階段を曲がろうとした時に聞こえたのは「待てやクソツムゴラァ!」という怒鳴り声。そのすぐ後に「誰が待つか!」と叫んだ声に重なるように聞こえたドスッという音と、左肩が後ろに弾かれる感覚。あ、今誰かとぶつかったな。そう思った時には私の体はぐるんと反転し、足は宙に浮いていた。
 ――あ、やば、これ落ちる。
 肩がぶつかり、体が反転したことによって背中から落ちた私の視界には目を見開く金髪の男。あ、なるほど、ぶつかってきたのは侑だったのか。こういう時、スローモーションで見えるって本当だったんだなあ。そういえば、ぶつかる前に誰かが侑の名前を叫んでいたような気もする。

「う、おッ!?」

 次にくる衝撃に備えて目を閉じた私の背中越しに聞こえた驚いた声と、私の体を包むぬくもり。それが誰かの腕だと気づいた瞬間、ドスンと大きな音がして私は思わず衝撃に耐えるように身を縮こませた。
 
「ナッ…ナイスキャーッチ…」
 
 想像していた痛みはなく、代わりに感じたのはぎゅっと抱きしめられる感覚。頭上から侑の気の抜けた声がして、ハッと目を開けた。
 床に尻もちをついた状態で、顔を覗き込むようにして目を見開く銀髪の男。あ、これ双子の治くんか、と脳が理解した頃、ようやく自分が抱きしめられていることに気がついた。

「ご、ごめん!受け止めてくれてありがとう!」

 慌てて退こうと体を捻る。すると、より一層体を包む腕に力が入った。まるで逃がさないといわんばかりの締め付けに、私の口から「ぐぅっ…」と情けない声が出る。あの、もう大丈夫です。離して、という意味を込めて腕を数回叩いてみたが、治くんは全く反応しない。それどころか、私をより一層ぎゅっと抱きしめたかと思うと、あんぐりと口を開けて言ったのだ。

「は、離したくあらへん…」

 …はい?

△▼△


 そんな出来事から、早くも一週間が経った。
 運動部が多い二年二組は、朝からやたらと騒がしい。今日も朝から運動部は元気だなぁと机に顔を伏せていたら、隣の席でガタリと音がした。

「はよーっす」
「……」
「おいコラ無視すんな」
「イッッタ!?」

 机に伏せて寝たふりをする私の頭をがっしりと掴んだ侑は、そのまま頭を起き上がらせるように手首を捻らせる。イダダダと涙目になりながらも無理やり上げられた顔。そのすぐ正面には侑がこれでもかと眉を吊り上げて立っていた。

「おはようくらい返さんかい」
「いや寝てる人起こすのはどうかと思う…」
「はあ?名字寝てたん?」
「いや起きてたけど…」
「ならええやん」

 私の頭を掴む手に力を入れた侑は、「そんなことはどうでもええねん」ともう一つの手で頬をペシペシと叩く。おま、ふざけんなよ。こちとら女子だぞ。

「それよりほれ。早くあれなんとかせえ」

 私の頬を叩いていた手で顎を掴んだ侑は、そのままぐりんと私の頭を90度曲げた。予想していなかった行動に、私の首は素直に動き、強制的に視界が変わる。
 目を向けられた先は教室の入り口だった。そこには治くんがチラチラと教室の中を窺っている。教室のドアの前に180センチ越えの男が立っているのはどこか威圧感があるのか、教室に入ろうとした生徒が肩を揺らして後ろのドアへと逃げ込んでいるのが見えた。
 ゲッ!と顔を歪める私に、侑は治くんをチラリと見て「お前が寝てるんちゃうかってあそこでウジウジしとんねんキッショ」と嫌そうに眉を寄せた。

「…治くん、ここのところ毎日来てない?」
「せやなぁ。どっかの誰かさんが1週間逃げ続けてるからなぁ」

 侑の言うとおり、私は1週間前治くんに階段で受け止めてもらってからというもの、彼を徹底的に避け続けている。なんだか顔を合わせづらかったからだ。反対に、治くんはなぜだかあの日から毎日私のクラスにやって来ている。

「なんで私なのかなぁ」
「知らん。けど、治のよう分からん性癖目覚めさせたんはお前やろが。責任取ってどうにかせえ」
「性癖…?」

 性癖って何?どういうこと?と、再びチラッと治くんへと目を向けると、こちらの様子を伺っていた治くんは私が逃げようとしていないとわかったのか、ズカズカとその長いコンパスで歩き出す。
 あっという間に私の目の前に現れた治くんは「名字さん、寝てたん?おはよぉ」とほわほわした声で言った。それにおはようと返せば、視界の端で侑がうげぇと舌を出し、顔を背けたのが見えた。

「ん!」
「…ん?」
「やから、おはよぉ」

 うん、それはさっきも聞いたな。私の挨拶聞こえなかったかな。もう一度おはよう、と口を動かそうとすると、そんな私を制するように治くんは「ん!」と声を出し、己の両腕を広げてみせた。
 え、なんで?どうして両腕を広げているの?思わず首を傾げた私をみて、治くんは眉を下げて「来ぉへんの?」と言った。来る?どこに??訳がわからず治くんの腕を見つめて口を閉ざしていると、教室にやってきた担任が治くんを見て「宮〜クラス間違うてるぞ〜」と名簿で治くんの頭を叩く。しょんぼりとしたままクラスに帰っていった治くんを見て、私は最後まで首を傾げていた。

△▼△


 それからというもの、治くんの不思議な行動は続いた。
 購買の列が前後になった時、食堂でばったり会った時、廊下ですれ違った時。数えたらキリがないが、つまり治くんと顔を合わせる度、必ず彼は「ん」と己の両腕を広げるのだ。
 最初は訳が分からず「どうしたの?」なんて話しかけていたのだが、その度に治くんは「…なんでもあらへん」と首を横にふる。だというのに、眉は八の字を描き、口はきゅっと結ばれている。まるで捨てられた子犬のような表情をする治くんに、頭上にクエスチョンマークを並べたのは記憶に新しい。
 彼は両腕を広げて待つことはあるが、自ら抱きしめてくることはないので、最近では気づかないふりをして流しているが、正直困っている。
 友人に相談しても、彼女たちも笑って流すだけ。むしろ、何がダメなの?と言いたげだ。「なんで。イケメンにハグされるんやったらむしろラッキーやん」とは、実際に友人に言われた言葉だったりする。

「実はハグの要求ではなくて、彼なりの威嚇だった説を唱えたい」
「いや、あれはどうみても威嚇ではないわ」

 コアリクイかっちゅうねん、と友人は他人事のように笑っている。いや、実際他人事なのだろう。確実に面白がっている。知ってた。
 侑も侑で、私の顔を見るなり「ハグくらいええやろ。あいつ家でもうるさいねんぞ」と嫌そうに言ってくる。実際、両腕を広げる彼の顔は威嚇している表情とは程遠い。分かっている。

「ええやん。一回捕まってみたら?」
「ええ…」
 
 だって、両腕を広げる治くんの威圧感はすごい。つい先日、熊が立ち上がって同じようなポーズをしている動画を見たけれど、高身長も相まってなんだか治くんに似ている気がした。あの腕の中に入ったら無害そうな表情を一転させてパクリと食べられてしまいそうだ。

「あ、ほら。噂をすれば」

 友人が指差した先には、治くんと角名くんが仲良く向かいから歩いて来ていた。治くんの腕の中には購買で買ったとは思えない量のパンが抱えられている。きっといろんな人から貰ったのだろう。ホクホクと満足そうに歩く姿はやはりどこか熊っぽいなと思った。

「あ!名字さん!」

 私の姿を視界に捉えた治くんは、次の瞬間勢いよく両腕を広げる。無自覚に広げていたのか、彼の腕に積み上げられていたパンがボトボトと音を立てて廊下に散らばった。「あーあ」と、角名くんの呆れた声が聞こえる。パンが落ちたと言うのに、治くんの視線はまっすぐと私に向いていた。

「ね、ねえ。なんで目が合う度両腕広げるの?」

 もうそろそろ気づかないふりも限界だ、とずっと疑問に思っていたことを治くんに告げる。すると、彼はきょとんとした顔をしてから己の両腕と私を交互に見た。

「やって、ふわふわしてたから」
「…ふわふわ?」
「おん」

 焼きたての食パンみたいな、と治くんは手をぐーぱーと握っては開く。えっと、つまり、どういうことだ?と首を傾げる私に、「それに」と治くんは続けた。

「落ちてきた名字さん受け止めた時に、なんや胸がじんわりあたたかくなった気ぃして」
「…うん?」
「何でやろなーって考えても答え見つからんくて。ならもう一回ぎゅってすれば分かるかもって思て」

 しいていうならそれが理由?と、治くんは瞳を再びこちらに向けた。治くんの瞳は真剣そのもので、私は思わずその瞳をじっと見つめた。まるでこの瞬間、この場所には治くんと私だけしかいないような錯覚さえ感じる。

「なあ、もっかいぎゅってさせて?」

 こてん、と治くんの首が傾いたのを合図に、私の腕が吸い寄せられるように治くんの腰へと伸びた。彼との距離は、あと。


やわらかくて、あたたかい