月の出を知っているかい
「坂道ダッシュ行くぞ!」と何度目かの叫ぶ声に、自分のことではないのに眉にシワが寄る。声の主は、烏野の主将だ。思わずチラリとそちらを盗み見ると、何回目か分からない坂道ダッシュだというのに、奇声をあげながら坂道を登っているのが目に入る。相変わらずの体力おばけ。怖…。

 月も出てきた頃、合宿一日目の練習はお開きとなった。
 今日の夕飯担当は、かおりと雪絵と英里で、彼女たちは一足先に体育館を去っている。「あれだけ人数いるけど、夕飯までに食べにくるのは一握りだけだろうから」とはかおり談だ。最初は何を言っているのか、と思ったけれど、当たり前のように自主練に入る部員たちを見て納得する。たしかにこれならゆっくり夕飯を準備しても間に合いそうだ。

「みょうじ〜」
「何?」
「これから犬岡と福永と自主練するから、ボール出し頼むわ」

 汗をタオルで拭った夜久に、私は「ええ…」と呟く。マネージャーはこの時間は片付けを終えてしまえば、自由時間だ。同じく自由時間であるはずの仁花は、日向たちを追いかけてどこかへ行ってしまったし、潔子の姿も見当たらない。きっとこの様子なら、潔子も自主練に付き合うのだろう。
 なら私は、自分の時間を過ごそうと決めていたというのに。そんな決意を固めてしまってから受けた、夜久からのもう一仕事に正直耐え切れる自信はない。
 逃げ道はないだろうか、と当たりを見渡していると、孤爪の姿がないことに気がついた。あれ、ついさっきまでそこにいた気がしたんだけど。

「…孤爪は?」
「研磨は部屋戻った」
「ええ…」

 なら私も部屋に戻りたい。そう訴えた視線は夜久によって完全スルーされ、私はずるずると首根っこを掴まれる。それを見た灰羽が「ドンマイみょうじさん!」と笑った。悪気ないあたりが腹立つんだよなあ…。そんな灰羽と、私を連行する夜久を見た黒尾が、「ならリエーフは俺のところでレシーブ練習だな」と呟いたので、私はざまあという意を込めて鼻で笑っておいた。

 

「そういえば、烏野のリベロ、ジャンプしてたよね」
「ん?ああ、夕のジャンプトスか」
「多分それ。夜久はやらないの?」
「あー、まあ、やれないことはないだろうけど」

 夜久はうーん、と考えてから、「必要になればやるわ」と笑う。あっさりとやれると言い切ってしまうあたり、実は夜久はすごい選手なのかもしれない。ふーん、と返事を返す。
 私たちの間に沈黙が落ちた。私たちの前を歩く犬岡の声が大きく聞こえてくる。犬岡はなにやらずっと口を動かしていて、福永が頷いてしかいないというのに会話は途切れることはない。

「みょうじはさ、変化することって悪いことだと思うか?」
「え?なんで?」
「いやさ、烏野のメガネくん見てたらなんとなく思ってさ。良くも悪くもあいつだけいつも通りだっただろ」

 夜久の言葉に、昼間の光景を思い出す。ううん、と言葉を濁して下を向いた足元の先は、月の光だけが照らしている。

「数年前までは、変化って怖いことだし嫌だなって思ってたけど。今はそうは思ってない。だから悪いことだとは思わない、かな」
「だよなぁ…」
「でも、それを教えてくれたのは夜久だから」

 俺?と首を傾げる夜久に、私は視線を上げてうんと頷く。

「だから、メガネくんにもそれを教えてくれる人が現れるといいね」

 そういって笑った私に、夜久は一瞬呆けたように足を止めると、ニッと笑って「そうだな」と私の背中を叩いた。

 
△▼△

 
「そろそろこっち切り上げて黒尾んとこ合流するか」と言い放った夜久に、私は「はあ!?」と再び声を荒げる。ボール出ししかしていないとはいえ、もうヘロヘロだ。
 嫌だ!と声を張り上げた私に、夜久は「そんな声出すの珍しいな」と驚いていたものの、ひとまず合流しようという話になり、私たちは第三体育館へと乗り込んだ。

「おいリエーフ転がってんじゃねえ」
「げえっ!夜久さん!」

 げってなんだ!とキレる夜久の後ろを、嫌々ついていく私とすれ違うようにして、月島が第三体育館を出ていく。自主練終わりなの?私も連れて行ってくれないかな、なんて遠い目をしていたら、なんとも言えない表情をした黒尾と目が合った。
 困ったように肩をすくめてみせた黒尾に首を傾げながら、灰羽の元へと歩みを進める。「起きて灰羽」寝っ転がっている灰羽の背中に、容赦なく近くに落ちていたバレーボールをぶつけると、灰羽は「痛ァ!?」と蹲る。その様子を呆れたように見つつ、私の耳は黒尾たちの会話へと傾いていた。
 どうやら、黒尾が挑発した挙句地雷を踏んで怒らせたらしい。なるほど、想像がつく。呆れそうになった私は、黒尾の「でもよお」と続いた言葉に目を瞬かせた。
 つい先ほど話していた夜久との会話を思い出す。彼はもしかしたら、変化を恐れているのかもしれない。周りの変化はもちろんのこと、自分自身が変化することを。その恐れの中に理由があるとしたら、変化をすることは確かに彼にとって怖いことで、受け入れ難いものなのだろう。

「…夜久」
「おー?」
「え、ああ、いや、ごめん。なんでもない」

 思わず呼んだ声を拾い上げた夜久が、顔をこちらに向ける。それに慌てて首を横に振れば、彼ははあ?と首を傾げて視線を前へと戻した。
 私には、夜久がいたから受け入れられたけど。月島にはいるのかな、そういう相手。
 
 
△▼△


「……」
「……」

 どうしてこういうタイミングで、私は出会ってしまうのだろう。目の前には、今日一日音駒で話題になっていた月島がいる。「どうも」ペコリとお辞儀をされたので、私も慌ててペコリとお辞儀をして踵を返そうと体を動かした。

「あの、みょうじさん」
「…は、はい」
「前回の合宿でのアレ、覚えてます?」

 月島の言葉に、忘れるわけがないだろう、と足を止めゆっくりと振り返る。心底嫌な顔をしていたのか、月島は「何ですかその顔」と呆れたように見下ろした。

「お願い聞くってやつでしょ。忘れてないよ」
「ならお願いなんですけど。そちらの主将さんに、もう自主練誘わないでくださいって言っておいてくれませんか」
「…はあ?」

 お願いというから身構えたけれど、予想に反して告げられた言葉に、それだけでいいの、とはならなかった。明らかに機嫌の悪い彼の言葉は、まるで八つ当たりをしているかのようだ。なるほど、たまたまそこにいたのが私だったというわけか。
 いま頃部屋で夜久たちと盛り上がっているであろう黒尾さん。あなたのせいで、私まで被害を受けていますよ。なんて心で悪態をついても、黒尾がやってくることはない。
 「それくらい自分で伝えなよ…」呟いた私に、月島はハッとした表情をしてから「…それもそうですね」とごちた。月島は、はあと数回こめかみを揉んで、すみませんと一礼をする。きっと根は真面目な人なのだろう。
 気まずそうにしている月島に、生憎と私がかけてやれる気の利いた言葉はない。

「…私が歌い手始めた理由ってさ、夜久なんだよね」
「…は?」
「私、人見知りだから。誰かと関わるって本当に無理で。関わったってどうせ上手くいきっこないって思ってたし。自分の中のそれを変えることって本当に難しいことだと思う」
「はあ」
「…だから、まあ。焦らなくてもいいんじゃない」

 歌い手を始めたあの時の私に夜久の言葉しか響かなかったように。きっと月島もまた、月島の求める誰かの声しか響かない。

「…なんてね。独り言」
 
 けれど、きっかけの一つになればいいなと、そう思った。はあ?と首を傾げる月島にはやっぱり届いていないようだけど。
 でも、それでいいと思った。月島が心を許す誰かが手を差し伸べてくれたその時に、少しでもこんな話を思い出して、月島が素直にその手を取れるように。少しだけそのお手伝いがしたいと、柄にもなくお節介を焼いてしまっただけなのだから。
 じゃあね、と踵を返した私を、月島が呼び止めることはない。

「…あ、黒尾にメッセージ入れとかなきゃ」

 貴重な年下からの一回限りのお願いだ。我に返った彼に「無効です」と言われる前にお願いを聞いておかなければ。
 内容をそのまま黒尾に伝えれば、「まじ?しくったわ」と一言返事が返ってくる。これは明日烏野の主将に謝罪コースだな、とどこか他人事のように考えながら、私は部屋までの道のりを歩いた。

20230411
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