるこサンド」

 手に乗せられたのは、小さなビスケットのようなお菓子だった。「はじめてみるわ」と治と銀は珍しそうに見ながらお菓子を摘む。よく実家で食べてたっけ、と懐かしんでいると、ばちりとみょうじさんと目が合った。

「これ、みょうじさんのおじいさんよく食べてたよね」
「えっ?あ、うん」

 なんだか懐かしくなってついポロっと言葉が出た。何気なしに言った俺に、3人は「こいつまじか」と言いたげな視線を向ける。みょうじさんも少し驚いたようにこちらを見ていたが、祖父母の家を思い出しているのか懐かしそうに目を細めた。

「しるこサンド好きなの?」
「うん、好き。ポッケにも入ってるし、なんなら袋で持ってきてる」
「なにそれ、想像以上なんだけど」

 思わずふは、と俺の口から笑みが溢れた。なんだ、やっぱりなまえはなにも変わっていない。俺のことは覚えていなくても、みょうじさんはなまえのままだった。

「あの、さ。角名くん」
「なに?」

 あー、と言い淀んだみょうじさんは、視線を左右に忙しなく動かしている。きっと、W覚えていなくてごめんWとか、そう言いたいのだろうなと思った。

「いいよ、気にしてない」
「え?」
「俺だって思い出せないこととかあるし。そもそも、小さい頃の記憶なんて明確に覚えている方が珍しいじゃん」

 どこか納得のいっていない顔を向けるみょうじさんに気づかないふりをして、俺は彼女の後輩の言葉を思い出す。やはり何度思い返しても意味はわからないし納得はいかないが、W思い出は覚えているWという言葉を少しだけ信じてみることにした。

「今度さ、またバレーの話してよ。今ならWふーんW以外の言葉返せるからさ」

 あの頃は、バレーなんて1つも分からなくて、彼女の話に相槌を返すので精一杯だったけれど。今ならルールだって完璧だし、なにより今俺は、なまえのW1番好きWなポジションだ。
 みょうじさんは俺の言葉にハッとしたようにこちらを見た。その口から俺の名前を呼ぶことはないけれど、ようやくパズルのピースが合ったかのような、そんな顔を向けている。

「…角名くんって、Wドシャットする選手W?」
「そう。Wドシャットする選手W」

 みょうじさんの言葉に俺が肯定してみせると、彼女はぱあ、と顔を輝かせて「そっか…そっかあ!」と何度も頷いた。その笑みに今度は俺が驚いて、思わず固まる。そんなに嬉しそうに笑ってくれるのか。じわじわと胸が熱くなる。
 侑や治は「はあ?」と訳がわからないと首を傾げていたが、銀はいい雰囲気を感じ取ったのか「よかったなぁ角名」とニコニコ笑っている。俺は、そんな3人が気にならないくらい、嬉しさを噛み締めていた。やばい、口元がニヤけそう。慌てて片手を口元に持っていくけれど、その手の中でだらしなく口元が緩んでるのが自分でも分かった。
 別に、この会話の意味は俺とみょうじさんだけが分かっていればそれでいい。再会してはじめて向けられた笑みを忘れないように目に焼き付けた。彼女の笑みの理由が、自分の気持ちとは違うのだとも知らずに。

20230308



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