月を知る夜
 マネージャー業務はやっぱり大変だ。
 ようやく慣れてきたはずのマネージャー業務も、場所が変われば勝手もやることも違う。それでいて、慣れない人たちと協力してやらなければならない環境は、私にとって少なくともストレスになっていた。それでも明日には解放されるのだからと眉間にシワを寄せながらも右へ左へ走る。そんな私を、ありがたいことにマネージャーのみんなは会ったばかりだというのに気にかけてくれて、それに救われ夜まで何とか持ち堪えることができていた。できていたのだけれど。

「もうムリ……」
 
 一日目、夜。私は今、戻るべき部屋に戻らず自販機と壁の隙間に挟まりながら蹲っている。私の心にとどめを刺したのは、いつものことながら知らない人たちと話さなければならない環境だったらしい。
 
 私が風呂から出ると、孤爪と犬岡と一緒に歩いていたオレンジ頭――もとい烏野一年の日向が歩いていて、日向は私に気づいてすぐに「アッ!谷地さんが言ってたマネージャーさんだ!」と声を上げた。なんで谷地さん?潔子ではなくて?と首を傾げていたら、「谷地さんがいい人って話してました!」と日向は笑う。どうやら谷地さんと日向は同じ一年生で仲がいいらしい。
 そこからはもう言葉の嵐だった。「俺、一年の日向翔陽です!」「何年生ですか?」「なんか雰囲気研磨に似てますね!親戚ですか?」孤爪が慌てて止めに入る頃には、私は顔面蒼白であったに違いない。あと孤爪と親戚ではない。言えないけれど。
 輝く瞳で私の答えを待つ日向を前に、私は言葉を発することなく彼らに背を向け駆け出した。文字通り逃亡である。

 そうして落ち着ける場所を探して辿り着いた自販機の隙間。私はひたすらイヤホンから流れる音量を上げる。風呂だからと持っていくか迷っていたスマホは持っていってよかったと断言できる。数十分前の自分、ナイス判断です。おかげで私の心は救われつつある。
 プレイリストから流れてくるのは、自分の歌ってみた動画だった。別に自分の歌声が好きとかではない。ただ、やっぱりこうして歌えている自分がいることで自信がつくのは事実だ。夜久をはじめとした、自分が誰かに認められているものが歌だという自信もあるのだと思う。

 どのくらいそこで蹲っていたか分からない。落ち着きつつある私の頭上に、大きな影が差した。え、嘘でしょ。もしかして消灯?慌てて顔を上げると、そこには見知らぬ顔が、少しだけ体を丸めて見下ろしていた。

「…ウワ……」

 声は聞こえなかったけれど、口の動きからして恐らくそう言ったのだろう。そのまま続けるようにして何かを言っていたが、イヤホンをしていた私には全く分からず、恐る恐るイヤホンを外した。

「……」
「……」

 沈黙。え、さっきまで何か言ってたじゃん。どうして急に黙るの。てか誰。
 こちらから見て分かるのは、長身だということと、金髪のような、明るい髪色をしているということくらい。キラリと目元が光って見えるのは、眼鏡だろうか。
 人から逃げてきたのに、逃げた先でもまた人に会うなんて。こんなの逃げてきた意味がない。この世は地獄です、なんて一人現実逃避をしていると、眼鏡男子は「あの、聞いてます?」なんて言って眉を顰めている。

「その足元の小銭、拾ってほしいんですけど」
「……え」

 足元、と言われてふと下を向く。慌ててスマホを床に置き、手で周りを探ると、私が蹲っていたお尻のあたりに小さな硬貨の感触を感じた。拾い上げて光に当てると、100円玉が顔を出す。どうやら彼はこれを落としたがために私を見つけてしまったらしい。イヤホン越しに話しかけてきていたのもこれが理由だったのか。
 無言でそっと摘んだ100円を彼に差し出すと、彼の手が自ずと伸びてきて、私は反射で彼の手のひらに硬貨を投げ捨てるように置いた。なんか汚いものを捨てるような感じになってしまったな、と一人後悔していると、彼は眉を顰めたまま100円玉をじっと見つめている。

「…ドウモ」
「………イエ…」

 こんなにありがとうがかけらも感じられない感謝を受けたことがあっただろうか。いや、多分原因は完全に私なんだけど。
 ピ、と彼が自販機を操作する音が頭上から聞こえ、私はその場で両足を抱え直した。なんとなく出ていくタイミングを見失ってしまったのだ。とはいえ、他校の部員が目の前にいるのにイヤホンをするのも、と変に意識してしまう。これ以上印象が悪くなれば、音駒の評価も落としかねない。

「…その曲」
「え?ああ」

  彼が視線をそっと下に下ろしたので、私も釣られるようにして視線を落とすと、自ら床に置いたスマホがチカチカと光を放っていた。それはまさに私がつい先ほどまでイヤホン越しに聴いていた音楽の動画――つまり、私の歌ってみた動画だ。
 思わず体が固まる。彼は別に、曲に反応しただけなのだから、原曲のことを言っているのだろう。私が歌っている動画を流していたのだとバレたわけじゃない。けれど、バレていないと確認しておきたいという気持ちが勝ってしまい、つい口を開いてしまった。「この曲知ってるの?」と問いかけた私に、「まあ、はい。兄が持っていたCDの中に入ってたので」と彼は律儀に返事を返す。

「…あの、もしかしてなんですけど」
「はい?」
「その動画で歌ってるの、貴方だったりしませんか」
「…いやあ何のことかさっぱり」
「はあ」

 終わった。私が流していた動画がそもそも原曲でないことはバレていたらしい。そりゃそうか、どう見てもこの動画は原曲のPVではない。そしておそらく、彼はこの動画を知っている。最初から原曲を聞いていないことはバレていたらしい。
 スン、と表情をなくし壁を見つめる。彼がなぜ私がこの動画の投稿主だと思ったのかは分からない。ただ、誤魔化すなら今この瞬間だと、私はシラを切った。私じゃないよ、知りませんよという気持ちを込めて放った言葉は、メガネの彼を呆けさせるには十分だったらしい。

「よく分かりませんけど。貴方、嘘下手ですね」

 渾身の誤魔化しは、彼の前では無意味だったようだ。チラリと盗み見た彼の顔は「お前だよな?」とどこか確信めいた表情をしていた。いやだって、まさか他校の人が私を知っているなんて思わないじゃん。この世に神はいないのか。

「…どうして私だと思ったの」
「いや、普通に声聞いたら分かりますよ」
「……そう…」

 それ、前にも誰かに言われたような。初対面だし、そもそも私あんまり声出してないと思うんだけど。そうごちると、メガネの彼は「練習中こっちにも声聞こえてきてたんで」とあっけらかんと言い放った。そっか、いや、うん、言われてみればそうでした。部員に声掛けするのに声出してました。

「あの、このことは誰にも言わないでほしい…」

 スマホを拾い上げ、画面を見つめながら呟く。少しだけ間が空いてから、「はあ、まあ…言いませんけど」と頭上から彼の声が聞こえた。気まずい沈黙が流れる。

「まあ、一回だけ僕の言うこと聞いてくれるなら、ですけど」

 そう言ってしゃがみ込んだメガネの彼は、私の手ごとスマホを握りしめる。拒否権はないその物言いに、私は思わず反射でこくこくと頷いた。いや、そもそも私に拒否できるほどのコミュ力はない。
 頷いた私を見て、メガネの彼は一瞬ぽかんと目を小さく開いてから、バツの悪そうな顔をしてそっと私の手を離す。そのまま立ち上がり去ろうとしたメガネの彼に、私が呆然としていると、視線を感じた彼が嫌そうに振り返った。

「みょうじさん、そんな易々と頷かない方がいいんじゃないですか」

 そう言って、メガネの彼は「失礼します」と今度こそその場を去っていく。なんだか掴みどころのない人だ、と思った。というか、私の名前知ってたんだ。純粋に疑問に思ったものの、そりゃ同じ合宿所にいるのだから、マネージャーの名前くらいは把握しているのかもしれないという考えに至る。というか、知らない私の方が問題なのでは。すみませんね、と心で謝りつつ、でも分からないものは分からないと開き直る。
 結局彼はどこの誰だったのだろう。

20230410
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