揺らぐ
 何だろう、なんか、すっごい嫌な気分…!

 目の前で行われている試合をじっと見つめながら、私は珍しく自分の中に芽生えた感情と戦っていた。黒尾や夜久がバカにしてくる感じとは違う、じめっとしてて絡み付いてくるようなそれに、私の顔はこれでもかと皺寄っているに違いない。
「みょうじもこういう時は感情が豊かだなあ」と猫又監督が珍しそうに見てきたので、私はハッと眉間を揉んで再びコートを見つめる。
 コートの中でも、それに当てられた灰羽や山本がミスを連発していて、海や夜久が「イライラしないよ〜」「アツくなんな!」と声をかけているのが聞こえてくる。まるで本当に蛇と戦っているような錯覚さえ感じる空気だ。
 きっと彼らも頭では分かっている。けれど、彼らに当てられるようにして、イライラが募っている。それが形になって現れたのは、山本だった。
 ドン!と一層派手な音が鳴り、山本の顔面にボールが直撃する。思わず立ち上がった私に、猫又監督が手を前に出して制止した。
 この位置からは顔面のどこに当たったのかよく見えなかった。もしかしたら鼻を打っているかも。ハラハラと視線を右往左往させる私の目の前では、夜久や灰羽が山本の状態を確認している。
 どうやら当たったのは目だったようで、大丈夫だと山本は手を振ってみせた。そんな山本を狙った1番はといえば、ビシッと腰を90度に折り曲げて謝罪の姿勢を見せている。「偉いなー」「ちゃんと謝ってる」なんて声が観客席から聞こえてきて、私は思わず顔を歪めた。

「山本、本当に大丈夫?」
「っス!だだ大丈夫っス!」

 タイムアウト早々に、私は山本へと駆け寄り、顔の状態を確認する。「タイムアウト中、一応これ顔に当てておいて」と保冷剤を渡し、首回りも念のため確認する。ひとまず赤くも青くもなっていないし大丈夫だろう。
 そんな山本の隣では、煽りに煽られた灰羽が怒りを露わにしている。どうやら、あの爽やか姿勢はやはり彼らの猫かぶりだったらしい。「前はやんちゃだったんだけどなあ」なんて笑う黒尾は、あまり気にしていない様子だった。さすがミスター煽り男。煽りの耐性は強いらしい。

「…この感じ、嫌い」

 タイムアウトが終わっても、纏わりつく嫌な雰囲気は変わらない。審判たちだって人間だ。自分たちのミスを認めた上で敬意を払ってくれるチームにいい気持ちになるのは当たり前のこと。それに加えて、灰羽や山本はまだ気持ちよくスパイクが打てていない。

「…え?」

 潜が、灰羽のスパイクを拾いあげるその一瞬、彼はチラリとこちらを見た気がした。まるで「ほら見たことか」と言わんばかりの視線に、私の中で何かが切れる音がする。

「灰羽ァァ!」
「リエーフゥゥ!」

 私と夜久の声が同時に灰羽を呼ぶ。呼ばれた灰羽は、どちらに視線を向けていいのか分からない様子でキョロキョロと私と夜久を交互に見ていた。「腕ぶん回すんじゃねえ!」と続けて夜久が言った事で、灰羽の視線は夜久へと留まる。なんか、叫んだらスッキリしたかも。一瞬で冷静になった私は、ふうと一息つくと、椅子に座り直した。

「…みょうじ、お前、そんな大声出たのか」

 直井コーチが呆然とこちらを見つめたので、私はニッと笑う。主審には厳しい目を向けられてしまったけれど、別に悪いことはしてない。蛇に有利な空気になっているのなら、せめて私は、とことん彼らを応援するまでだ。

△▼△

 
「今のって、アウトなんですね」
「んん…そうだな。主審がそういうならアウトなんだろう」
 
  高校バレーではチャレンジシステムはないからなあ、と顎を撫でた直井コーチも、その表情は固い。先に20点台に入ったのは戸美学園で、それにも少なからずコーチは焦りが見えている様子だった。コートの中では、同じような顔をした選手が何人か。黒尾が抗議するも、跳ね除けられたようだ。
 1番のスパイクが、灰羽の手に当たる。「ワンチ!」と叫んだ灰羽の視線の先には、山本。ボールは勢いよくその後ろを飛んでいく。
 そのボールにいち早く反応した夜久が、フリーゾーンを超えて観客側へと飛び込んでいく。その姿を視界に捉えて、夜久が着地をするその瞬間。私は思わず立ち上がった。

「や、夜久!」
 
 ボールがコートに落ちる音がする。力強い音だ。どちらが決めたかは分からない。粘りを見せた戸美かもしれないし、前衛で戦っている灰羽かもしれない。いや、それよりも。それよりも、だ。
 夜久が、観客の足を踏んでしまい、足を変に捻らせた瞬間。まるでその一瞬がスローモーションのようだった。着地によろけた夜久を見て、猫又監督も直井コーチも慌てて立ち上がり、夜久へと走り寄る。

「大丈夫っスか、夜久さん!」
「クソッ…!」

 こちらの緊急事態にいち早く気づいた黒尾が、こちらに駆け寄ってくる。その間にも、夜久は踏んでしまった相手に謝罪をして、その一歩を踏み出そうとしている。けれど、その一歩は踏み出されることなく、夜久はその場に蹲った。慌てて直井コーチが夜久を支え、猫又監督が冷静な声で「芝山!」とその名を呼ぶ。
 「大丈夫です、俺はジャンプしないんだし」と食い下がる夜久に、直井コーチが制止をかける。私は慌ててアイシングの準備のために走った。

「やっくんにはいつも面倒かけてるんでね。たまにはベンチから音駒の勝利を見るのも良いんでない?」
「心配するな、全国大会までのちょっとした休憩だ」

 黒尾と海の言葉に、夜久はそれまで開いていた口を一文字にきゅっと閉じる。それを合図に、直井コーチと犬岡が、夜久の両肩を支え直した。

「俺は、擦り傷とか打撲とかいつもの事だけど。この一年、それ以外は怪我も病気も一切やってないんだ」

 アイシングの準備をしながら、背で夜久の言葉を聞く。夜久の声は震えていた。
 ダメだ、泣くな。ぐ、とこれでもかと下唇を噛み、ひたすら目の前のことに集中しようと手を動かした。

「何で今なんだ、なんで…!」

 夜久の悲痛の叫びは、きっと、両肩を支えていた直井コーチと犬岡、私と猫又監督にしか聞こえていない。けれど、きっと、黒尾も海も、悔しいのだと思う。その証拠に、彼らの瞳は、勝利へと一層燃えている。

「夜久、アイシングするから床に座って」

 私の言葉に、直井コーチと犬岡がそっと夜久を地面へ下ろす。捻挫ってどういう症状だっけ。適切な対処は。混乱する頭で潔子から教わった知識を必死に思い出しながら、台の上に足を乗せ患部に氷嚢を当てていく。氷嚢を固定するように弾性包帯を巻いていると、夜久がぽつりと「みょうじ…アイシング手慣れてね?」と呟いた。

「て、手慣れてるわけないでしょ…!こっちは捻挫なんて無縁だよ!」
「はは、それもそうか。お前、この前まで帰宅部だったもんな」
「そうだよ!帰宅部だったんだよ!これだって見様見真似だよ!」

 叫びながら包帯を巻き終えると、夜久はおかしそうに「みょうじ元気だなー」と笑う。元気なわけあるか。こっちは必死に涙堪えていると言うのに。夜久がまだ一度も泣いていないから、こっちだって泣かないでいようと必死なのにこっちの気も知らないで。
 視界がぼやけそうになるのを感じて、私は慌てて下を向く。夜久の足、痛そうだな。包帯が巻かれて真っ白だ。そんな私の頭上で、夜久が「はあ〜!」と息を吐く。

「俺、ダメダメだな。みょうじにいいとこ見せてやるって言ったのになー」

 後ろに手をついた状態で天井を見つめる夜久からは、悔しさがひしひしと伝わってくるようだった。こんな時、私はなんて言ったらいいんだろう。いつも夜久には励まされているのに、肝心な時、私は伝えるべきその言葉を持っていない。

「…ごめん、夜久。私、励ましとかできない」
「はは、知ってる」
「…でもさ」

 コートに視線を向ければ、戦っているあいつらがいる。
 
「黒尾と海に任せておけば大丈夫だと思う」

 夜久が、誰よりも黒尾と海を信頼しているのは、ずっと話を聞いてきたんだから知ってる。私の言葉をじっと聞いていた夜久は「そうだな」とコートへと視線を送る。

「それに、夜久には全国でいいとこ見せてもらう予定だから」

 まあ、今日の夜久も絶好調でカッコよかったと思うけど。その言葉は、全国で彼らを見届けてから言っても遅くはないだろう。まあ、気が向いたら言おうと思う。そう決心して、私はコートの中の彼らを見つめた。

20230422

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