「あ、どうもこんにちは」
「はあ…どうも…?」
いつも通りやってきた屋上で、なぜかフェンス越しにお互いぺこりと首を動かしていた。いや、これどう言う状況なんだろう。普段ならば見なかったふりをしてやり過ごすのだが、今まで屋上を利用していてこんな状況になったことがなかったので、驚いてつい返事をしてしまった。
フェンスの内に俺、フェンスの外には女子生徒。本来ならば慌てて止めに入るような場面でも、めんどくさいなと思ってしまうのは自分の性格ゆえだろうか。
「……とりあえず、こっち来たら?」
「……?」
フェンスの外、屋上の縁に座り込んでいる彼女に向かって手招きをする。こっち、とはフェンスの内側という意味だったのだが、彼女はフェンスをよじ登ると、なぜか俺の側まで寄ってきた。いや、別にこっちに来いって言ったわけじゃないんだけど。ひときわ大きく吹いた風が、俺と彼女のあいだでビュウと音を立てる。
まあどうでもいいか、とぽけっと立っている彼女を気にせずにフェンス側に座りこむ。彼女は俺が座るまでをその目に映してから、パチパチと数回瞬きして、俺の隣へ座り込む。
いや、なんでだよ。
俺の隣に、体育座りで座り込んだこの女子生徒を、俺はよく知っている。名字名前、同じ2年1組の生徒だ。クラスではよく陸上部の女子と話していて、仲は良さそうだった。彼女自身も陸上部に所属しており、高跳びをしている姿を何度か見かけたことがある。
「名字さ」
「なに?」
「…えーと。なにしてたの?」
「…、…?」
俺の問いに、彼女は心底分からないといったように首を傾げている。いやいや嘘だろ、この女。狂ってるのか、と言いたくなったけれど、そもそもフェンスの外にいるような人間なのだから、あながち間違いでもないのかもしれないと思ってしまう。「だから、フェンスの外で何してたの?」と問えば、彼女は合点がいったかのようにああ、と頷いて体育座りのまま顔を少しだけ上に向けた。
「角名って、部活入ってるんやったっけ?」
「ああ、うん。バレー部」
「そおか」
うんうん頷く名字に、俺は早々に話しかけたことを後悔していた。まるで会話が噛み合わない。もういいじゃん、彼女がなんで外にいたかなんて、聞く必要なくないか?
「角名って、試合中に高ーく飛んだ時、何考えとる?」
「…特に何も。点入ればいいなあくらい」
本当はもっと色々なことを考えているけれど、彼女に話したところで意味はないだろう。俺の考え通り、名字は「そっかあ」と興味がなさそうに上を見上げたままだ。どうせ空を飛んでいる鳥を見ているんだと思う。
「私はさ、高跳びする時、もっともっと高く跳びたいって思うんよ」
「へえ」
「角名は背が高いし、あんまそないな事考えたことあらへんのかもしれないけど」
高く飛びたい。その気持ちはなんとなく分かる気がした。相手のスパイカーの攻撃が、めいいっぱい伸ばした手のさらに上を行った時。あと少し高く飛べていればと思わないわけではない。
「…えーと、つまり。高く跳びたいからフェンスの外にいたってこと?」
「うーん、ちょびっとあたりやけど、ほとんどハズレや」
さすがに発想がぶっ飛んでないか、と思いながら導き出した答えは、どうやら違ったらしい。100点中10点くらい!と両手を広げた彼女に、げんなりとする。なんか、もうめんどくさいからいいや。とりあえず適当に終わらせようと「で?」と催促する。
「私は、ここから落ちたらどのくらい気持ちええんかなと思っただけやで」
思わぬ解答に、俺は目を瞬かせる。自殺願望者か?と思わなかったのは、おそらく今までの会話があったからだろう。
「高跳びって、その名前の通り高く跳ぶ競技やん。ほんで、高く跳べば跳ぶだけ、落ちるっちゅうわけやん」
「まあ、そうだね」
「跳んだ高さがな、地面に遠ければ遠いほど、ずっと上を見上げてられんの。ずっと青空みてられんねん。せやから、高く跳びたいねん」
なるほどな、と一人頷く。彼女は侑タイプだったらしい。これを言うと侑に怒られるかもしれないが、彼女はおそらく好きなことにはネジ3個くらい外れたバカになるタイプだと思った。そりゃあ話も噛み合うはずがない。
「あ、ところで角名」
「なに?」
「その昼飯、私に分けてくれたり…」
「しない」
なんでなん!と騒ぐ名字を無視して、今朝コンビニで買ったサンドイッチを頬張る。ちょびっとだけ!お願い!と手を合わせる彼女は、数十分前まで屋上で飛び降りようとしていた女子生徒には見えなかった。
「で、それが今の彼女」
ファミレスの一角。ポテトを摘みながら言った俺に、目の前の男どもは「はあ?」と首を傾げたり驚いた顔を向けたりと、様々な反応を返している。
事のきっかけは、侑の「何でお前ら付き合うたん?」という一言だった。3年の春高を終え、らしくもない思い出話に花を咲かせていたところ、「そういえば、角名の彼女応援きとったな」と銀がこぼしたからだ。
「俺はバカやないやろがい!」
「そこなん?」
侑のツッコミに、銀が苦笑いを向ける。「侑がバレー馬鹿なんは合うてる」とすかさず治の言葉が入る。
「せやけど、クラスでの名字とだいぶ印象ちゃうなあ」
「ああ、話せば普通だよ。高跳びの話になると頭おかしくなるだけで」
侑は人でなしだけどね、とわざわざ付け加えると、侑は「ハァン?」とこちらを睨みつけてくる。その言葉に誰も否定しないあたり、すでに周知の事実だ。
「青空見たさに屋上か。おもろい奴やなあ」
「ずっと寝っ転がってれば青空なんてなんぼでも見られるやろ」
「落ちる時に見える青空がいいらしいよ」
ストローに口をつけながら彼女がそう言っていた時の顔を思い出す。あれはこの世で一番の好物を目の前にした時のそれだった。「気持ちいい瞬間ってやつ」と加えると、三人からはああ、と納得したような返事が返ってくる。
「まあ、分からんでもないわ。俺も、俺が最高のトスしてスパイカーが最高のスパイク決めた瞬間、わって血が湧き上がる感覚するし」
「侑って、自分がやったわけじゃないのに、自分がブロックかわしてスパイク決めて点取りましたってくらい盛り上がるよね」
「当たり前やん。俺が決めた点やもん」
侑はケロッとした顔でコーラを飲んでいる。いつも思うが、そういうところでは。こんな会話をしているというのに、周りの席からは侑に視線がチラチラと向いている。どうしてこんな奴がモテるんだか。
「まあでも、角名と付き合うてるんやし、さすがにもう屋上行ってへんやろ」
「…いや、まあ…」
言葉を濁してげんなりとした顔を向ければ、銀は驚いたように「えっ!行ってんの?」と少しだけ声を大きくした。
そう、名字は、その肩書きを彼女と変えてからも、その奇行は止まっていない。「今日のお昼は屋上集合ね!」と連絡が来る度にヒヤッとしてしまう。3年になった今でも、彼女の高跳びへの熱は燃え上がったままだ。
「それでも、まあいいかなって思って」
はじめて彼女が跳んだ瞬間を見た時。跳んでから、落ちるまでの数秒間。彼女は視界いっぱいに青空をとらえて、満悦そうに笑っていた。その瞬間は、残念なことに俺の愛用のスマホに収められてはいないけれど、ワンシーンを切り抜いたかのように鮮明に思い出すことができる。
「なんや、角名。ベタ惚れやん」とつまらなそうに侑が言った。まあね。名字の奇行も、向上心もなにもかも、俺だけが知ってればいいんだよ。