「名前、侑くん来てるよ」
「侑?知らん人ですね」

 手元から視線を動かさずにコンマ1秒で返事を返した私は、手元のパンに齧り付く。目の前でそう言った友人は、「またか」といわんばかりの呆れた顔でこちらを見ていたけれど、気づかないフリをした。

 私には、お付き合いをしている彼氏がいた。バレー部に所属している彼は、とても忙しい人だけれど、なんだかんだもうすぐ一年という付き合いだった。付き合ったきっかけは向こうから。侑曰く「なんか一緒におると楽」らしい。
 束縛を嫌う侑と、一人の時間が好きな私。世間一般でラブラブしているカップルに言わせてみれば、私たちの付き合いはおそらく良くてサバサバしている。悪く言えばそこに愛はあるのか、って感じ。でも侑も私も、好きという感情なしに付き合うほど見境無い人間ではない。いや、私はそうだけれど、侑もそうだったと信じたい。会いたい時には会うし、連絡を取りたい時は連絡もする。それらが気まぐれに行われるってだけの話だ。侑と二人ででかける時だって、いつもどちらかのその場の思いつきだ。
 侑は、バレーの邪魔をされるのを嫌う。歴代の彼女はそれが原因で振ったのだと聞いたのはいつだったか。でもそれはこちらも同じで。私にだってされて嫌なことはある。それは付き合うと決まった時に散々話し合っていたし、私たちのお付き合いは、お互いの嫌なことをしたら即別れるという条件付きでもあった。

 そう、だからこそ、いまこの状況が生まれているわけなのだけれど。

「おいコラ、連絡全部無視してんちゃうぞ」

 ドカドカと大きな足音を立てて目の前に現れた侑は、不機嫌丸出しの顔を隠さずにこちらを見る。席に着席している私と立っている侑とでは、必然的に私が見上げる形になる。まあ普段も背丈の差には敵わず首を痛めながら見上げているのだが。
 もぐもぐ、とパンを食べながら侑を見上げる。侑は「グゥッ」と胸を抑える仕草をしたかと思えば、「そんなんで騙されへん…!」とこちらを睨みつけている。いや、別に騙すつもりも話すつもりもありません。無言のままパンを食べ続けていると、侑は無言が耐えきれなくなったのか、だんだんとその凛々しい眉を八の字にする。他の女子であれば、その子犬のような顔にキュンとして「ごめんね」だなんて言っているのかもしれないが、私の正直な感想は「なんだその顔?」である。もぐもぐと食べていたパンを飲み込み、私は疑問をそのまま侑へとぶつける。

「やって、私たち、別れとるよな?」

 そう、私たちは別れているはずなのである。つまり他人。連絡を絶ったからといって、問題はないはずなのだけれど。もしかして侑の頭はそんな事実を忘れるほどにポンコツだったのだろうか。そう思ったけれど、どうやら侑も忘れてはいないようで、「そっ…れはそうなんやけど」と言葉を濁している。

「なんや、侑たちまた別れたんか」
「どうせまた原因侑やろ」
「ほんま学ばへんなあ」

 ケラケラと面白半分に笑うクラスメイトに、侑はしびれを切らしたのか「ちょおこっち来い!」と私の手を取り立ち上がらせる。突然のことにびっくりした私は、侑の力に敵うはずもなくずるずると体が引きづられていく。「なんだかんだ復縁するに購買のプリン!」「俺も」「私も」「いや、そんなん勝負にならへんわ」なんて楽しむクラスメイトの声を背に、私は教室を後にした。

「ねえ、これ何度目?」
「3…いや嘘。すまん。ちゃう。4度目、デス」
「せやね」

 屋上に続く階段に着くと侑は私の手をそっと離し、どかりと階段に座りこむ。私を見上げたその目は「はよ座れ」と訴えており、私は渋々その場に座り両足を抱え込む。ここは冷えるからあまり好きではないのだけれど、侑と私が何かを話す時はいつもこの場所だった。

「侑、付き合う時約束したやん。お互い嫌なことはしないって。したら別れるって」
「お、おん」
「私、侑のバレー邪魔したことないやん。それが約束やったやん」
「……」
「なあ、なんで侑は約束守れへんの?」

 私が侑と約束したのはたった一つ。「本を読んでいる間は邪魔しないでほしい」、ただそれだけだった。侑だって、それを了承した上で私と付き合っている。なんなら「そんなんでええの?」と驚いていたくらいだ。なのに、侑は付き合って半年ほど経つと、その約束を守らないことが増えた。当然キレた私は、「約束破ったら別れる言うたよな」と一度目の別れ話を切り出した。けれど、なんやかんや侑から「もう一度付き合うて」と散々付き纏われ、私が折れる形で「もうしません」と誓わせて復縁するを繰り返している。

「…もう俺んこと好きやなくなったんか」

 ようやく口を開いた侑が言ったのは、そんな言葉だった。好きじゃなくなったから別れたのか、と聞かれればそれは違う。それが私たちの約束だったから、別れた。そもそも、好きじゃなかったら復縁なんてせずに突っぱねているというのに、侑はそのことにすら気づかない。

「好きやで。今までも、今も。多分、これからも」
「…!」
「せやけど、約束やからなあ。私は侑との約束は破りたくないんよ」
「なんっ…可愛すぎか…!」

 再びグゥッと胸を押さえ始めた侑にはあ?と視線を向ける。付き合った当初はもっとドライな印象だったのだが、一度目の別れ話をしたあたりから、侑は奇行に走るようになったように思う。わざと本を読んでいる邪魔をしてみたり、本を取り上げてみたり。確か前回は本を隠していた。3度目はさすがに嫌われているのではないかと思ったくらいだ。なのに、侑は何度でも「もう一度付き合うて」と言葉にする。

「なあ、なんで侑は私との約束破るん?」
「…やって、好きな子が隣におるんやで?なのに本ばかり視線が合うて、俺には向けられへん」
「…はあ?」
「せやから、もっと俺にも構え言うてんねん!」

 ぐわっと言い切った侑に、思わず「ええ…」と呟く。つまりはこの男、本に嫉妬したということなのだろうか。驚きと同時に、ぶわりと何かが弾け、胸の中を満たしていく。やっていることは小学生のようだけれど、それでも「好きな子」の言葉に許せてしまうのは惚れた弱みだろうか。
 ふふ、と漏れた声に、侑がきょとんとした顔をこちらに向ける。ようやく私から明るい反応が返ってきたからか、その顔は先ほどの情けない顔から一点してぱあと花が咲きそうなほど明るい。この、幼さを残した侑の笑顔が、私は好きだった。

「せやけど、私たち今別れとるからなぁ」

 嬉しそうな顔をしているけれど、現実私たちは未だ別れたままだ。嬉しそうに笑う侑に、私は容赦なく現実を突きつける。侑はそれを思い出したのかはっとした表情をして、階段を二段、三段と下っていく。
 
「なら、もう一度付き合うて。そんで、約束を更新すんねん」

 侑は私と向き合う形で座りこむと、膝を抱えて首をこてりと傾けた。片手は膝を抱える私の手へと伸び、控えめに絡めとる。ここまではいつも通りの流れなのだけれど、今回は少しだけ言葉が違った。

「更新?」
「おん。別れるをなしにすんねん」

それは、私から言い出したくても言えなかった、私の一番望む言葉だ。ハッと顔を上げた私の瞳に、優しく微笑む侑が映り込む。

「なら、お互いが嫌なことをしても、別れなくてええってこと?」
「おん」
「その場でいややって言うて喧嘩してええってことやんな?」
「なんで俺がやらかす前提やねん」
「私がバレーの邪魔したことないやろ」
「…せやったな」

 苦い顔をする侑に、「せやろ」と笑う。耐えきれずに笑う私を見て、侑は痺れを切らしたように「返事は」と口を尖らせる。
 
「こちらこそ、よろしくお願いします」

 わざと丁寧にそう答えて、絡んだ指に応えるように自分の指を絡ませれば、侑は照れたように笑った。きっともう、私たちがこんな別れ話をすることはないだろう。




ゆびきりげんまん、あいしてる